第17話
ロックに背を向けるマオルに向かってマージェリーが待てと声をかけた。
「どっちかが死ぬまでやれと言った! なぜとどめを刺さない?」
マオルはその問いには答えずにクリムトのもとまで行くと、痛みを堪えながら右手の骨をまっすぐに直して上着を受け取る。マオルは喋れないからここはクリムトに代わりに語ってもらう他ない。
クリムトはマオルの意を汲むとゆっくりと頷いた。
「勝負はついた、とどめを刺す必要はないだろう? それに……マージェリー、あんたはそのロックとやらがお気に入りのようだ。マオルはそういう人の機微がわかるいい男なんだよ」
クリムトが適当にでっち上げて言った。マオルがとどめを刺さなかったのは無駄な血を見たくなかっただけだ。不必要な殺生はなるべく避けたい、血の匂いで獣欲が呼び覚まされないとも限らないからだ。
マージェリーはクリムトの言葉に悔しそうに爪を噛む。マージェリーがロックを気に入っているというのは事実らしい。クリムトの人を見る目は確かだ。
「ええい、今日のところは負けといてやるさ! あんたたち、ロックをジープに乗せるんだよ、さっさとしな!」
マージェリーは気持ちの良いくらいに悔しいという感情を発露させる。ここまで悔しがってくれるならロック一人の命くらい助けてもお釣りが来るというものだ。
マージェリーの配下たちが慌てて四人がかりでロックを持ち上げてジープの後部座席へと詰め込む。まさか負けるとは思ってなかったのか手際が悪く、それがマージェリーをさらに苛つかせる。
ロックの攻撃もけっこうマオルにダメージを与えていたようで、マオルは上着を着るとその場に座り込んでしまった。ダメージが足まで来てガクガクと震えてしまう。
(一気に決着つけられてよかった。長引いたら負けてたな)
マオルは引き上げ準備をするマージェリーの配下たちを見ながら思う。これから先も獣頭人身が出てくるかも知れないと思うと、ボクシングやら柔道やら、何らかのトレーニングは必要だろう。
クリムトたちは一応警戒しつつ、所在なさげに佇んでいる。そうしていると家の中に隠れていたのか、住民たちがチラホラと姿を見せ始めた。
「約束通りザスートとダムの統治権はあげるわ。住民どもも出てきたようだし、ちゃんと面倒見ることね……覚えておきなさい、そのうち取り返しに来るんだから!」
そう言い残すとマージェリーはジープに乗り込んだ。マオルは、なんか典型的な悪役みたいだなあ、と考えながらそれを見送る。クリムトの持つ無線からは敵が撤退し始めたとの連絡が入った。
マージェリーはしっかり約束を守る女だったようだ。今日一日あれば共和国軍の撤退は完了するだろう。クリムトも前線の兵士に対して手を出さないよう命令を出す。
こうして双方ともにたいした被害も出さずにザスートでの戦いは幕を閉じたのだった。
共和国軍が撤退完了する頃にはもう夕方だった。クリムトとマオルはシーラたちと合流する。
「無事で良かった……また怪我したんですね」
シーラがまっさきにマオルに駆け寄る。怪我は隠しているつもりだったが、シーラにはあっさりとバレてしまった。顔面に肩に腹、そして右手の骨。各所にダメージを負っていて歩き方が変だったのだろう。
とはいえ右手以外は普通の外傷とは違い打撲傷のようなものだから治療のしようがない。冷やすか湿布を貼るのがせいぜいだろう。右手は骨がくっつくのを待つしかない。
「さて、無事ザスートもダムも解放したことだし、皆ホテルで休んでいくといいだろう」
クリムトがマオルとシーラ、グラハムに向かって言った。
「それは良い、野宿は老体には堪えます。マオル君もダメージが有るようだからゆっくりするといいでしょう」
グラハムが頷く。ザスートは比較的大きな都市で、外国人用の少々立派なホテルが有る。一行は後のことを兵士たちに任せてホテルへと向かうのだった。
