第27話 浮かれる陛下は面倒くさい


◆◆◆◆◆◆


「マリスが俺の恋人になったぞ。これからは今までより丁重に扱えよ、皇帝命令だ」


 ヴェルハルトが自慢気に言った。

 爽やかな朝だというのにグレゴワールは頭が痛い。

 朝議が始まった時から妙だなと思っていたのだ。

 朝議の会議場に入ってきたヴェルハルトは一見普段と変わらなかったが、時々見せるほがらかな笑顔が胡散臭うさんくさかった。

 他の会議出席者たちは気づいていないが、付き合いの長いグレゴワールはしっかり気づいた。

 そもそも昨日は機嫌が最悪だったのだ。


『殿下とマリス殿が暴漢に襲われ、殿下を庇ったマリス殿が負傷しました!』


 昨日の執務中、その報告がもたらされた時のことは今でもしっかり覚えている。

 ヴェルハルトは付き合いの長いグレゴワールですら滅多にみられない顔をした。

 そう、ヴェルハルトにとって逆鱗げきりんだったのだ。

 ヴェルハルトは冷徹だと恐れられているが、それは強大な大国を統治するための陛下としての顔である。本来のヴェルハルトは寛大にして聡明、分別のついた大人の男だ。滅多に本気で激怒することはないのである。

 だが、その滅多に起きないはずのことが起きた。


「今マリスはどこにいる!」

「意識を失ったまま部屋に運ばれ、現在医師が診察しています」


 報告を聞いたヴェルハルトはすぐに執務室を飛び出した。

 グレゴワールも不測の事態に備えて後に続く。


「陛下、少し落ち着きたまえ」

「これ以上ないほど落ち着いているだろう」


 ヴェルハルトの淡々とした声。

 その抑揚のなさは嵐の前の静けさに似ている。

 どこが落ち着いてるんだ……とグレゴワールは内心呆れたが、今は黙ってヴェルハルトの後ろに続いていた。


「入るぞ」


 ヴェルハルトが寝所に入ると、マリスはベッドに横たわっていた。

 頬にはテープが貼られていた。他に外傷はないが、痛々しい姿にヴェルハルトは目を眇める。

 治療は無事に終わったようで枕元には医師が立っていた。


「容体は?」

「外傷は頬を殴打された一カ所です。痣ができていますが全治二週間の怪我です。今は意識を失って眠っているだけで、間もなくお目覚めになると思います」

「ご苦労。下がっていいぞ」

「はっ」


 医師は一礼すると寝所を出て行った。

 ヴェルハルトは枕元に立って眠っているマリスを見つめる。


「捕縛した暴漢は?」


 マリスを見つめながら控えているグレゴワールに淡々と聞いた。

 一切逸らされることがない目線にグレゴワールは目を細める。今のヴェルハルトは怪我をしたマリスを見つめることで激しい憤りを覚えるのに、マリスを見つめることで無理やり押さえつけているのだ。それは自分がどんな時も冷静さを見失ってはならない皇帝だと自覚した姿である。


「現在、収監されて取り調べを受けているよ。暴漢は貧民区の住人、マリス殿との直接的な関係はないが、暴漢の息子の面倒をマリス殿が見ていたそうだ。時々トラブルも起きていたらしい」

「……やはりマリスは貧民区に行っていたのか」


 調査によると、マリスが貧民区に積極的に関わっているのはヘデルマリアにいた頃からだった。ヘデルマリアでは孤児院をつくっていたほどだ。

 マリスは貧民区になんらかの思い入れでもあるのだろうか。

 それとも純粋な慈悲の心、無償の奉仕精神だろうか。

 しかも帝国はマリスにとって祖国を侵略した敵国だ。そんな国の貧民区に自己犠牲も厭わずそこまでできるものだろうか。

 思案するヴェルハルトにグレゴワールが続ける。


「私財を売った金で支援物資を購入していたらしい。ヘデルマリアから持ってきた財産はすでに底をついているようだ」

「…………」


(…………俺が用意させた服を着ていた理由は、それだったのか)


 裏切られたと思うのは間違っているだろうか。

 ヴェルハルトはマリスを無言で見つめる。


(俺は嬉しかったんだ。どうしようもなく、嬉しかったんだ……。少しは俺に好意を持ってくれたんじゃないかと……)


