第8話
そうして全ての人間が血を吐いたり吐かなかったりして選別を終え、王子ヴィルヘルムが血を吐いた全ての人間を牢屋に収監するよう命じ、この裁判と書いて茶番と読む全く実りのない時間を終わらせたのだった。
「……予想より多かったな……」
「えぇ、時間ばかり掛かって仕方ありませんでしたわね。これから調書を取る関係各所が哀れでなりませんわ」
王子に与えられた宮の一室で熱い紅茶を飲みながら、一仕事終えた二人は、ようやく人心地がついた気分になっていた。
「君も疲れたろう。部屋を用意させるから今夜はゆっくり休んでくれ」
「えぇ、有り難くお言葉に甘えさせて頂きます。けれど、わたくしなどより、殿下の方がよっぽどお疲れでしょう? 欺く為とはいえ、何日も貴重なお時間をあの女と共に過ごして……」
「君だってダリモア伯爵の身辺を探るのに苦労していただろう。それに、君に何かあるより余程マシだ。キャロルが得意とする幻想魔法も魔法薬も君に教えて貰った魔法で遮断していたが、どのタイミングでどのくらいの関係になっているかは記憶していたから演技も別に難しくはなかったしな」
ぐったりとソファの背凭れに身体を預けたヴィルヘルムは、肺の中の酸素を全て出してしまうかのように大きく息を吐いた。
ビアンカも紅茶を飲んでからほうと深く息を吐く。
いつもだったら、今頃牢に戻されてまた断頭台行きかと項垂れていた頃合いだ。
それなのに、今回牢へ行ったのはキャロルの方で、自分はこうしてヴィルヘルムと共に香り高い紅茶を飲んでいる。
初めての事だからなのか、何だかまだ裁判をひっくり返して生き残る事ができたという実感が薄かった。
(勝った、のよね……? いえ、これを勝利と呼ぶのは何だか違う気がするわ)
ビアンカの脳裏を過ぎるのは、去り行く叔父の背中だった。
理由は何であれ、王家に背く大逆罪を犯した叔父の死罪は確定だ。
一生幽閉という処分も選択肢にはあったが、叔父はそれを受け入れまい。幽閉された初日に舌でも噛むに決まっている。
そう考えたビアンカは、彼をただの罪人として民衆の視線に辱められながら断頭台で処刑されるような事にはしたくないと、前もってヴィルヘルムに話をしていた。
だから叔父は貴族の誇りを失わぬよう、秘密裏に王城内で毒杯を干すように取り計らって貰える筈だ。
また、大逆罪ともなれば一族郎党皆処刑されるのが慣例であるが、それもヴィルヘルムが働き掛けてダリモア伯爵家の人間に累が及ばないようにしてくれるという。
ダリモア伯爵家を残せば遺恨が残るのではというヴィルヘルムの心配に、仇討ちに来るのならそれもまた良しと笑った事はビアンカの記憶に新しい。
恨みを買って命を狙われるような事があれば、それこそ悪女らしいし、それがビアンカが叔父に対して施せる最後の慈悲でもあった。
今は王城内で幽閉状態となっている父が事の顛末を知ったら悲しむだろうけれど、彼だってリンハルト侯爵なのだ。
時間は必要かもしれないが、きっと上手く心の折り合いをつけるだろう。
(やっと終わったのね。終わっ……たのかしら。でも、ここからが始まりな気もするし、こういうのは、やはりめでたしめでたしとはいかないのかしら)
今回、大量の貴族が処分対象となった為、これからしばらく周りは忙しくなるに違いない。
ヴィルヘルムにもビアンカにも責任のある事なので、おそらく事態が落ち着くまで二人が働き詰めの日々を送る事になるのは明白だった。
だが今はそんな事を考えて憂鬱になるよりも、ただ熱いお茶を堪能していたかった。
そう思ってビアンカがぼんやりとティーカップの水面に視線を落としていると、ぽつりと名前を呼ばれた。
「……ビアンカ」
「はい、殿下」
「ビアンカ」
「はい」
「ビアンカ」
「……えぇと、殿下、どうなさったの」
何度も名前を呼ばれ、ビアンカはティーカップを置いて、少々困惑気味にヴィルヘルムへと視線を向けた。
のろりと背もたれから身体を起こしたヴィルヘルムは、じっとビアンカを見詰め、そして掠れた声で呟いた。
「……生きてる」
ヴィルヘルムのその言葉に、ビアンカは輝く笑顔で頷いた。
「はい、殿下。ビアンカは此処におりますわ」
瞬間、ぼろ、とヴィルヘルムの両目から涙が零れ落ちた。
「うぅ、良かった……。今度こそ助けられて……。ビア、ビ、ビアンカが、生きてる……。うぅ、良か、ったぁ……」
ズッと鼻をすすり、零れる涙を手の甲や袖口でぐしぐしと乱暴に拭いながら、ヴィルヘルムは良かったと繰り返しては泣き続けた。
その姿は先程までの凛とした王子殿下ではなく、ただの同い年の男の子そのものであったけれど、ビアンカはそんなヴィルヘルムが可愛くて愛おしくて、お気に入りのレースのハンカチが濡れるのも構わずに彼の頬を拭ってやったのだった。
