第6話
普段、患者さんに触れるその手を、ずっとそばで見てきた。大きく骨ばった指で患者さんの手首の脈をとる時、小さな子供の頭を撫でる時、どれも相手を思いやって優しく触れていたのだと、今更ながらマジマジと見つめてしまう。
「ごめん、おごってもらう上に焼かせてしまって」
「……いい肉だからこそ、俺が好きなように焼きたいの。気にしないで食えよ」
緋山くんは、笑いながら新しい肉を網の上に載せていく。
「じゃあ、MANA先生、小説大賞受賞おめでとうございます」
「……お、おう。サンキュ」
グラスを持ち上げて緋山くんの目の前に掲げて、私なりに笑顔で彼におめでとうと伝えた。
忙しい毎日を看護師という仕事をしながらも、小説を書いていたことも、その小説が賞を取ったことも,本当にすごいと感心するし、感動もした。
目の前で照れながら、ジンジャエールの入ったグラスを口に運ぶ緋山くんを見ながら、今夜は彼の受賞した小説を読もうと心に決めた。
「うまいな、やっぱり食べ放題の肉とは使ってる肉が違うんだなー」
「肉汁がすごいし、柔らかいし。次から安いとこいけなくなるじゃん」
「それは、まずいな。店出たら脳内リセットかけとかないとな」
お互いに美味しいお肉を味わいながら、その日もいつも通り楽しい時間が過ぎていった。
「ごちそうさまでした。結局デザートまでしっかり食べちゃったよ。美味しかったー」
「マジでな。次にあそこ行けるのはいつになるかな」
「脳内リセット掛けるんじゃなかったの?」
「もう少し浸りてー」
店を出て駐車場に戻りながら、他愛のない会話をする。
ふと、彼の横顔を見上げると彼が私を見下ろしていて、目が合ってドキリとした。自分を見ているとは思わなかった。そしてその目がひどく優しい目だったから驚いてしまった。
職場で患者さんに見せる目とも、同僚たちと話す時の目とも違う。なんていうか、すごく擽ったい気持ちになる眼差しだった。
慌てて視線を逸らせて、数歩先を進んだむ。
脈が速くなって、心臓がドキドキして、胸の辺りが苦しくなってきた。
いつから?いつからそんな目で緋山くんは私を見ていた?
美味しいお肉を食べて上機嫌だから?応募した小説で賞を取ったのが嬉しかったから?
そんな理由で無防備にも優しい眼差しを私に向けないで欲しい。今まで気づかなかったから余計に緊張するし、ドキドキするし、苦しくなる。
「……どした?」
「えー、なにが?」
後ろから声をかけられたけれど、私はあえて振り向かずに素知らぬ振りをした。振り向けるわけがない。自分がどんな顔をしているのか、今は絶対緋山くんには知られたくない。
「妹尾」
「んー?」
「……待てって」
待てという割には、緋山くん自身は近づいてくる様子もない。私だけが先へ先へと進んでいる。
「妹尾」
再び呼ばれて仕方なく私は足を止めた。けれど振り返ることはできずに夜空を仰いだ。
今日は晴天で、繁華街のネオンに負けない位星が明るく見える。
「明日は晴れるね」
「最近随分寒くなってきたけど、明日は久しぶりに暑くなりそうだな」
気づけば隣に立っている彼も空を見上げていた。季節は秋。10月に入って随分涼しくなってきた。この病院に入って1年半。彼と出会って、そのくらい経つんだ。
彼の隣は居心地がいい。最初は少し緊張もしていたけれど、今は逆に隣にいないことに寂しさを感じるくらいには、彼の存在は私の中では特別なものになっている。
緋山くんにとって、私はどういう存在なんだろう?
何となく、そんな風に考えてしまった。考えなくても分かっていたことなのに。だって、私と彼は同僚で、同じ年で、夕食をたまに一緒にする仲って関係以外のなにものでもない。
こんなことを考えている時点で、私は彼の特別になりたいとか、そんな大それたことを考えてしまっているんだろうか?
「妹尾」
不意に腕を掴まれて、体が傾く。
すぐ横を病院の駐車場に入っていく一台の普通車が通り過ぎた。車道側だった自分をかばってくれたのだと、すぐに分かった。だから、体勢を立て直して彼から離れれば済む話だった。
それなのに今の私は傾いた体を立て直すこともできずに、腕を引かれた反動のまま緋山くんの胸に倒れ込んでしまった。
少し厚着になった季節、彼のニットベストが頬をくすぐる。広い胸板と、髪の毛にかかる吐息。
(……!な、何をやっているんだ私は!!)
時間にしてみれば数秒だったかもしれない。けれど現実に戻れば羞恥以外の何物でもない感覚が私の脳を支配する。
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