『運悪く、悪い病気や悪意のある人間に目をつけられたら、もうそこでおしまいなんだよ』


 異論はない。私は、小さくスンと頷いた。


『たとえば誰だって、最初は今日死ぬつもりはなかったんだ。たぶん、思ってたより早く終わりが来てしまったんだ。だから、どんなに』


「ん?」

 紙のスペースが足りなくなったらしい。


『どんなに嫌なことがあっても、腐ってる時間なんてないんだよ』


 手のわりにやけに語るが、それが彼の無念を表しているのかもしれない。

 だから死にきれなくて、切り刻まれて詰め込まれた鞄の中でも生を保っているのだろう。


 私は、彼がおとなしくなると、鞄ごと約束どおりクローゼットに入れた。

 念のため開けて出て来られないように、その扉の前にレンジ台を引き寄せた。

 すっかり静かになったところで、灯りを消しベッドに横になる。

 カーテンの隙間から見える外は、ひとつきり見える街灯が雨で乱反射していた。



 翌朝、うっすらとした陽の光で目覚めた。

(朝になっちゃったか……)ため息が出る。

「今日は仕事に行く気しないなあ」


 身体を起こした私は、クローゼットにぴったりと張り付いているレンジ台を見て、夕べの出来事が夢でなかったことを知った。

 となれば、今すぐやらねばならないことはただ一つ。

(他の住人に気づかれないうちに、外へ出しておかないと)

 私は、レンジ台を元に戻してクローゼットを開けた。

 彼は、気配を感じていたのだろう。紙切れを構えていた。


『おはよう』


 あきれた。

 人の気苦労も知らないで、ほんとにのんきな死体だ。

「はいはい、おはよう。さっそくだけど……」

 そう言って鞄を引っ張ると二枚目の紙が出てきた。


『このあと玄関のドアを開けたら、昨日の嫌なことは忘れて、そこは新しい世界だと思って飛び出すんだぜ?』


「……もう! 忘れたくても、君が思い出させているんだよ?」

 彼は即座に『ごめんww』と寄こした。


 鞄を外に出すと、私は身支度を整えた。そして、外で朝ご飯を食べるつもりで、いつもより早めに家を出た。

 ドアの外には、あの鞄があった。そこから、親指を立てた手がまっすぐ上に伸びていた。

 自分も親指を立ててみせる。

「それじゃあ、いってくるね」

 彼は、反応して手を左右に振り始めた。

「いいから、もう中に入っておきなよー」

  

 私はパンプスを軽快に鳴らしながら階段を下り、道にできた水たまりを避けながら歩いた。


 

 それから彼がどうなったかはしらないが、アパートからいなくなってからも管理人さんは何も言ってこないし、ニュースにもなっていないから、たぶんまたどこかで誰かに拾われるのを待っているのだと思う。





(了)

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あけてはいけない 悠真 @ST-ROCK

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