──ビアンカが己の未来を告げたあの日、ビアンカは自分が幾度も死んではその度に人生を繰り返しているのだとヴィルヘルムに説明した。
信じて貰えなくても構わない。
その時には気が触れた事にでもして婚約を破棄するつもりだった。
だが、ヴィルヘルムは酷く難しい顔をして、自分も人生を繰り返しているのだと言った。
それもビアンカを助けたくて幾度もやり直しをしているのだと。
そこでビアンカはヴィルヘルムの事情を知ったのだ。
前の人生でビアンカが収監された際にヴィルヘルムが一度も顔を見せなかったのは、彼自身が魔法薬とかけられた幻想魔法の影響で動けずにいたからだった事。
何度目かの繰り返しの中で、キャロルとの接触がビアンカの処刑のきっかけになっている事に気付いて徹底して避けた事もあったが、魔法薬の存在に気が付くまでに時間が掛かったり、魔法薬ではなく遅効性の毒を少量盛られたりして一人ではなかなか対処する事が難しかった事。
王族と言えど、確たる証拠もなく一人でビアンカの潔白を証明するのは難しい。
ヴィルヘルムはビアンカが処刑されてしまう度、王家に伝わる古代のアーティファクトに自らの命を捧げて時間を逆行させていたのだ。
彼もまた孤独に人生を繰り返し、試行錯誤に明け暮れる一人だったのである。
二人はすぐにお互いに知り得る限りの情報を共有し、擦り合わせ、今度こそ違う未来を手に入れようと決意した。
情報共有をしたおかげで、二人は事件の概要をこれまで以上に深く知る事が出来た。
ビアンカは、例の毒殺未遂事件の折、実際にはヴィルヘルムのカップに毒は混入されていなかった事を知った。
彼がお茶会の途中に倒れたのは、それよりもっと前に遅効性の毒を盛られたからだと、ヴィルヘルムが教えてくれたからだ。
どうやら敵は既に王宮内にも入り込んでいるらしい。
全ての敵を炙り出して駆除する為には、まず敵を逃げられない場所まで誘導する必要がある。
その場所にビアンカの裁判という舞台は最適だった。
二人は綿密な計画を立て、キャロル達の思惑通り事が進んでいると思い込ませて、裁判の為に貴族達が集まったところで偽りが通らない状況を作り出す事にした。
ビアンカとヴィルヘルムはこれまで一人では成せなかった事を、二人で協力して成し遂げたのだ。
これについて、二人の持つ権力と財力は非常に強力なカードとなった。
「それにしても、話のわかる大司教様で本当に助かりましたわね」
「あぁ、金貨という言語は本当に通じやすくて良い」
金貨という言語、つまり簡単に言えば寄付という名の賄賂である。
大司教というのは意外と色んなものが要り用なのだ。
王子とその婚約者が敬虔な信者の顔をして教会を訪れ、大司教様の御力をお貸し頂きたいと金貨の詰まった袋を差し出せば、彼は清らかな笑みで一も二もなく頷いた。
おかげで今回の肝となる、使える者が限られる『審判の宣誓』も大盤振る舞いの勢いで使う事が出来たし、貴族内で王家に害なすであろう一派もついでに一掃出来たし、これも全て神の思し召しというものだろう。
次は今回収監した彼らの処刑前の懺悔でも聞いてもらうとしよう。
寄付金額に見合った実に良い働きだったと、ようやく涙の止まったヴィルヘルムが呟き、ビアンカもそうですわねと首肯する。
どちらも聖職者に賄賂を渡した件については知らない顔である。だってほらあれは寄付だし。
「そういえば殿下、よろしいのですか?」
「何がだ?」
「本当に、わたくしなどを妻になさるおつもりなの?」
裁判は無効となり、ビアンカは生きている。
ビアンカにこれから待ち受けるものと言えばヴィルヘルムとの結婚だ。
リンハルト侯爵令嬢という血統は王家に嫁ぐに申し分ないものであったが、問題はこれまでのビアンカの素行だった。
「……わたくし、皆が噂する通りの悪徳令嬢ですのよ」
気分一つで他家を零落させ、気に入らない商人を追い出し、国の金で私的な宝石まで買った。脅迫だって一度や二度ではない。
あまつさえ今回血の繋がった叔父まで死に追い込んでいる。
最初はこのように全てをひっくり返せるだなんて思ってはおらず、七回目の人生の最期は自らの悪行によって裁かれるつもりでいたから、ビアンカはそれはもう本当に好き勝手に、これまでの六回の人生だったら自分自身に向かって『この恥知らず!』と何度も叫んでしまうような行いを幾つもしてしまったのだ。
──そんな己にヴィルヘルムの伴侶たる資格はあるのだろうか。
──そんな己が妃になるなど許されるのだろうか。
王家の品位に関わるとして婚約を破棄されても何ら驚きはしないが、今回の人生でビアンカはヴィルヘルムの事を好きになっていたので、もし婚約が破棄されてしまうとしたら正直少し寂しくはある。
