第9話
キャロル・ウィンズレッドは薄暗くて黴臭い石牢の中でじっと膝を抱え、時折揺れては廊下を照らす蝋燭の明かりを眺めたり、石壁に反響する鼠の足音や鳴き声に身体を竦ませたりしていた。
体感的に数日が経過したようだが、窓がないから今が昼なのか、夜なのかもわからない。
だが、先程牢の中に食事のトレイが運ばれてきたので、食事時ではあるようだ。
せめてその回数を覚えていたら経過した日数がわかったのに、今となっては後の祭りである。
トレイにはスープの入った皿と丸いパンが一つ載せられていた。
そのトレイを牢の隅からじっと見つめてキャロルはぼんやりと思った。
(……漫画や小説でよくあるみたいに、腐った食べ物が出てくるとかはないんだ……)
不遇な生い立ちのヒロインのうち、収監されたりするタイプのヒロインの多くはひどい食事を無理やり食べさせられたり、食べるものがなくてひもじい思いをしたりする。
そういう場合、大体はヒロインがのし上がった際、立場が逆転してヒロインが笑顔で「お味はいかが?」なんて言ってみせたりするのだ。
けれど、キャロルのところに配られた食事はしっかり具のあるスープと、見るからに焼き立てとわかるパンだ。
流石にカトラリーは無いが、スプーンを使って脱獄したという話もあるし、フォークなんて使いようによっては武器になるから仕方がないのだろう。
そんな取り止めのない事を考えながら温かい食事を見ている内に、じわりとキャロルの視界が滲んでいった。
(どうして? 私、何にも悪い事してない。なのにどうして牢屋に入れられなきゃいけないの。おかしいでしょ。ていうか、私ヒロインでしょ? 主人公でしょ? チート魔法だって幾つも使えたし、何かめちゃくちゃ偉そうな貴族の人だって私の事を応援するって言って金とか出してくれたじゃん。何? バグ? 早く誰かどうにかしてよ)
この世界で目が覚めて、自分が全く別の誰かになっていると気が付いた時、キャロルは歓喜した。
だってこの身体はとってもスタイルが良くて、周りの反応から察するに顔も可愛くて、何より皆から愛されている。
お前を迎えにきたんだと貴族が馬車でやって来た朝、キャロルは自分が選ばれた人間なのだと心から思った。
平民は鏡なんてそうそう持っていないので水に映る顔くらいしか見た事がなかったが、貴族の屋敷で身なりを整えて姿見の前に立った時、そこに映る自分を見て自分がとある小説の主人公なのだと確信した。
主人公は元平民の男爵令嬢で、お約束的に主人公が通う学園の同級生には王子様がいて、その側にはやっぱりお約束的に性格の悪い悪役令嬢がいて、悪役令嬢が主人公をイジメ倒す。
けれど主人公は密かに応援してくれる優しい貴族の手を借りながら健気に王子と縁を深め、最終的には王子と悪役令嬢は婚約を破棄し、酷い事をたくさんしていた悪役令嬢は処刑される。そして主人公は王子と結婚して幸せに生きるのだ。
かなりのご都合主義ではあるが、そういう定番がウケたのか割と人気があったと記憶している。
自分はその作品の主人公になったのだ。
あの、キャロル・ウィンズレッドに!
