カプチーノをあたためてⅣ

 帰ろう、と言ってくれた冴木は階段を下りずに上に向かっていった。みどりは慌てて後を追って声を掛ける。

「冴木くん、帰らないの?」

 冴木がこちらも見ずに答える。

「みどりちゃん、図書室行かない?」

「返却本でもあるの?」

「ない……けど、そうだね。何か借りようかな」

 みどりには、冴木の真意が読み解けなかった。別にいつも一緒に図書室に行く習慣があれば別だが、冴木から図書室に一緒に行こうと言われたのは初めてだった。でも、少しでも彼と一緒に居られるならば図書室に寄るのはやぶさかではない。階段を一段飛ばしでのぼって、横に並んだ。

「借りるなら、何かおすすめ教えてあげる」

 みどりと冴木は三階の図書室に入る。図書委員の子が、カウンターに座って単語帳とにらめっこしていた。他にも数名、机に座ってノートを広げているものや、本を読んでいる人がいる。

 冴木は机のほうにはいかずに、荷物も持ったままどんどんと本棚の奥へと進んでいく。みどりは諾々だくだくと背中を追う。ほとんど立ち入ったことのないエリアに踏み入って書棚に目を向けると、海外の本がいくつか置いてあるのが分かった。

 図書室の隅。カーテンが僅かに開いていて、差し込む光が神秘的だった。まるで何かのエフェクトのように、うっすら埃が飛んでいる。静謐せいひつな空間で、冴木が立ち止まった。みどりも、ここに何か目的の本があるのかと辺りを窺う。

「何か、借りたい本あるの?」

 みどりが質問するけれど、冴木は首を横に振った。みどりにしか聞こえないぐらいの声量で、彼はぼそりと言った。

「どうして、あんなことしたの?」

 みどりもボリュームを押さえて応える。

「あんなことって……?」

 本当に何を言っているのか分からずに、みどりは眉根を寄せた。冴木と二人で密会しているような状況に少なからず興奮していたのもある。本当なら、何の話をしているのかすぐに分かるはずだったのだ。

「どうして、生活作文を消したの?」

 みどりはすぐに答えられなかった。理由は二つある。一つは、何のことを言っているのか、しらを切ろうかと思ったこと。もう一つは、どうしてバレたのかと質問しようとしたこと。

「みどりちゃんが、やったんだよね?」

 もう何か確信を得ているんだろうというのは、冴木の目を見て分かった。みどりは叱られているわけでもないのに、俯いて小さく頷いた。

「冴木くん、どうして分かったの?」

「……ペン、見たから」

 冴木がマーカーペンを拾ってくれたときのことを思い出す。あの時机に筆記用具をばらまかれたとき、みどりは少し焦ったのだ。そこに、証拠品があったから。

「あのペンは」

 冴木が言葉を続ける。

「フリクションペンだよね。こすると消える、ボールペン」

「……うん」

 消せるボールペンは、熱で消える。それは、みどりが兄から教えてもらったことだった。こすることで、摩擦熱が生じてインクが透明になる。みどりはそれを知っていて、生活作文をわざとフリクションペンで書き上げた。この猛暑のなかで、書き上げたものが一部分でも消えれば、朱莉がどんな目に遭うのか。それがみどりにとっての密かな復讐だった。

 しかし、渡す前に消えてしまってはいけない。みどりは文字が消えないよう――つまり、温めないように保管して学校で朱莉に手渡した。その後はどうなっても構わない。消えれば、こちらの思うつぼ。消えなかったらそれはそれで、今回の策は失敗に終わったと素直に諦めがついただろう。でも、朱莉は代筆したみどりに対して感謝の言葉一つ述べなかった。それに、あの不敵な笑みをみたとき、きっと事あるごとに弁当の話を持ち出して再び恐喝をするのではないのかと恐れが沸いた。

 明後日の土曜日の発表までに、何とか台無しにできないか。みどりの目に映ったのは、石灰石で温める弁当箱。自由研究で、あれだけ調べたのだ。あの石灰石は、最高で百度近くまで上がる。フリクションインキが

消える温度は、調べたら六十五度だという。暑い日は車のダッシュボードに置いても消えるとの話だ。

「みどりちゃんは、五限目のプールのときに途中で退席したよね? その時に、石灰石の仕組みを使って消したんじゃないかなって。温める用のお弁当の容器が家にあるって言っていたから」

 冴木が推測を話す。もはや肯定する気にもならなかった。なぜなら、冴木の言う通りなのだから。

 木曜日に表彰の話をきいたとき、すぐにこの作戦は思いついた。ボールペンでこすっていては時間がかかりすぎる。なにせ、生活作文は枚数が多いのだ。それをまとめて消すには、全体をあっためてやればいい。加熱式の小さなお弁当箱は金曜日の今日、こっそり持ってきていたけれど、直前までは使うのを躊躇っていたのだ。