ビアンカが窺うような表情でヴィルヘルムの顔を覗き込むと、ヴィルヘルムは眉根を下げておそるおそるといった口調で答えた。
「君の為に六度心臓を貫いた私の愛では足りないだろうか」
「その点に関しては、足りるとか足りないではなく、正直に申し上げて少し重い気は致しますわね」
「重い……。私との結婚は、嫌、なのだろうか?」
「いいえ。けれどわたくしの素行の悪さが原因で、殿下まで周りから悪様に言われてしまうのは、わたくしどうにも受け入れ難くて……」
ビアンカとヴィルヘルムは困った顔でお互いに見つめ合う。
しばしの沈黙の後、先に口を開いたのはヴィルヘルムだった。
「やはり、私の力不足を怒っているのか?」
「は?」
「私にもっと力や見識があれば、そうだな、せめて三回目くらいで君の処刑を阻止できたかもしれなかった……。君が結局六度も処刑されるような事になったのは、私の力不足が原因だ」
「まぁ。殿下ったらそんな事をお考えに? わたくしも思えばあれこれと悪手に出てしまいましたし、あれは殿下一人の責任ではございませんでしょう」
むしろよく六度も自分の心臓を刺せたものだとビアンカはヴィルヘルムの度胸を褒め、そしてそういう問題でもないなとはたと思い直して小さく咳払いをした。
「えぇと、殿下。わたくしは、あなたの妻になれたらどれほど幸せだろうと思っておりますのよ。けれど、わたくしはリンハルト侯爵令嬢として、己のした事に責任を持たねばなりません」
「……では、王陛下が君の素行について問題無しと判断した場合は?」
「その時は、わたくし、すぐに殿下とお話しなければなりませんわね」
真剣な面持ちで答えるビアンカに、ヴィルヘルムはごくりと喉を鳴らしてから何を、と尋ねた。
ビアンカは、あらおわかりにならないのと驚いた顔をしてから、悪戯っぽく笑って言った。
「婚礼衣装の事ですわ。王陛下のお許しが出たのなら、すぐに婚礼衣装の準備が必要でしょう。わたくし、また殿下にドレスをデザインして頂きたいの」
その言葉にヴィルヘルムがパッと表情を明るくしたので、すかさずビアンカが釘を刺す。
「あぁ、そうだわ。よろしい事、殿下。今後は陛下に尋ねられた時のみ、尋ねられた事だけお答えしなくてはダメよ。殿下は陛下に対してわたくしを擁護したり、わたくしの人柄を良く思わせるような事は一切してはなりません」
「何故だ」
「悪女はファッションではございませんのよ。わたくし、今生はこれでも真剣に悪女としてやってまいりましたの。ですから、その点について陛下からも正当な評価を頂きたいのですもの」
そこまで言ってから、ビアンカは薄紫色の瞳を伏せて少しだけ考え込んだ。
「……ねぇ、殿下。先程の裁判ですけれど、わたくしやっぱりもっと悪女らしい装いの方が良かったのではなくて?」
口許に手を当てて真剣に考え込むビアンカに、ヴィルヘルムは苦笑しながら肩を竦める。
「そうは言うが、その悪女の装いとやらが想像以上に似合わなかったと、姿見の前で三時間も落ち込んでいたじゃないか」
「その節は三時間掛けて慰めて下さってありがとうございます」
そして二人は再び見つめ合って、どちらからともなく微笑んだ。
「君の事も私の事も、最終的には父上が判断を下される」
「わたくし達は陛下のお沙汰を待つ他ないという訳ですわね」
移動してきたヴィルヘルムがそっとビアンカの前に膝をつき、彼女の膝に置かれた白魚のような美しい手を取って口付けた。
ビアンカはうっそりと目を細めてその口付けを許してやる。
「もしも陛下がわたくしとの結婚を諦めるよう殿下に通達なさったら、殿下はどうなさるの」
「さぁ、そうだな。もう一度心臓でも刺してみるかもしれないな」
ヴィルヘルムの軽口にビアンカはくつりと喉の奥で小さく笑った。
彼はこう言っているけれど、もう二度とあのアーティファクトを使う事はないだろうと、ビアンカは胸に予感めいたものを感じていた。
目の前に膝をつくヴィルヘルムの耳に、ビアンカがそっと囁く。
「そんなつまらない事仰らないで。わたくしを攫って他国に逃げるくらいの事はなさって下さらないと」
「ふむ。駆け落ちしながらの新婚旅行か。悪くない」
ヴィルヘルムが手を伸ばしてビアンカのまろく白い頬をなぞって顎に触れ、呼応するようにビアンカがそっと目を閉じる。
伏せた睫毛が彼女の目元に影を落とすのを見ながら、ヴィルヘルムは初めての唇への口付けを送る為にそっと顔を寄せ、
「あっ! わたくしったら、まだあの女に一度も平手打ちをくらわせてないじゃない!」
カッと目を見開いたビアンカが勢い良く立ち上がったので、結局今回もお預けになったのだった。
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