ホテルにて。日が落ち、夕食も済ませた頃、クリムトがマオルを呼び出した。少し話がしたいのだという。マオルはノートと鉛筆を持つと、シーラを部屋に残してクリムトの部屋へと向かう。
マオルがノックすると待ちかねていたのかクリムトがさっとドアを開ける。
「待ってたよ、グラハム先生も一緒だ。何か飲むかい?」
クリムトの問いに一言、ノートに『お茶』とだけ書いて見せる。真面目な話ならアルコールは入れないほうが良い。クリムトはポットからお茶を注ぐとマオルに差し出しながら座るように促す。
マオルはお茶を受け取ると、ソファーに腰掛けた。グラハムがこんばんはと声をかけてくる。
「話ってのは他でもない、またシーラのことだ。立ち入ったことを言うかも知れないが……単刀直入に言おう、もう抱いたか?」
「ぐへ?」
唐突な問いかけにマオルは間抜けな声を上げてしまう。抱くもなにもシーラはまだ十五になったばかりだ。手を出すにはいささか早いと思う。
『シーラはまだ十五だ、子どもに手を出すわけにはいかない』
「マオル君、唐突だが君のネイティブは何語かね?」
マオルの答えに、グラハムが口を挟んできた。『日本語』と短く答える。それだけでクリムトとグラハムは納得したような顔になる。
「君は記憶喪失らしいが、常識は残っているようですね。ただしそれは日本の、先進国の常識です」
グラハムが説明し始めた。ネイティブが日本語ということは記憶を失う前は日本にいた可能性が高い。ということは常識も日本のそれになるはずだ。
「私も日本に行ったことがあるのでわかります。しかしここはリークス、途上国なのですよ。十四、十五の歳なら子を産んでいる年齢です」
「シーラを大事にしろとは言ったがそういう事をするなと言ったつもりはない」
グラハムとクリムトが立て続けに言う。要するに本当の夫婦になれと言われているのだとマオルは察する。しかしそれは難しい、シーラの裸を見るとまた獣欲が首をもたげかねない。
犯すのはたぶんシーラも抵抗しないだろうが、食ってしまうのは駄目だ。それだけは絶対に駄目だ。将来的にそういう関係になるとしても、それはマオルが獣欲をコントロールできるようになってからだ。
「常識ってのは厄介だな、土地によってガラッと変わってしまう」
クリムトが言ってため息を吐く。それだけの問題ではないのだが、クリムトに獣欲のことを説明するのは難しそうだ。あるいはグラハムならわかってくれるかも知れないがわざわざ長文で説明する気にもなれない。
(シーラの嘘がこんなことになるとは……困ったな)
もともと夫婦というのはシーラが言い出したことだ。マオルは了承した覚えがない。しかし周りはそうは見てくれない。事あるごとにシーラとマオルをくっつけようとしてくる。
マオルは行くあてもないので流れに流されてここまで来てしまった。もしかしたら、戦ってる間にシーラが夫婦仲のことをグラハムに相談したのかも知れない。
「フェンテ君のこと嫌いですかな?」
グラハムの問いにマオルは首を横に振るしかなかった。可愛いし気立ても良いし細かいことにも良く気がつく。なにより相性がいい、嫌いになれるはずもなかった。
「とにかく、マオルはもう少しこの島に馴染め。それからシーラを幸せにしてやれ。好きな相手に抱かれるのも彼女の幸せだと思う」
クリムトはそう言うと、マオルの肩をぽんぽんと叩く。心配からかも知れないがちょっと踏み込み過ぎだよなー、とマオルは思う。思うだけで態度には出さないが。
どっちにしろ今は無理だ、獣欲を抑えるまでは。マオルはその場を適当にごまかすと、そそくさとシーラのいる部屋へと戻る。マオルと周囲の人間との常識の差が浮き彫りになった夜だった。
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