第11話

「……キャロル・ウィンズレッドだった時は、墓参りですら一度も許されなかったから……」


 長い長い沈黙を破ったのはアンナ・アップルヤードだった。

 顔の造形は変わっていないはずなのに、表情や仕草だけで随分と印象が変わるものだと、ビアンカはパチリと目を瞬かせる。

 一方、自らをキャロルだと認めたアンナは大きな溜め息を吐き、吹っ切れたのかグラスに注がれたワインを一気に飲み干してから嘲笑にも似た表情を浮かべた。


「あたしが平民のただのキャロルだった頃、そりゃあ裕福とは程遠い生活だったし、辛いこともあったけど、でも、幸せだった。女手一つであたしを育ててくれた母さんの事、世界で一番尊敬してた」

「まぁ、それではお別れはとても辛かったわね」

「そうね。それなのに、あの男……ウィンズレッド男爵は墓参りすら許さなかった。毎日毎日朝から晩まで、上位貴族に取り入るためのマナーや魔法の勉強。終いには色仕掛けでも何でもして王子に近付けって! そうしないとあの教会を取り潰すって言われて、一回目は必死だったし何でもやった」


 ビアンカは空気を読んで、とりあえず驚いた顔をして見せた。

 半分は見も知らぬ平民の苦労に対する驚き、残り半分は何故今更そんな当たり前の事を言っているのだろうかという、実に貴族らしい驚きであった。

 ウィンズレッド男爵家がキャロルを引き取ったのは家門の為だ。

 平民として育った娘なのだから、他の貴族の前に出せるようにマナーや勉学を叩き込むのは理解出来る。というかそうしないと社交界で笑いものになる。

 それにキャロルはウィンズレッド家の血を引く中で一番の魔力持ちだというのだから、上位貴族に嫁がせる為だけに引き取ったと言っても過言では無いというのは、貴族であれば誰だってわかる事だ。

 それはそれとして、王子殿下に近付けだとは男爵家の分際で図々しい事この上ない。

 一体、彼女の行った『何でも』にはどのようなものが含まれるのかと、ビアンカは不快そうに片眉を上げてアンナを、かつてキャロル・ウィンズレッドと呼ばれていた娘を見た。

 そしてぽつりと呟いた。


「……一回目?」


 その言葉にアンナは鼻で笑ってそうよと頷く。


「あたし、今回で十五回目なの」

「あらまぁ」

「一回目の人生であたしは最終的に王妃になった。ねぇ、リンハルト侯爵令嬢。元平民の娘が王妃になったらどうなると思う?」

「そうね。能力を考えれば傀儡にされる事は目に見えているわね。王妃ともなれば諸外国との外交にも関わるし、お飾りとして最低限必要な外国語を学ぶだけでも相当苦労するのではなくて?」

「その通り!」


 けらけらと笑ってアンナはまたワインを飲み干した。


「元々ロクな教養も備わってないのに式典用の作法やら語学やらもう本当に大変で、休憩や睡眠時間だってろくに無くって最後はほとんど気が狂いそうだった。ううん、もうおかしくなっていたのかもしれない。だからあたしは偶然聞いた王家に伝わるアーティファクトを使って、もう一度やり直したいって願った。そうしたら本当にやり直せるんだもの」


 一番最初にキャロルが自らの胸をナイフで突いてアーティファクトを起動させた時、彼女が次に目覚めたのは男爵家に引き取られた当日の朝だったという。

 母が病で死ぬ運命は変えられない。

 己が男爵家に連れて行かれる運命も変えられない。

 ならば男爵令嬢となった後の生活を何とかするしかない。

 そう考えた彼女の願いと捧げた魔力にアーティファクトは応えた。

 そう、ビアンカが毎回目覚めていたあの日は、キャロルがウィンズレッド男爵家に引き取られた日であり、そこが全ての起点であったのだ。


「でも一回や二回繰り返したところで上手くいかないもんなのよね。一応男爵家に行かないよう逃げたりもしたんだけど無駄だった。あたしはもう王妃になる人生なんて懲り懲りだったし、殿下とくっつくと不幸になるんだって確信したから、今度はあなたがあたしを排除するように働きかけたの。セオリー通り侯爵令嬢と王子殿下がくっつけば、あたしは違う未来を掴めると思ったから」