「……俺はマリスに振り回されてばかりいるな」


 それが恋だと言ってしまえばそこまでだが、他人のせいで胸がきしむような痛みを感じるのは生まれて初めてだ。

 ヴェルハルトはマリスを見つめたまま言葉を紡ぐ。


「グレゴワール、じつは俺は他人に傷つけられたことがない。それほど傷ついたこともない。だが今、些細なことで傷ついた。俺はたしかに傷ついているんだ」

「なんだ。怖気づいたか」


 グレゴワールは眉を上げた。皇帝の珍しく弱気な姿は興味深い。

 だがふいにヴェルハルトがニヤリと笑う。


「いや、悪くないと思ったところだ」


(やはり好きだ。愛しているといってもいい。俺を傷つけられるのはお前だけだ)


 これくらいで凹む皇帝ヴェルハルトではない。

 でもだからこそ、傷ついて眠っているマリスに怒りを覚える。

 マリスを守れなかった自分にも、身を危険にさらしたマリスにも、マリスを殴ったという暴漢にも。底知れぬ激怒を覚えていた。

 そしてそれはマリスが目覚め、暴漢の釈放を嘆願された時に頂点に達した。

 よりにもよってマリス自身は暴漢の暴力など意にも介しておらず、それどころか釈放を願ったのだ。

 まるで怒りを弄ばれた気がしてマリスが憎らしい。愛おしいからこそ憎らしい。

 皇帝として秩序を守ることを是非としてきたが、それを破ることも厭わないほどの怒りを覚えたのだ。

 だが、その怒りは意外な形で収まっていった。

 初めて目にしたエヴァンの激情だ。

 エヴァンの怒りを宥めるマリスの姿がヴェルハルトを皇帝であれとギリギリのところで保たせたのだ。


 そして夜。ヴェルハルトは朝を待てずにマリスの見舞いに行ったのだ。

 夜着姿のマリスは昼間とは違った魅力に満ちていた。

 さらりとした薄手の夜着は、生地越しにマリスの体の線が見えていて目に毒だ。ただの夜着姿だというのにひどく煽情的だったのだ。

 そして。


「陛下、お慕いしています……」


 この瞬間、死んでもいいと思った。

 今までの怒りが嘘のように立ち消えて、心が壊れたのかと思うほど歓喜だけに満たされた。


(抱きたい。今すぐ抱きたい。どうしても抱きたい。マリスが欲しくてたまらない)


 正直、自分がバカになったのかと思った。

 抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。抱きたい。

 強烈に思った。それしか考えてなかったといっても過言ではない。

 男は本命の前ではバカになるという。まさか自分がそのバカになるとは夢にも思っていなかった。

 マリスを横抱きで運びながら寝所のベッドしか見えていなかった。

 早く早くと心がく。一秒でも早くベッドに降ろしたい。マリスを運びながら、マリスと愛しあうためのベッドしか見ていなかった。

 あとはもう最高の時間だった。

 この手に触れたマリスの肌の感触はよく覚えている。

 しっとりと手のひらに馴染み、どんな上等な絹よりも触り心地がよかった。

 マリスの快感にすすり泣く姿に煽られて理性が擦り切れてしまい、いつもより激しくなったのは自覚している。でもヴェルハルトにとってはそれすらも初めてだった。今までどんなに上等な女性を抱いても理性を手放すことはなかったのだから。


(マリスは初めてだったというのに、少し性急だったな……。それは反省せねば)


 傷つけたいわけではないのだ。ただ愛しあいたいだけである。

 昨夜のことを思い出すとヴェルハルトはこめかみのあたりがむずむずする。

 最高の余韻よいんにひたれるのだ。

 晴れて愛しあう恋人同士になれてヴェルハルトは大満足である。


「グレゴワール、恋はいいぞ。恋は」

「……なにが恋はいいぞだ」

「お前にも教えてやりたい。だがマリスで学ぼうとするなよ? いくらお前でも許せそうにない」

「心配は無用だ。そんな日は訪れない」


 グレゴワールは呆れた顔で言った。

 恋が成就したばかりで浮かれる皇帝陛下はとても面倒くさかったのだ。


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