暁光のレムレス−邪神ロキは最愛の妻を救うため、記憶喪失の兄妹を保護します−
夜門シヨ
第一部1篇
1頁
「こっちだ! 速く走れ! 追いつかれるぞ!」
星一つ存在しない、満月だけが大地を照らす濃紺の夜空。そんな冷たい空気を纏う大地の片隅で、まっ黒に茂った森の中を鎧を着た三人の男達が、白い息を何度も吐き出しながら必死に走っていた。皆たくましい身体つきをしているというのに、その者達は酷く怯えた表情で何かから必死に逃げていた。
森全体の葉っぱが大きく揺れた。風など吹いていないというのに。
そんな現象に彼等は身体を震わせながら、「もう無理だ」と一人が弱音を吐き、足を止めてしまう。それに釣られ、残り二人も足を止める。
虚ろな目で空を眺める者や、両膝をつき「我等を護りしオーディン神よ、世界樹よ。どうかどうか。お助けください。お助けください。お助けください」と震える身体で信仰する神へと祈りを捧げる。
しかし、その祈りは届かない。
再び葉っぱが大きく揺れ、今よりも一層冷たい空気が周囲に漂い始めると、何もないはずの暗闇がぐにゃりと歪む。それは、男達を囲むかの様にどんどんと歪んでいく。その空間からは黒いモヤが現れ、全ての空間から出終わる、と。
〈カエロウ〉
血の様に赤い無数の目と冷たい闇の広がる口が、彼等を飲み込んだ。
「ひっ……!」
〈――!〉
ぐるんと赤い目が声のした茂みの方へと一斉に振り向く。
「やばい、逃げろ!」
男の声が先導して、女の腕を掴んで森の奥へと逃げ込む。それを、黒いモヤはユラユラと追いかける。
ボロ布を纏った十代半ばの二人は、息を切らしながら懸命に走る。が、黒いモヤは二人から興味を失うことなく、果てのない闇の口を広げている。
「……ナリ、お兄ちゃん。はぁ、はぁ……私、もう……」
「ナル! 諦めんな! もっと走れっ!」
「む、むっ、りっ……!」
少女の足は少年の励みに応えられず、その場にへたり込んでしまう。
「ナル! あっ……!」
黒いモヤが、兄妹の背後へと迫る。
〈カエロウ ネムロウ サダメタ オワリヘ〉
終わった。
兄ナリは無意味にも関わらず、震える妹ナルを護るように強く強く抱きしめる。が。闇に光明が差す。
それは、炎だった。
化物のいる地面からそれは吹き上がり、脅威を奮おうとするソイツの身体に巻きついていく。振り払おうと暴れるも、それを許さぬ炎がどんどんと化物を苦しめていく。
最後に化物は、炎に身を震わせながら奇怪な声を出して――消滅した。
それが燃え滓になっていくのを、息を呑んで見届けた兄妹。そんな彼等の背後に「大丈夫か?」と、優しい声がかけられる。二人は自分達以外の声に身体を大きく振るわせながら、深呼吸を一つ。そしてゆっくりと、声の聞こえた背後に身体を向ける。
そこには、ある男がいた。
「よっ」
月明かりを背後に、男は二人にひらひらと手を振って、まるで友達であるかのように「ニコリ」と軽く挨拶を交わす。
本来ならキッチリと着るべきだろう白い装束をだらしなく着こなし、橙色の長髪は三つ編みにして、それはまるで動物の尻尾のように風で揺れている。闇に灯る一つの光、しかしどこか仄暗い雰囲気も合わせ持っていそうな、と切れ長な緑青色の瞳がそう思わせる。
風が強く吹き、兄妹の被っていたフードが脱げ、顔があらわになる。兄――背中の半分まである銀色の長髪は括らず無造作にされているが、銀色の瞳は凛々しくロキを見つめている。妹――後ろ髪は肩までだが横髪だけは鎖骨まで伸びた銀色の髪を持ち、くりっとした愛らしい銀色の瞳を涙目にさせている。
兄妹は男の登場に驚きながらも、「ありがとう」と勇気を振り絞って、声を出した。兄妹のその言葉に、男は座り込んでいる二人と同じ目線となり、嬉しげに口角をあげて「うん」とまた微笑んで見せた。その笑みに、二人は不思議と心地良さを感じていた。この重苦しい空間で、男のヘラヘラとした態度の軽やかな雰囲気が唯一の救いであるかのように錯覚しているのかもしれない。
「で? 君達はなんでこんな森の中に居たんだ? そんな丸腰で。ボクが来なかったら【レムレス】に喰われてたぜ」
「レムレス。夜の世界になって出てきた……化け物」
ナルが瞳を泳がせながら、そう呟く。
