仮面舞踏会
@0ctpus
第一章「士官学校」
夜は優しくない
私は祈った。
――どうかまた、間違いを起こさないで。お願いだから。
襤褸屋の中、座り込む私の前に女が横たわっていた。褪せた髪、窪んだ眼窩、紫の口唇、筋の浮き出た首。
蝋燭はむしろ彼女を隠して、私はその表情を捉えられない。脇に置かれた手鏡を一瞥する。私の表情もまた、影に隠れている。
――ごめんなさい、母さん、ごめんなさい...。
私は涙を拭い、立ち上がった。彼女を覆う私の影は、チロチロと揺れ、彼女の体を這い回っていた。
小さく、私は震えた。
少し息を吸った。振り返り、歩き出そうとして、しかし、私は足を止めた。もう一度息を吸う。ゆっくりと振り返り、そっと彼女の頬に唇を押しあてる。その頬はほのかに暖かかった。小刻みに震える唇を離し、彼女の頬を少しばかり撫でて、扉へ向かった。今度は止まらない。
――さようなら。
戸口にかけた手に力を籠める。
ふと、背後から音がした。
急き立てられるように、私は外へと駆け出した。耳を塞ぎ、目を閉じて、息を荒げて。走る、走る、走る。
一度も振り返らなかった。振り返れなかった。振り返りたくはなかった。深い闇に、四肢を絡め取られた。もがいて、もがいて、やはり私は出られない。
――嗚呼、愚かな。何故母を置いていった。やはり私は間違った。私はまた、間違ったのだ。
誰かが私を呼んでいる。
「サヴィ...サヴィ...サヴィ!!」
ハッと目が覚めた。発汗し、息が荒い。眼前に裸の女がいた。目覚めた勢いをそのままに、私は上半身を起こした。
しばらく、雨音と私の息の音だけが部屋に響いた。
「ねえ、大丈夫?あんまり苦しそうだったから...。嫌な夢でも見た?」
「ああ、ああ、そんなところだ。」
私は再びベッドに倒れ込み、一息吐く。横の女と目を合わせた。
「おはよう。」
随分早く起きてしまった。壁の隙間から伺える外は暗く、街はまだ眠りについていた。私は起き上がり、ランタンに火を点けた。
ベッドへと腰掛けた私の背中に、女がしなだれかかってくる。女の温もりと鼓動を背中に感じた。私はようやく強張った肩の力を抜いた。
私が悪夢にうなされることは久しい。ここに来てからは一度もなかった。
よもや私は、これから始まる生活にどこか不安を、或いは期待を、抱いているのか。
――くだらない。
女が私の耳を甘噛みする。それがこそばゆくて、ふと、私の口角が上がったことに気がついた。
――ああ、こんなことを考える余裕がまだあったなんて。
女の手が私の胸を手探る。
「もう一度、どう?」
彼女の吐息は熱かった。
「いや、今日は大事な日だ。昨日言っただろ?」
私は少しずつ下がる女の手を払いのけた。
「若いくせに、つれないのね。まあいいわ。」
「またの機会にしてくれ。」
「はいはい。」
彼女の温もりが私の体から離れた。
「化粧したいんだけど、あの鏡貸してくれる?」
「ちょっと待ってろ...。」
私は立ち上がり、旅行用トランクから手鏡を取り出した。
柄と枠に端正な装飾が施された木目調の手鏡。この部屋に似つかわしくない。
鏡面を少し撫でた。綺麗な手鏡。どんな瞳よりも、私を正しく映している。
鏡面の私と目を合わせる。
――大丈夫、いつも通り。いつも通りの私だ。
鏡面越しに、私は冷えた笑みを浮かべた。
「ほら、鏡だ。」
「ありがと-。」
双方朝の身支度を整える。上着に腕を通し、腰ベルトを付ける。軍靴を履き、制帽を深くかぶる。
私たちは旅行トランクと共に部屋を後にした。まだ日は登っていない。幸運なことに、雨はすっかり止んでいた。
「ねえ、軍服の襟が曲がってるわ。」
ふと、私の首筋をなぞる女の手が止まった。
「そろそろお別れね。」
