火威と龍

 僕にとって龍は幻想の生き物だった。


 大学の寮の窓から見える山は、ちょうど赤音山くらいの高さだったが、大雨が止んだ後の山頂近くに、長い帯状の雲がかかることがあった。

 ときどきそれが白い龍に見えたりすることがあって、実在するとしたらあんな感じなんだろうか…などと想像したものだ。とは言え、想像が幻想の域に入ってしまうと、かすかな畏怖を感じたりすることもあった。それは、雄大な自然界への畏れに似たものでもあった。


 僕が今いるのは現実と幻想が反転した世界…何が起こっても不思議ではない場所だ。不穏な水面の揺れを緊張しながら眺めていると、知らぬ間にタテハが僕のすぐそばにいて、同じように無言で水面を見つめていた。


 「何かいる、何か動いてる」

 突然の緊迫したタテハの声で僕はさらに身を固くした。


 流果が腰に差していた諸刃の聖剣を抜いたのを見て、僕たちはともに後ずさりした。


 池の波はいよいよ高くなり、大きな音を立ててうねり出したかと思うと、噴水状に立ち上がり、その水柱から何かが飛び出してきた。


 「火威カイ!」流果が叫んだ。

 「火威?」タテハがほぼ同じタイミングで叫んだ。


 火威と呼ばれた美丈夫は、隆として白い天馬にまたがり、空で金色の龍と対峙していた。武器を使うことなく、龍の動きをかわす騎乗振りに、恐怖心を置き去りにして僕はしばらく見惚れていた。


 「火威ぃ!」赤音集落にいたころの元気なタテハに戻って大声で応援すると、火威は片手を上げてタテハに応え、余裕のあるところを見せるのだった。


 「あれが、樹洞の金蛹きんようから私を誘い出してくれた精霊の火威よ」

 そのとき、タテハだけが受肉して人間となり、火威は精霊のまま目に見えない姿で赤音集落を住処としたのだと言う。

 「小っちゃくて可愛いかったのに、あんなに逞しくなっちゃった」と言ってはしゃぐ。

 中空ではとてつもなくスケールの大きなスペクタクルが繰り広げられているというのに、本来の姿に戻ったタテハは相変わらず、好奇心の強い元気女子だった。


 「さっきまでしとやかな琥珀蝶姫だったのに」という僕の独り言を拾うと

 「流果の前ではね」と囁く。


 流果はと見れば、抜いていた大剣を納め、ふたりの囁き合いには耳もくれずに火威の戦いぶりを眺めている。どうやら火威ひとりで十分だと考えたらしい。


 くねりながら動くたびに空を金色に染めた龍は、やがて火威の指示に従うように大人しくなり、池の中ほどにある小さな島に降りてきた。

 空を飛んでいるときには金色に見えたが、地上に降りると巨大な白い龍だった。恐ろしい獣のような容貌ではあったが、銀色の体鱗に所々金色が混じる姿には、神がかった美しさと神秘が感じられる…

 そんなふうに思いながら龍を眺めていると、火威が白馬と共に僕たちの前に降り立った。


 すぐさまタテハが駆け寄って

 「火威、会いたかったよ」と今にも抱きつきそうな勢いだ。


 それに応えて、火威が馬から下りた。流果に礼をし、僕にも目礼した。

そのあと、タテハに微笑みかけた。


 「すっかり美しくなられましたね、琥珀蝶姫さま」と言って手を差し出すと、

 「やめてよ、まだタテハのままよ」と長身の火威の肩を軽くたたく。

 まるで幼馴染のやり取りじゃないか。幻想の国とは言え、巨大な白龍を目の前にしてする会話とは到底思えない。


 しかし、この状況に戸惑いながらも、僕は少しばかり楽しんでいた。

 学生寮から見たのは雲の龍だったが、今目の前にいるのは本物だ。その咆哮も聞いた。空を自在に飛ぶのも見た。龍がかすかに身じろぎするだけで、僕は興奮した。

 僕は今、類まれなる経験の最中さなかにいるのだ。


 火威によると、金蛹に封じられてここまでやって来たが、静女大巫女、つまり静さんの遠隔呪術により外界に解き放たれたのだった。


 「ここの結界の番人である龍は刹那滅の池に棲む幻ではありますが、侮れない存在として私を使わされたのです」

 「侮れない?」とタテハ。

 「人間には幻を現実化する能力がありますゆえ、その際に兄上様と協力してお二人を守れとのことだと思われます」

 つまり、僕とタテハの思考によってはあの龍がもっと恐ろしい存在になったかもしれないということなのだろうか。

 僕が真剣に考えている傍らでタテハがまた質問した。


 「火威は流果の弟なの?」と言って二人を見比べている。

 興味があるのはそっち?と思いつつ流果を見ると、いつもは威厳があり無表情な彼が、珍しく苦笑している。


 「実際に血縁ではないが、私をそう呼ぶのですよ、火威は」そう返す流果の表情からは、二人の間の信頼関係がうかがい知れた。


 「ところで」火威が少しばかり威儀を正して流果を見た。

 「あの龍は、次の結界への入口となります。我々はあの口の中へ入らねばなりません」


 僕は意味が解らず、タテハと顔を見合わせた。


https://kakuyomu.jp/users/rubylince/news/16818093094536406080

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