一週間前。世界は前触れもなく変わってしまった。空は夜に染まり、昼が来ず、星も輝かない。月のみが空を占領し、嘲笑っているかのように怪しく光る。地上には命ある者を喰らう黒いモヤの赤い瞳の化物――亡霊【レムレス】が生まれ、夜だけの世界となったのだった。
「まさか、国から出てすぐに遭遇するとは思わなかったんだよ……逃げるのに、必死だったから」
ナリは自身が持っている、食料が詰め込まれている鞄を握りしめながらそんな言葉を溢す。
「君等、人間族だよな? どうして逃げる必要が? あそこは一番、オーディンが力を入れて守ってるはずだ。君達は弱いからな」
「なっ! それはそうなんだろうけど……俺達、その人間族から逃げて――」
「……ッ!」
男とナリが話を進めていると、視界の隅に入ったナルの表情に目を丸くさせる。
何を思い出してしまったのか、彼女の顔は青ざめ、震え、兄を抱きしめる力を強くしていた。そんな彼女の頭を兄が優しく撫でる。そんな彼等の様子に触発されたのか。それとも別の感情が男を揺さぶったのか。彼等の頭に、男は両手を伸ばす。そして、優しく、優しく、二人の頭を撫でたのだ。
男に撫でられて固まる兄妹。すかさず、ナリが男の両腕をはたき落とす。
「――ッ。撫でんな!」
男は「あぁ、すまん」と軽く謝った。
「というか今更だけどさ! オーディン様を呼び捨てって、アンタ何者だよ!」
最高神オーディン。その者は、巨人ユミルを殺してこの世界ユグドラシルを創造した神族。そして、世界の絶対的な存在。
「あぁ、ボクは神族だよ。邪神ロキ、って言ったら驚くか?」
さらっと、彼はそう言い放った。
「邪神、ロキ……。あの? 元巨人族で神族になった方っていう?」
「あまり、いい神様だって聞かない? あの」
邪神ロキ。人間族などの弱き者達を支える使命を持つ神族の地位についても、誰かを救ったことがない。自分勝手な一族の嫌われ者。
「そう。その邪神ロキ。で。君達を保護しにきたわけ」
「「えっ!」」
ニコリと胡散臭そうに微笑む男の言葉に、二人は口をぽかんと開ける。
「な、なんで?」
「……。なんとなく、かな」
男の話に不信感を抱きながらも、二人は互いに目を数秒間合わせては、大きく頷き合った。
「いいよ。今はアンタについていく。でも、ナルにこれ以上触れたらゆるさねぇ!」
「……私も。私も、お兄ちゃんと一緒にいれるなら」
彼等、兄妹の答えに男は、満面に喜悦の色を顔に浮かべる。
「よし。そうと決まればーーって、そういえば君達の名前ちゃんと聞いてなかったな」
「俺はナリ!」
「私はナル、です」
彼等の名前を聞いたロキは間を作ってから「……あぁ、よろしく」と言った。
それから。出発するにしても、休んでからにしようというロキの提案でひとまず今日は野宿をする事となった一行。兄妹は疲れからか、すぐに夢の世界へと入り込んでいった。
ロキはというと。なぜか自分の両手を見つめていた。彼等の頭を優しく撫でた自身の手を。
〈どうした? 自分の両手なんて見つめて〉
ロキの頭上に赤い瞳を光らせ黒いモヤを纏った鷲型らしきレムレスがいた。そのレムレスから発せられた声に「いや……別に」とロキは淡々と返し、両手をギュッと握りしめる。
「それより。この……シギュンに似た子供達はなんなんだ? ロプト。君が言ってた……シギュンを救うために必要だってのは本当なのか?」
シギュン。それは、邪神ロキが唯一愛する銀色の神と瞳を持つ女性。そして今、夜の世界になってすぐ行方不明となった者。
鷲――ロプトは、スヤスヤと抱きしめ合いながら仲良く眠る兄妹を、赤い瞳を細めながら見つめる。
〈あぁ、そうだな。……あとは、前に話したように。特別なレムレスを狩っていけばいい。そいつらは、この兄妹に寄ってくる。きっとな〉
ロプトの言葉に彼は呆れ顔を見せる。
「そうは言ってもな……君の言う【特別なレムレス】ってのは一体なんなんだ?」
〈ふっ。君が気にすることはないさ。運命はちゃんと廻っていく。……そうでないと、いけないんだ〉
その言葉に、ロキは「そうかよ」とため息を溢しながら、自身の左手の薬指に光る指輪を、愛おしげに触れる。
「ボクは……シギュンに会えたら、それでいい」
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