「そうだな。言っていた通り、部屋の合鍵を預けておく。私物は置いていないし、商売部屋にでも使ってくれ。」
「ん。管理は任せて。ちゃんと家賃も払っておくから。」
「いつも通り頼んだぞ。それじゃ。」
「ええ。行ってらっしゃい、坊や。」
最後に口付けを交わし、私達は別れた。
住んでいる集合住宅から続く路地を進む。道行く
路地を抜けた大通り、私は眩しさに目を細める。
まさに、帝国の中心というに相応しい。雨上がりの陽気の中、朝日に照らされ、洗練された街並みが一際輝いて見えた。道行く紳士、談笑するご婦人方、客を待つ辻馬車の御者、新聞売りの少年、穏やかな警官。人の声、轍の音、馬のいななき。ここの音は途絶えることを知らないようだ。雑踏の中、私は軍靴を鳴らして進んだ。
大通りの突き当り、遠くに、前時代的な石造りの要塞が見えた。
「栄光ある我が帝国帝都陸軍大学へようこそ!!」
――馬鹿馬鹿しい。
直立不動で壇上を見つめ続け、退屈な時間は過ぎていく。
「〜祝辞とさせていただきます。」
やっと壇上の全員が祝辞を述べ終えた。手が痛くなるほど拍手をする。拍手が反響して、床が震えた。
――ようやく終わりか。
「祝辞の言葉、ありがとうございました。続きまして、皆様から祝辞の言葉を預かっています。まず帝都商工組合の〜」
私のつま先が小さく震えた。
「新入生、憲兵科の人は全員俺についてきてくれ!」
入学式も終わり、誘導係の上級生達に従って私達は割り当てられた講義室へ向かった。
「自分の名札がある所に着席してください、平民出身者は後列の方です。」
講義棟とその講義室は、暖色に包まれていた。木を基調としていて、どことなく帝国北部の建築様式の名残がある。
気がついたら上級生達は皆退出していた。ふと、黒板の前に生徒が2人進み出る。強面の生徒が登壇し、優男は教壇横。優男が私たちを一瞥し、口火を切った。
「全員、起立!壇上の中隊長殿に向かって敬礼!」
凛とした声、その声量。さすが貴族。私達平民出身者による、見様見真似の敬礼はたどたどしい。私は左手で敬礼してしまった。
――顔から火が出そうだ。
「・・・。なおれ。」
壇上の強面は答礼し、私たちを見渡した。
「こんにちは、同輩諸君。楽にしたまえ。・・・中隊長のファルケン・ディートマー・ブレヒト。ブレヒト上級伯爵家第2位継承者である。これから3年間よろしく頼む。」
「ほい」「「了解!」」「はい」「どうも」「・・・」
貴族の子弟達の声に圧倒された。彼らの返事は腹に響く。
「次に、副中隊長。」
強面の目線の先、優男に目を向けた。
「自分は副中隊長のランサル・ファリド・コラシャン、コラシャン下級伯爵家の第4位継承者。皆、これからよろしく頼む。」
「了解」「「了解!」」「りょーかい」「はい」「・・・」
「さて。同輩諸君、今から一時間で自己紹介や基本事項の確認を済ませなければならん。10分測る。分隊内で自己紹介を済ませろ。分隊長が取り仕切れ。」
「了解」「「了解!」」
私は第四分隊の集まる一角に移動した。所謂平民主軸の部隊と言った感じで、学校側の配慮が読み取れる。
分隊員を集めていた小柄な少女と目が合った。彼女の瞳は細かく震えていた。
「わ、私は第四分隊分隊長アズミラ・ホスロー・ザラフシャン、ザラフシャン準男爵家当主第2位継承者だ。以後よろしく頼む。」
控えめな拍手が起こった。分隊員の誰もがこの新しい環境に戸惑っていた。
「次、そこのお前。」
私は一歩進み出た。
「第四分隊副分隊長を拝命しました、サルヴィヤ・カトバンです。父は樵でした。これからよろしくお願いします。」
分隊長がよろしくと私の手を握る。分隊員の鋭い目つきが私を突き刺した。勘弁して欲しいものだ。彼らの態度は私への嫌悪を表していた。