「けれどわたくしがなかなか機会を活かせなかったのね」

「そうよ! あれだけ根回ししてあげたのに何で出来ないかなぁ」

「わ、わたくしだって一生懸命頑張ったわ!」


 ビアンカの抗議など意に介した様子もなく、アンナは水でも飲むかのようにワインを飲み、下町の娘だった頃に気持ちが戻ってしまったのか独特の平民訛りで続けた。

 ヴィルヘルムと密着した姿をビアンカに見せ付けたのも、気に障るような振る舞いをわざと続けたのも、全てヴィルヘルムの婚約者であるビアンカが彼に近付くキャロルを糾弾し、正当な理由をもって排除出来るように仕向ける為だったのだという。

 しかし、背後についたダリモア伯爵の介入によって罪を被せられたビアンカは、結局毎回処刑されてしまう。

 何度目かの繰り返しで事態が好転しない事に業を煮やしたキャロルは、アーティファクトの事や、キャロルは王家に取り入ろうとする逆賊の遣いであり、ビアンカは陥れられただけの存在であるとヴィルヘルムが知るよう仕向けた。

 工作には随分と骨が折れたものの、その甲斐あってヴィルヘルムは真実に気が付き、ビアンカを気に掛ける事で次第に愛情が芽生えたようだが、王族とはいえ彼一人の力では運命を変える事は難しく、彼は毎回ビアンカの死に絶望しながら自らアーティファクトを使う事になったらしい。

 こうしてみると何とも壮大な話だと、聴いているビアンカはただただ目を丸くする。


「前回、彼がアーティファクトを起動させる直前に、魔力暴走覚悟であたしもその場でありったけの魔力を込めたの。あたしはもうあたしを辞めたいって、それだけ願って」

「まぁ、魔力暴走覚悟だなんて……一体どれ程の魔力を……」

「言ったでしょ。ありったけよ。で、その結果がコレ」


 言いながら彼女は己の胸に手を当てた。

 アーティファクトはヴィルヘルムとキャロルの願いを叶え、ヴィルヘルムはビアンカが死ぬ前の時間軸に戻り、その時間軸で目覚めた時キャロルはキャロルとは違う存在になっていた。


「でも待って。殿下はあなたの事について何も仰らなかったわ。隠していたのかしら……?」

「あぁ、それ、アーティファクトの効力だと思う。あたしはアーティファクトを使う度に魔力総量が減っていったけど、殿下は記憶が欠けていたみたい」

「そうなの……」


 どうやらアーティファクトを使用すると何らかの代償を支払う必要があり、ヴィルヘルムは記憶の一部を代償として払っていたらしい。

 そうでなければダリモア伯爵の件も、もう少し早く何とか出来たかもしれないが、今となっては過ぎた事だ。

 繰り返しの記憶を維持したまま逆行するようになったビアンカも、もしかしたら代償を支払っていたのかもしれないが、少なくとも本人にその自覚はなかった。

 新事実の発覚にビアンカが驚く横で、アンナはボトルを空にする勢いで次々にワインを消費していく。


「こうして何度も繰り返した結果、あたしはあたしをやめて今やアップルヤード伯爵家の令嬢に成り変わったし、絶対滅ぼしてやると思っていたウィンズレッド男爵家はあの事件で殆ど全員が処刑されたし、あぁ、本当にスッキリした」

「あらあら、あなた、自分の身体が知らない人間に使われて、しかも処刑されてしまったというのに随分と剛気な物言いね」

「あなただってダリモア伯爵を処刑に追い込んだじゃない」

「だって叔父様ったらわたくしに意地悪したのよ。当然の結果だわ」


 そこで二人は数秒無言で見つめ合ってから、どちらからともなく小さく笑い出した。

 お互いに、目の前の人間が自分の信じる幸福の為に、容易く他者を犠牲に出来る『同類』だと確信したからこその笑みだった。


「わたくし、あなたの事は大嫌いだと思っていたけれど、こうして話をしてみると何だか親しみが湧いてくるわ。今のあなたなら、そうね、殿下の側室として迎えて差し上げてもよろしくてよ」

「謹んで、全力でお断り申し上げるわ」

「まぁ、残念。楽しくなると思ったのに」


 ようやく一杯目が空になったグラスに、不慣れ丸出しの危なっかしい手付きでワインを注ごうとするビアンカからボトルを奪い、アンナがサッと二人分のワインを注ぐ。

 どうやらアンナは酒豪であるらしい。

 アップルヤード伯爵領は広大な農地を有し、ワインなどの酒造も盛んな領であるからアンナ自身が日頃から酒に慣れ親しんでいたのか、それとも生来そういう体質であったのか、どちらにせよ見事な飲みっぷりである。