 冴木がじっとこちらを見ているのが分かった。しかし、みどりは顔を上げることが出来ない。

 それでもみどりは、まだ軌道修正がきくのではと淡い希望を持った。

「でも、そのお弁当箱はどこにもないのよ。朱莉があれだけ教室中をひっかきまわしたのになかったでしょう?」

 朱莉は原稿用紙が差し替えられたのではと、教室中を探し回っていた。ロッカーや、みどりのランドセルの中、更にはゴミ箱の中まで。でも、弁当箱はおろか、フリクションインキを温められそうなものは何一つ出ていない。いくら状況証拠が揃っていようと、物的証拠がなければこの仮説は成り立たない。

「証拠は、みどりちゃんがしっかりと回収したのを見たよ」

「回収? いつ、どこにあったの?」

 みどりは手に持ったままの給食袋をぎゅっと握った。冴木の視線は、みどりではなく給食袋に注がれている。

 母親経由でもらった加熱式の弁当箱は小さなものだ。それでも、紐を引いて加熱を始めると箱の上からうっすらと蒸気が出た。紙に直接当てては燃えるかもしれないとおもい、様子を伺いながらトートバッグ越しに生活作文を温めた。もしもそれで消えなければ、諦めようと思っていたがなんのことはない、夏休みにあれほど時間をかけた作文は跡形もなくなっていた。

 しかし、この弁当箱が見つかってしまえば疑念を抱かれるだろう。ゆくゆくは、フリクションペンの仕掛けに気付かれる可能性がある。あまり教室の外をうろついて、授業中の他クラスの前を通るわけにもいかない。だが、隠し場所は近くにあった。

 今日は金曜日。一週間の役目を終えた給食袋は、みどりの手元に戻ってくる。朱莉が当番の日は必ずそうなのだ。まさしく灯台下暗しとなり、弁当箱の隠蔽は出来た。しかし、教室の暑さもあってかいつまでも熱を持っていたそれは、隣あっているトートバッグを温めていた。朱莉がトートバッグを触ったときには肝が冷えたが、彼女は気付けなかった。

「あはは。冴木くん、すごいね。探偵みたいだよ」

 みどりは力なく笑う。図書室の隅はまるで二人だけが隔離されているかのようだった。

「……僕は、探偵ってなんでもお見通しみたいで格好いいなって思った。けど、違った。僕はみどりちゃんのやったことを見抜いたのかもしれない。けど、ちっとも嬉しくないんだ」

 冴木の表情が曇った。

「説明しようとすると、まるで追い詰めているようになる。それに、みどりちゃんはきっと隠し通したかったはずだ。でも、僕はそれを暴いた。決して僕に、みどりちゃんを裁く資格なんてものはないっていうのに」

「ううん、冴木くん。自分をそんな風に言わないで。誰にも気づいてもらえなかったらわたしは……もっと酷いことをしようとしていたかもしれない。冴木くんが、それを止めてくれたんだよ」

 みどりは本心を言った。だが、冴木は苦しそうに頷くだけだった。

 その表情を見て、みどりは自分がしたことの愚かさを、醜さを、身に染みて感じた。こんなことをするぐらいだったら、きっぱりと断る勇気が必要だったのではないだろうか。こそこそと裏で手回しして、本当は朱莉が土曜日のスピーチ発表のときに作文の文字が消えていることに気付いて絶望したらいいのにとさえ思っていた。気付かずに帰るのを見届けるために、教室にいたというのに。そんな卑しさを持ち合わせていた自分自身に、みどりは心底怯えた。

「このことは……誰にも言わないよ」

 冴木が表情に影を落としたまま呟いた。

「うん……」

 みどりは頷くことしかできない。冴木はみどりの横をすっと通り越して、その場を後にする。

 きっと失望させただろう、とみどりは悔やんだ。気が付くと、頬を熱いものが伝っていた。

 みどりは、冴木が好きだった。図書室に行くのは本当にうれしかったし、温められるお弁当箱を見せるのも楽しみだった。でもそれはもう叶わない願いになってしまった。人を貶めるような人間を、誰が好むというのだろう。みどりは冴木に好まれる人間になりたかったのに、今回の事件は完全に矛盾した結果を招いている。

「みどりちゃん」

 冴木が振り返った。みどりは泣いている姿を見られたくなくて、振り返れない。

「またね」

 その言葉に、みどりは答えられなかった。なぜなら、涙がとめどなく溢れて、息をするのもままならなかったから。

「やっぱり……冴木くんは優しいよ」

 みどりは座り込んで、涙を拭う。ふと横を見ると、冴木が教室で読んでいたグリム童話の本が置いてあった。ゆっくりと本を抜き取って、最後のぺージを開く。そこに貼られた貸出リストに、指を這わせる。

『六年一組 冴木 瞬』

 その文字をなぞるだけで、みどりの胸はいっぱいになった。

 

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探偵なんて、うんざりだ。 霧氷 こあ @coachanfly

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