――仕方あるまい。前途は多難だ。
旅行トランクを片手に、行進擬きで男性寮へと向かった。
部屋へ入り、ルームメイトを待ちつつ部屋の内装を確認する。二つの寝台、二つの机、二つの行灯、二つの椅子、二つの棚、一つの木窓。
何れも上質で、特段不便は感じない。
背後からノック音が聞こえた。急ぎ、扉に正対する。
敬礼。
「副中隊長殿、自分はサルヴィヤ・カトバン。第四分隊副分隊長であります。これから3年間よろしくお願いします!」
優男は答礼し、私の手を握る。
「やれやれ今日覚えたことを早速実践するのはよいことだが、そこまで畏まってくれるな。さて、知っての通りランサルだ。こちらこそ3年間よろしく頼むよサルヴィヤ。」
優男の手は思いのほか力強く、筋肉質だった。
「この部屋の中に限っては僕の前で必要以上に畏まらなくてよい。そうでないと双方流石に気が滅入ってしまう。いいね?」
「はい。お心遣いありがとうございます。」
「うむ、物分かりがいいやつは好きだぞ。さあまずはベッドメイキングと行こうじゃないか。」
「わかりました。」
「ところで・・・ベッドメイキングとやらはどうやるものだい?」
上位貴族と平民が同室になるというのは変に思えるかもしれない。しかし、成程。貴族にとってこう言った経験はこの場でなければ体験できないだろう。相互理解の促進というわけだ。
「なるほど。なるほど。ベッドメイキングとは随分と小難しいものだな。」
「数日もすればすぐに覚えられるかと。」
「助かる。いやはや、正直生活面に関しては不安しかない。何分いついかなる時も周りの者が世話するのだ。」
「そうした方がよろしいですか?」
「いやいや、それは固く禁止されている。貴族はここで民とうまくやる術を学ばなければならんということだ。」
「百聞は一見にしかずということですか。」
「ああそういう...。」
ノック音に会話を遮られた。2人で顔を見合わせた。貴族に応対させるわけにはいかない。私は扉に近づき誰何する。
「どなたですか。」
「第3学年、タミラと他6名。ランサル様にお取次ぎ願いたい。」
優男が頷くのを確認し、扉を開いた。外には明らかに貴族の一団が、私を不思議そうに見ていた。
「皆よくきてくれた。ああ、跪かずともかまわん。発言を許す。」
「は、この度はご入学おめでとうございます。一同若君のおなりを心待ちにしておりました。本日は挨拶をと思い伺った次第でございます。」
「ありがとう。これからは学内の先達として貴様らに教えを乞うこともあろう。よろしく頼む。」
「恐悦至極。何かご入用の物おありでしょうか。」
「特にはない。下がれ。」
再度私は扉を引く。彼らはまた私を不思議そうに見て退出した。
「いや我が家の者が騒がしくしてすまないね。堅苦しいだろう?」
「いえそのようなことは。」
「いやいいのさ。貴族だって堅苦しいのだ、まして貴種でない者にとって尚更だろうことは想像に難くない。・・・それにしても君、どこぞ従僕の出かい?扉がノックされた時、先んじて誰何するなんて中々いないよ。凄いじゃないか。」
あの一団の不思議がる目はこれか。
「お褒め頂き恐縮です。一時商家で奉公をしておりましてその折に身につけました。」
「なるほどそういうわけか。道理できちんと弁えている訳だ。」
「ありがとうございます。」
「ふむ・・・そうだ就寝時間までの間、市井のことを様々教えてくれたまえ、平民の暮らしについては無知当然でね。ぜひその商家で奉公していた話も聞きたい。」
――私の学校生活は好調な滑り出しだ。
私は密かにほくそ笑んだ。
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