第5話 邂逅
結局、何もできないまま一時間目の授業を受ける。一時間目は国語だった。だが、授業の内容は全く頭に入ってこない。
当たり前だ。そんなことに意識を向けてはいられない。俺の前の席に平然と座る佐藤。何事もなく進む授業。カツカツとチョークが黒板を叩く音が、俺の不安を煽り立てる。
それでもなんとか一時間目を乗り切り……けれど、俺はついに耐えられなくなった。
席を立ち、比較的仲の良い友人グループに歩み寄る。そして、開口一番に聞いた。
「……なあ、片村って今日どうしたのか知ってるか?」
努めて冷静を装って。なんでも無い風に。不安を見透かされないように。
そして……返ってきた返答は、
「え?知らんけど。誰それ。」
くらりと、一歩後ろによろめく。酷い顔をしているのだろう。「大丈夫か?」と声をかけてくる友人の声がやけに遠くに聞こえる。呼吸が安定しない。周囲から現実感が失われ、目眩を覚える。
「っ――。」
俺は、心配して歩み寄ってくる友人のことを無視したまま、走り出した。
教室のドアを乱暴に開け廊下へ。クラスメイト達が何事かとこちらを見てくるが、そんなことはどうでも良かった。
階段をほとんど飛び降りるように駆け下り、玄関へ向かう。靴を履き替える時間さえもどかしい。焦りで何度か転びそうになりながら外に出て校門から飛び出した。
夏の日中だ。住宅街とは言え通学路に人影はほとんど無い。炎天下と言って差し支えない日光の中をひた走る。
遠くにセミが鳴いている。けれどその鳴き声も自分の乱れた呼吸音にかき消されていく。喉が乾いて引きつるように痛むのは、単に脱水だけが理由では無いだろう。汗に濡れた制服が肌に張り付いて鬱陶しい。それでも俺は走り続けた。
走って。走って。走って。呼吸はバラバラで、足がもつれて、汗は雨に打たれたかのように滴り落ちて。
そうして、ほとんど倒れこむようにして、目的の場所へとたどり着いた。
酸欠で胸が苦しい。おかげで顔を上げることすらできない。
……いや、顔を上げられないのは怖いからだ。
そこにあるものを――あるはずのものを見るのが恐ろしい。目を強く閉じる。背中を焼く太陽の熱。聞こえるのは呼吸の音。それが、次第に落ち着いてくる。このまま、目を閉じたまま、うずくまってしまいたかった。
けれど、それでも、意を決して顔を上げた。
「あ――。」
そして、そこには何も無かった。
視線の先、道路を挟んだ向かいには、ただ空き地が広がるばかりだった。
「嘘だ……。」
よろめくように、空き地へと近づく。
その場にあった電柱にすがりつくように空き地を覗き込む。
それでも、そこが空き地だという事実は変わらない。周囲を見渡しても、場所を間違えているということは無い。
そこは、片村の家があるはずの場所だった。
片村とは小学校からの付き合いだ。当然、アイツの家にお邪魔したことは一度や二度ではない。十年ほど前に建てたという、小学生だった頃は新築の、今となっては少々色あせた所も出てきた、一般的な二階建て住宅。夏休み中だって遊びに来たし、つい数日前にここを通った時には、その家は確かにここにあった。
それが、跡形もない。
解体した跡すら残っていない。手入れされていない雑草が、下手をすれば身長に届きそうな高さまで育っている。もう何年も前から、この場所は空き地だったと言うように。
「――。」
力なく、その場にうずくまった。
『記憶障害』
片村という俺の親友の存在は、初めから全て俺の思い込みだったのではないか。アイツと一緒にテスト勉強をしたことも、一緒に遊んだことも、『天使様』の噂話を聞きながら一緒に登校した昨日の出来事さえも。サッカーが好きなところも、数学が苦手なところも、馬鹿だけど明るい性格も、全て、こんなに鮮明に思い出せるのに。
こんなのは嘘だと否定する気持ちと、またかと絶望する気持ちがごちゃまぜになる。
怒りとも、悲しみとも取れない感情が胸中に渦巻く。
「う……あ、ぁ……!」
視界が滲む。爪が肌に食い込むのも構わずに拳を握りこむ。耐え難い衝動が、体を突き動かしていた。俺は握りこんだ拳を思い切り振り上げ――、
「あなた、そこで何をしているのです。」
凛と澄んだ女性の声に、動きを止めた。
通行人に奇行を見咎められたのだと察する。でも、そんなことを気にしている余裕は無い。それでも俺はゆっくりと立ち上がり声の主に振り返った。
そして。
感情に揺れていた俺の呼吸は、その瞬間、本当に止まった。
そこには、天使がいた。
まず目を奪われたのは、その金髪。一切の濁りの無い純粋無垢なそれは、太陽の光を纏って本当の天使の輪のように光り輝いていた。そしてその奥に透けて見える瑠璃色の瞳。宝石と遜色ない輝きをたたえるそれに射止められ、目を離せなくなる。日本人にあるまじき髪と瞳の色。当然ながら顔そのものも日本人離れした彫りの深い造形をしている。外国人の顔を見慣れているわけではないが、それでも一目で美人と分かる整った顔立ちだった。
全てが、一点の曇り無く美しい。こんな状況なのに、一瞬そう思ってしまった自分が居た。単なる美人とは何か異なる、まるで精巧に作られた芸術品のような印象。これを『天使』と言わずに何と言おう。
当然、頭に浮かんだのは例の『天使様』だ。昨日見かけた後ろ姿の女性。それが間違い無く目の前の彼女だと確信する。
だから、俺が無意識にその言葉を口にしてしまったのも仕方が無いことだった。
「天使――」
さま。と、俺が言い切る前。その言葉を発した瞬間。
天使様の姿が掻き消えた。それと同時、ドン!と凄まじい衝撃が体を襲う。
「ガ――!?」
強制的に肺の中の空気を全て吐きだされる。ふわりと体が浮くような感覚の後、今度は背中に衝撃。自分の体が電柱に叩きつけられたのだと理解すると同時に、先ほどとは違った意味で、呼吸が詰まる。
視界が明滅する。何が起こったのか分からない。
反射的に酸素を求めて開いた口の横をヒュッっと何かが切り裂いた。
かろうじて保った視界には、金糸が揺れていた。
そして、そのさらに手前に焦点を合わせると、俺の顔の横には、刃物のようなものが突き立てられていた。
「動くな。抵抗すれば殺します。」
何が起こっているのかわからない。衝撃で麻痺した体は動かず、それ以上に思考回路はショートしている。混乱し過ぎて何を言われたのか意味を理解できない。
でも、その声が自分の顔のすぐ下から聞こえて来たことで、天使様がどこにいるのかだけは理解した。
俺は視線を下へと向ける。視界に広がっていた金糸は彼女の髪だった。そして。
「――。」
殺気を孕んだ、深海よりも深い青色。鼻の先にあるその瞳と、目が合った。
天使の天秤 桜辺幸一 @infynet
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