第4話 コンコースで(香月響介)
香月響介は、市営地下鉄麻生駅コンコースに置かれたストリートピアノに向かっていた。
札幌市から演奏の依頼が来ていたからだ。
響介は、ピアノを始めたのは幼稚園の頃からだ。
高二になってから国際大会にノミネートされる程に腕前を上げ、名前は広く知られるようになっていた。
有名にしたのは、ピアノだけではなかった。
アニメ映画に憧れて、始めたバスケットボールでも異才を発揮してしまった。
父親譲りの高い身長、リズム感もあり、腕前もかなりのスピードで上達し、一年でレギュラーに抜擢されていた。
静かでクールな響介は、バスケットアニメのキャラクターイメージと同調し、校内では絶大な人気を獲得してしまった。
だが、バスケットは高校を卒業するまでと決めていた。
それは、三年前に心筋梗塞で父親が亡くなってしまったからだ。
経済的な事情で、バスケットとピアノの両方をすることは、叶わなかった。
どちらかを選ばなければならない。
響介は、幼い時から弾いていたピアノを選んだ。
今日は、支援してくれた人々に感謝の意味も込め、ピアノを聞いて貰おうとこの場所にやってきた。
既にピアノの周りに人が集まっていた。
この時間に響介が演奏することは、広報誌に小さく出ていたが、ファンは気付かないはずがなかった。
バスケのレギュラーで、ピアノが弾けるイケメン高校生なんて、女子がほおっておくはずがない。
その女子の中に、”一色絢音”もいた。
響介が、現れると人は道を開けた。
人々の目が響介に向けられた。
特別な才能がある人物は、遠くに居てもその存在が感じられるらしい。
それだけのオーラを持った人物。
響介は、その特別な人物の一人に違いなかった。
響介はピアノの前に立った途端、静寂がやってくる。
これから、始める演奏を息を止めて見守るのだった。
前から、ここで弾いてみたかったんだとピアノを撫ぜる。
ゆっくりと椅子に座る。
高さと位置を調整。
鍵盤の蓋を開ける。
白と黒の鍵盤が目に入る。
鍵盤の上に両手を置く。
目を閉じて呼吸を整える。
集中。
周りの音が消える。
頭の中に音が流れる。
それに合わせ、響介の指が躍る。
なんて、繊細な音なのだろう。
その繊細な音を聞き逃すまいと、人々が耳を澄ます。
この曲は、月の光。
次の曲にかかろうと思っていた。
響介は、人が動く空気と気を感じた。
何だろう?
遠くから何者かの気配が迫ってきていた。
響介は、演奏をやめ周りを見回した。
「フロウシャだ!」
声が響介の耳に入った。
悲鳴が聞こえる。
人波が二つに割れた。
その先には、大きな身体の浮浪者が仁王立ちしていた。
「浮浪者……」響介が呟く。
子どもが逃げ遅れて、浮浪者の前に居る。
浮浪者は子どもに近づいていく。
母親が浮浪者と子供の間に入った。
浮浪者の太い腕は、いとも簡単に母親を払いのけた。
危ない!
響介の体が勝手に動いていた子どもを助けなければと。
気づくと子どもの前に立ち、浮浪者と向き合っていた。
響介と浮浪者が睨みあう。
響介は、浮浪者から目を離さずに子どもの手を引き、人込みの中に誘う。
気づいた大人は、子どもを人込みの中に飲み込んでいった。
響介が子どもの行く先を気にして、目を逸らした途端に浮浪者が響介に襲いかかった。
早い!
響介は、あっと言う間に腕を掴まれ、振り回され投げ飛ばされた。
放物線を描いて人波の上に落ちていく。
誰かに受け止められたようだが、耐え切れずに一緒に床に転がった。
「ありがと」
響介は、受け止めた人にお礼をいい立ち上がった。
響介は、浮浪者から目を離さない。
「やめなさいよ!」
凛とした女の声が、ホームに響いた。
女子高生だった。
浮浪者は、その女子高生の胸倉を捕まえ高々と持ち上げた。
「やめろぉ、絢音ぇー!」
響介の後ろから、聞こえた。
その声の主は、響介を受け止めた人だった。
「逃げろ!」
見覚えのある男の声。
ア・ヤ・ネ?
訊いたことのある名前。
響介は、思い出した。
絢音だ。
小学校まで一緒だった絢音。
そして、アイツは真琴だ。
面影がある。
響介のシナプスが一斉に覚醒する。
押し寄せる波の様に、あの頃の記憶が蘇る。
二人ともまだ一緒にいたんだ。
つい響介の口元がほころんでしまう。
こんなところで、二人に会えるなんて。
嬉しい。
だけど、しかもこのタイミングでか。
幼稚園の頃、響介がピアノを弾いてた時、いつも絢音がそばにやってきた。
響介が絢音に顔を向けると、顔をちょっと傾け笑顔で、「座ってもいい?」と訊いてきた。
響介は、思わず頷いてしまった。
そして、腰をずらして席を空けた。
絢音は、横に座るとずっと響介の顔と鍵盤の上で華麗に踊る手を見ていた。
そして、弾き終わると、耳元で言ったんだ。
「この曲、大好き。キョウスケも」
頬に軽くキスをしてくれた。
響介は、うれしくてうれしくて、それからピアノを練習した。
あの時からずーとだ。
大人以外から褒められたことが無かったから。
そうか、絢音か。
遭えてうれしいよ。
浮浪者の動きが止まった。
そして、ゆっくりと真琴の方を見た。
「いたぁー。みつけたぁ」
浮浪者は、持ち上げた絢音をひょいと線路の方にほおり投げ、真琴に向かっていった。
響介の身体は、バスケットボールを追うように反応していた。
キュッというシューズの音が、ホームに響く。
一歩、二歩、三歩目で、身体を沈めてジャンプした。
バスケで鍛えた跳躍力で、滞空時間の長いジャンプは、空中で止まったように見える。
そして、その空中で止まっている響介の胸の中に絢音はすっぽりと受け止められていた。
事故に遭った時は、ゆっくりと時間が過ぎると訊いたことがある。
まさに、今、その時だった。
響介の脳は、フル回転を始める。
状況を処理しようと、色の情報を捨て、モノクロの世界へと。
響介は、スローモーションで流れる世界を見ていた。
響介と絢音は、ゆっくりと空中を移動している。
止められない……
二人の体は、ホームドアの上を越えようとしている。
このままだと線路に落ちてしまう。
電車がホームに入って来ている。
電車のライトが眩しい。
これって、よくあるヤツじゃん。
電車に轢かれるヤツ、
ドラマにあるヤツじゃん。
まいったな……
運転手の顔が、ライトが眩しくて見えない。
響介は、絢音を抱きしめる。少しでも衝撃に耐えられるようにと。
ふわっといい香りがした。
女の子の香り?
気が付くと絢音の目が響介を見ている。
「絢音?」
響介は、思わずつぶやいた。
絢音の顔が、ゆっくりと響介に向けられる。
「遭いたかったよ」
絢音には、そう聞こえた気がした。
「私も」
二人は、見つめ合っていた。
ホームに滑り込んできた電車が近づく。
目の前が暗くなった。
電車のブレーキの音が、ホームに響き渡る。
誰かが響介を呼ぶ声が遠くで聞こえた気がした。
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