 顔色ひとつ変わらないアンナは、グラスを満たすワインに視線を落とし、そっとしおらしく呟いた。


「……学園で話し掛けた時、本当はちょっと緊張してたの。身体が変わってもまた失敗しちゃうんじゃ無いかって」

「あら、でもあの時の事がわたくしに気付きのきっかけをくれたのよ」

「それなら良かった」

「だって、いつも自信なさげに人の後ろに隠れる事しか出来なかったアップルヤード伯爵令嬢が、人目のある学園で一人で直接わたくしに話し掛けるなんて出来るはずはないもの。何かおかしいと思うのは当然よ」


 ビアンカがにこりと笑って言う。

 何度か人生を繰り返した中で、ビアンカがアップルヤード伯爵令嬢について記憶していた事とはキャロルの取り巻きの一人であった事程度。

 つまり、特筆する事など何も無い毒にも薬にもならない存在である。

 自ら行動したり発言する事もなく、ただ人の後ろにいるだけの地味でつまらない女。

 それがビアンカのアップルヤード伯爵令嬢に対する認識の全てであった。

 だからこそ、あの日の密談はそれ自体が大きな変化であり、きっかけとなったのである。

 

「それにしても、アップルヤード伯爵令嬢はともかく、今回のキャロルは今までのあなたと比べると何だか魔力が貧相だった気がするわ。アーティファクトを使うとそんなに魔力が減るものなの?」

「そうね。今回のキャロルは一回目のあたしの三分の一も魔力は無かったと思う。それでも今の貴族の中では多い方だけど……」

「まぁ、そんなに! だから、こんなに簡単に事を成せたのね」


 魔力というのは貴族にとって血統を示す大切なステータスであるが、昨今その魔力や魔法は衰退著しく、末端の男爵家や子爵家では半数が微量の魔力しか保有しないとも言われている。

 多くの魔力を保有するキャロルがウィンズレッド家の起死回生の一手として引き取られたのも、そういう貴族内での事情が大きく関係していたのは想像に難くない。

 男爵令嬢であるキャロルが一番最初の人生で王妃まで上り詰める事が出来たのだって、その豊かな魔力を王家の血筋に混ぜたいという政治的な判断があったはずだ。

 キャロルが人生を繰り返す度に魔力が少なくなったというのは、それだけビアンカに有利になっていったという事だ。

 今回の人生でヴィルヘルムがキャロルに盛られた魔法薬に対して全く何の影響も受けずに無傷であったのも、防御魔法の効力だけでなく、キャロル・ウィンズレッド自身の魔力が弱まっており、魔法薬が本来の効力を発していなかった事が大きいだろう。

 色んな要因が重なってようやく勝ち取った生なのだわと、しみじみと呟くビアンカに生返事をしながら、アンナはテーブルに置かれていた次のワインボトルのコルクを抜きに掛かっていた。


「でも不思議なのは今回のキャロルの中身よね。あたしじゃないのに、これまでのあたしと同じような事をなぞっていくから何だか薄気味悪かった」

「あら、その事ならわたくし答えを知っていてよ」


 もはや二人で分けるなどという事は考えていないのか、コルクを抜いたワインボトルを遠慮なく自分の前に置いたアンナに、ビアンカはワインに酔ってほのかに薄紅色に染まった顔を上げて微笑んだ。


「あの娘の処刑前に本人から聞いたのだけど、あの娘が言うにはここは小説の世界なのですって。小説の主人公はキャロル・ウィンズレッドで、キャロルは殿下と結ばれて、わたくしは悪役なのだとか。だから、あの娘はお話の通りに行動しただけなのではないかしら」


 ビアンカがそう説明すると、アンナはそれを鼻で笑った。


「小説ねぇ。で? その小説ではあたしは王子殿下と結婚してハッピーエンドな訳?」

「えぇ、あの娘はそう言っていたわ。ところで、あの娘は一体誰だったのかしら? それに、あなたの……えぇと、本当のアップルヤード伯爵令嬢の魂ってどうなってしまったのかしら」


 テーブルにグラスを置き、ビアンカは心底不思議そうに呟いた。

 ビアンカの生きるこの現実を小説の世界だと言ったあの娘は、一体どこの誰だったのか。

 本物のアンナ・アップルヤードの魂はどこに行ってしまったのか。

 首を傾げたビアンカは、しばらく考えられる可能性を探っていたが、すぐに飽きてしまったのか美しく整えられた指先でテーブルの上のサンドイッチをもそもそ摘み始めた。

 アンナも大して興味はないのか、チーズを乗せたクラッカーを口に放り込みながら言った。


「さぁね。でもあれが誰でももう関係ないわよ。キャロル・ウィンズレッドは死んだもの。あぁ、そうだ。アップルヤード伯爵令嬢は自分に魔力がほとんど無い事を恥じてずっと思い詰めていたから、もしかしたらあたしがあたしを辞めたいと思ったのと同じくらい、あの子も消えてしまいたいとか思っていたかもしれないわね」