──なのにどうして今自分はこんな場所にいるのか。
(魔法アイテム使ったから牢屋行きって何? 異世界なんだし、魔法アイテムあるなら当然使うじゃん。私が使ったら駄目な訳? 意味わかんない。それに、小説では王子と結婚するのは私なんだから、私が王子と一緒にいるのが普通じゃない。なのに何なの、あの女。婚約者だからってずっと王子に引っ付いてて何様のつもりなの。こんな事ならあの高そうなドレスに火でもつけてやれば良かった)
悪いのは小説のストーリー通りに動かないあの女だ。
キャロルはきちんと小説通りのハッピーエンドを迎えられるように、いつだって精一杯努力したというのに。
面倒臭くても学校に通ったし、鬱陶しいクラスメイト相手でもにこにこと笑顔でいたし、支援者を名乗る口煩い貴族の言う事も聞いて、それとなく悪役令嬢の悪評を流して、自分がちゃんと『キャロル』でいられるようにしたのだ。
それを台無しにしておいて、あのビアンカという女は、よくわからない理屈を並べて主人公であるキャロルを悪役にした。
「……悪役令嬢はあっちの方なのに、何で私が犯罪者扱いされなきゃいけないの」
恨みのこもったキャロルの低い呟きが石牢の床を這う。
すると、何処からかくすくすと笑う声が聞こえて、キャロルはハッと顔を上げた。
いつの間にか蝋燭の灯りの他にランプか何かの光源が足され、牢屋はいつもよりも明るくなっていた。
「──ご機嫌よう」
檻の向こうに立っていたのは、悪役令嬢ビアンカだった。
キャロルは憎しみを込めた瞳でビアンカを睨み付けたが、ビアンカはレースの扇子で口許を隠し、目だけを細めて傲慢に笑っている。
その余裕を見せつける表情を見た瞬間、キャロルは激昂した。
「何がご機嫌ようよ! 悪役令嬢の癖に! あんたの方が牢に入んなきゃおかしいんだから、さっさとこのバグ何とかしてよ!」
「あらあら、全く、何を言っているのかしら」
牢には何か細工が施されているのか、キャロルがいくら試してみても何の魔法も発動しなかった。
それ故に、キャロルはただビアンカに向かって怒鳴る事しか出来ない。
「大体何しに来た訳⁉︎」
怒りのまま叫ぶと、ビアンカはパチンと高そうなレースの扇子を畳んで溜め息を吐いた。
「何って、やり残した事があったからその処理よ。でも今のあなたを見ていると、ちょっと躊躇ってしまうわね」
「はぁ⁉︎」
「わたくしね、あなたの事が心底嫌いだし、一度くらい引っ叩いてやろうかと思って此処まで来たのだけれど……」
ビアンカは檻の外からキャロルを眺め、やれやれとでも言いたげに首を振る。
「王族に危害を加えた大罪人だから当然とは言え、下級貴族ってこんな粗末な牢に入れられるのね。知らなかったわ。わたくしも牢では随分と辛い思いをしたものだけれど、ここまでではなかったもの。これでは入浴すらままならないではないの」
「は? 言ってる事、意味わかんないんだけど」
「理解しなくて結構よ。ただ、あなたを引っ叩くのはやめておくわ。わたくし、こんな環境の人に暴力なんて振るえないもの」
そしてビアンカは、脇に控えていた護衛らしき人物に、処刑の前に人を遣ってキャロルの身なりを整えさせるよう申し付けた。
それを聞いて慌てたのはキャロルだ。
「処刑⁉︎ 私、処刑されるの⁉︎」
檻を掴み、キャロルはそんなの嘘だと叫ぶ。
だって『キャロル』はハッピーエンドが約束された主人公のはずなのだ。処刑なんて間違っている。
「どうして私が処刑なんてされるのよ!」
しかしビアンカは、呆れ顔どころか、どこか侮蔑を含んだ表情で再び溜め息を吐いてキャロルを見遣った。
「何故って、さっきも言ったでしょう。王子殿下に対する加害はこの国では重罪よ。処刑は妥当だわ」
「私、王子に暴力なんてしてない!」
「相手の同意無しに違法魔法薬を飲ませるのはね、立派な暴力なのよ。そんな事もお分かりにならないの」
「何でよ! この話は私と王子が結婚するんだから、私が王子とうまくいくようにしただけじゃない! 私悪くないし! そっちこそ小説のストーリー変えないでよ! その方が犯罪じゃん!」
「……小説?」
金の髪を振り乱し、ガシャガシャと檻を掴んで叫び続けるキャロルの言葉に、ビアンカがぴくりと眉を動かす。
そして少しだけ考えてからビアンカはキャロルに尋ねた。
「あなたはここが小説の世界だとでも言うの?」
「だから最初っからそう言ってる! 私が主人公で、あんたが悪役令嬢! 死ぬのはあんた! 私じゃない!」
「まぁ……」
驚いた顔のビアンカに、キャロルは主人公のキャロル・ウィンズレッドという少女がどれだけ健気な頑張り屋で、主人公として正しく、この国の王子と結ばれるのに相応しいのかを語ってみせた。
それを大人しく聞いていたビアンカだったが、キャロルが全て語り終えると、堪え切れないといった様子で肩を震わせて笑い始めたのだった。
「あぁ、そう。そうなの。……安心したわ」
「は? 何が……?」
「わたくしのこの七回目の人生が間違いでないと、これで確信が持てたわ」
「七……? え、ちょっと、ねぇ、ちゃんと説明しなさいよ!」
「あら、死にゆくあなたにこれ以上の説明なんて意味がないでしょう? あぁ、でも一つだけ経験者からアドバイスをして差し上げる」
そこでビアンカは、キャロルに慈愛溢れる微笑みを向けて言った。
「処刑って、思っているより一瞬で終わるわ」
安心なさってね、と言い残してビアンカは従えていた護衛達と共に牢を後にした。
石壁に反響する大きさでキャロルが何ごとかを叫んでいたが、ビアンカはもう用は全て済んだのだと言わんばかりの歩みで進み、二度と振り向く事も、足を止める事もなかった。
「──ビアンカ」
「あら、殿下。お迎えに来て下さったの」
牢のある棟から出て来たビアンカを待っていたのはヴィルヘルムだった。
どうやら政務の合間をぬってやって来たらしく、後ろには疲労の色が滲む文官が見張りのように控えている。
文官らが持つ書類の束が今日の彼のノルマらしい。
少ない休憩時間をビアンカの為に使ってくれる事を嬉しく思いながら、ビアンカはヴィルヘルムの腕を取って歩き出した。
「何か急用でも?」
「君がアレに会うというから心配で」
「うふふ。殿下は心配性でいらっしゃるのね」
当然ビアンカは今日の面会について、事前にヴィルヘルムにも報告している。
彼は良い顔をしなかったが、ヴィルヘルムが選んだ護衛を随伴する事で何とか了承してもらったのだ。
「でも、殿下がご心配なさるような事は何一つございませんでしたのよ。それにわたくし、あの娘を引っ叩くのはやめることに致しました」
「そうか。それで気が済むのなら……」
「だって、牢ってとてもひどい場所なのですもの。あんなところにいた者に触れたら、わたくしの手袋が汚れてしまいそうで……」
「あぁ、なるほど」
お出掛けだからと今日のビアンカは白いレース仕立ての美しい手袋をしていた。
何日も牢に閉じ込められて薄汚れた娘にその手袋で触れるだなんて、考えるだけでも悍ましい。
ビアンカは続けて言った。
「それで、わたくしは牢番に、処刑前にあの娘の身なりを整えるように申し伝えましたのよ。勿論、髪を切ったりなんかしないで差し上げてって厳命致しました。きちんと香油を使って髪を梳いて、当日は新しいドレスも差し入れてあげようかと。今流行りのドレスを!」
にこにこと語るビアンカにヴィルヘルムは目を丸くして、ほうと溜め息なのか何なのかわからない吐息と共に呟いた。
「……君は、悪い女だな」
それを聞いてビアンカはにっこりと美しく笑ったのだった。
キャロル・ウィンズレッドは長く豊かな金の髪が目を惹く娘であった。
貴族としての恵まれた食生活でその髪にはしっかりとしたコシがあり、巻毛でかつ通常よりも量が多い。それを処刑前に切ってはいけないと命じたのだ。
しかも今流行りのドレスといえば、慎み深さを示すとかいう風潮に従った詰襟のものである。
デビュタント前である事から長く豊かな髪を結い上げもせず、しかも首を覆う詰襟のドレスを着せて断頭台に送り込むだなんて。
処刑前に髪を切るのも、衿ぐりのあいた服を着せるのにも、全て理由があるのだ。
それを六回もあの場所に立った事のあるビアンカが知らない訳がない。
どうやら本当にあの娘の事が嫌いなようだな、とヴィルヘルムは思わず苦笑した。
「処刑には立ち会うのか」
当日の処刑が悲惨な事になるだろうという事は今から目に見えている。
ヴィルヘルムは至って慎重にビアンカに問うた。
「あら、どうしてそんな事をお尋ねになるのです」
しかし、ビアンカは小さく首を傾げて、本当に不思議そうにヴィルヘルムを見詰め返した。
「そんなつまらない事にわたくしが付き合う理由はございません」
その返答にヴィルヘルムはほとんど感心したように言った。
「本当に、君は悪い女だな」
その言葉に応えるようにビアンカは、組んだヴィルヘルムの腕にきゅうと力を込めて、少女のようにくすくすと笑った。
「──えぇ、わたくしこの国一番の悪女ですのよ!」
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