「だとしたら、あの謎の娘も小説の世界に行ってみたいとか、そんな事を思っていたのかもしれないわね」


 前回の人生の最期にキャロル・ウィンズレッドがアーティファクトに魔力暴走寸前のありったけの魔力を注ぎ込んでやり直しと相成ったこの世界では、それこそアーティファクトが暴走でもしたかのように随分と色んな人間の想いが交錯し、一部は歪んだ状態で叶えられていたらしい。

 けれどその全てがビアンカに勝利をもたらす一要素であったとすると、ビアンカは溢れる笑みを止める事は出来なかった。

 だってそれはすなわち、今生の全てがビアンカの為に整えられた舞台であったという事だからだ。


「ふふ。わたくし、ずっと家名に恥じない貴婦人であらねばと思っていたけれど、きっと元々悪女の素質が備わっていたのね。今回の人生、とっても息がしやすいの」


 にこにこと語るビアンカとは正反対に、アンナはむぅと口を尖らせて眉間に皺を寄せる。


「あたしは主人公とか向いてなかったと思うな。ほぼ魔力無しのアンナ・アップルヤードは周りから変な期待もされないし、この身体に成り代わってから本当に生き易い」

「あなた、自分の幸せについては何度もやり直しをするくらい諦めが悪いのに、キャロル・ウィンズレッドとしての人生自体については本当に諦めがよろしいのね。仮にも主人公なのでしょ」

「大切なのは『あたし』が幸せになれるかどうかって事。キャロル・ウィンズレッド個人に固執する必要はないもの」

「ふぅん。そういうものかしらね」


 そこまで言ったビアンカはグラスもテーブルのボトルもすっかり空になっている事に気が付いて、テーブル脇のワゴンから新しいボトルを取ろうと手を伸ばし、そこでふと思い出したように目を瞬かせた。


「……わたくしとした事がうっかりしていたわ」

「どうしたの? オープナーならここよ」

「そうではないわ。あの娘からこの世界が小説だという話は聞いていたのに、その小説のタイトルを聞くのをすっかり忘れていたの。この世界を描いた小説って一体どんなタイトルだったのかしら。あぁ、惜しい事をしたわ」


 やれやれと溜め息を吐くビアンカだったが、アンナはそんな事と笑ってひらりと手を振った。


「そんなの聞いてどうするの。その小説とやらの主人公は死んで、もうストーリーだって変わっちゃったんだから意味ないでしょ。そうだ、今度はあなたが主人公だって仮定するのはどう?」

「わたくしが?」

「そう。良いじゃない。主人公を断頭台送りにした悪役令嬢だもの。主人公に取って代わるのにピッタリよ」


 ビアンカはアンナの言葉に少し考えて、でも、と人差し指同士をもじもじ合わせながら言った。


「主人公というものは、健気で品行方正でなければならないのではなくて?」

「平民に流行ってるお芝居じゃあ勝気と度胸でのし上がっていく主人公も人気よ」

「そうなの! ではわたくし、これからもこの国一番の悪女を名乗るのに相応しく、己に正直に悪徳を重ねていくわね!」


 ぱちんと手を合わせてビアンカは顔を輝かせる。

 これからもビアンカはその称号に相応しく、媚び諂う者あらば視線で跳ね除け、敵意を抱く者あらば容赦無く踏み潰し、聖女のような微笑みを湛えながら積み上げた悪徳の上に美しく君臨するのだろう。


 ──けれど、そんな彼女は。


「お嬢様! いくら何でも昼間からこんなにお酒を過ごされて! 羽目を外すにも程がございますよ!」

「あぁ、ばぁや。お願い、そんなに怒らないで。頭に響くの……」

「いいえ、怒りますとも。お嬢様をお叱りするのも私のお役目で御座いますからね! 明日はお屋敷に王太子殿下をお迎えするというのに、何ですかこの様は! お嬢様には王太子妃様となられる心構えが足りないのです! よろしいですか、そもそもリンハルト侯爵家というのはこの国において……」


 いくら悪徳の限りを尽くそうとも、今はまだ結界を解除するのを待ち構えていた侍女頭からの説教に顔を青褪めさせる、嫋やかな一人の娘であった。

 一緒になって羽目を外し過ぎだとビアンカと共に叱られていたアンナ・アップルヤードは、他人事のように隣で項垂れるビアンカの姿を眺めて、寝ている獅子を起こすなとはこういう事かとぼんやり思うのであった。

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