第15話

「え」


 一瞬、内臓が浮くようなフワっとした感覚がした後、すぐにいつも通りの重力に戻った。

 別にどこかが痛いとかは無い。

 だが、僕は確実に先ほどまでいた場所とは異なる場所に飛ばされている。


「……里美沢?」


 目の前に広がっていたのは仄暗い空間。

 どこかの一室のようにも見えるし、屋外のような印象も受ける。ここがどういう場所なのか、明確に認知できない。


「まさか、ここまで降りてくるとはね」


 ただ、目の前に現れた里美沢は、いつものように制服の上にパーカーを羽織り、気だるげな気配を纏っている僕が知っている里美沢だった。


「……ここは?」

「夢の淵」

「なんかカッコいいな」

「随分とお気楽だね」


 里美沢は物憂げな表情で僕のことを見つめた。

 パーカーのポケットに両手を突っ込んで、踵を返して歩き出す。僕は特に何も考えずに里美沢と話したいがために彼女の後を追う。


「上ヶ丘くん、もうここから出ることは出来ないよ?」

「そうなの?」

「うん、ここはアタシの一番深いところ……ここから出るならアタシを殺すしかない」

「……」


 里美沢は見透かしたような笑みで振り返ってくる。


「それに、上ヶ丘くんがアタシを殺さないって、知ってるし」

「殺すなんて物騒な」


 途端に口を尖らせる里美沢に対し、僕は首を傾げた。


「上ヶ丘くんは優しいね……優しすぎるよ……」

「そう? 最近は薄情だってカナメには言われたけど」

「……薄情だったら、わざわざ上ヶ丘君を夢になんて堕とさないよ」


 僕は里美沢の意味深なセリフに足を止めた。


「……驚いた、本気で覚えてないの?」


 里美沢は目を丸くした。


「……あんまり話したくないけどさ、アタシが独りぼっちだった時、話しかけてくれたじゃん?」


 言われてみて、僕の頭に浮かんだのは高校一年生の夏休み明けだった。

 普段はカナメと一緒にいる女子がその日は一人で憂鬱そうに窓の外を眺めていた。

 特別な感情なんて無く、ただ、カナメの友達はどんな人なんだろうという興味から声を掛けたに過ぎなかった。


「あれ、すごく嬉しかったんだよね……ていうか、アタシの中にあった何かが満たされた感じがしたんだ……カナメの居ないアタシに興味を持ってくれる人がいたんだって……」


 里美沢の言葉に先ほどまでの凄味は無い。


「……まぁ、話してみたら意外と面白い人だって分かったからな、里美沢は」

「意外とは余計」

「じゃあ、めちゃくちゃ面白い人」

「それもいーやー」


 里美沢は目付きを鋭くして僕の両頬を引っ張ってきた。


「アタシってばさ、家でも学校でも誰にも必要にされてないんじゃないかって……アタシってこの世界にいないんじゃないかなって思ってた……だからアタシのことを見てくれた上ヶ丘くんとカナちゃんが別の人に盗られるのは許せなかったんだ……」


 誰かと関係を持った人なら里美沢の感情は理解できる。僕だってそうだ。親しくしていた友人、ここでは仮に亮平を思い浮かべてみる。

 亮平が別の誰かと親しくし始め、僕とも疎遠になったと思うと、確かに少し寂しいのかもしれない。

 ただ、里美沢はその寂しさを人よりも大きく感じてしまっただけなのだ。


「だから、みんなを夢の中に?」

「うん……キモイよね」

「いや、キモくない」

「?」


「里美沢はたまたま力を持っちゃっただけなんだろ。僕が性欲の化け物になったら多分、里美沢以上にキモくてヤバい事すると思う」


 欲求なんて綺麗な物じゃない。

 だから互いに認めうしかないのだろう。


「僕は里美沢のことを嫌いにはならない」


 僕の頬を摘まむ里美沢の手に少し力が入る。怒らせたかに思えたが、里美沢の瞳は暗闇の中の微かな光を反射して潤んでいた。


「……上ヶ丘くんはさ……アタシの事、女の子としては見てくれないの?」


 囁くような声音。

 少し回答に悩んだあと、僕は無言でうなずいた。


「里美沢は僕の大事な友達だ。それに、里美沢が見て欲しい人は僕じゃないだろ?」

「……」

も話したがってた」

「本当?」

「保証する。今からでも話してみたらどうだ? 出来るんだろ?」


 里美沢が目を伏せたその時、暗闇の中に一筋の光が差した。

 別に僕が何かをしたとか、里美沢が改心したという雰囲気は感じない。ただ、奇跡が起きたのだと思った……が。


「おっとっと……あ、瑛太さん! ご無事でしたか」

「そこはカナメだろ」


 暗闇を裂いて現れたのは鬼月さんだった。

 鬼月さんの登場は絶対に良い事のはずなのに……何だろう、今じゃない。

 驚いた里美沢は僕の両頬から手を離し、突然現れた鬼月さんを睨みつける。


「マジで……どうなってんのよ、アンタ」

「それは里美沢さんの方も分かっているんじゃないですか? 私が強い理由」


 鬼月さんはいたって真面目な顔で里美沢を見返した。


「……それは……」


 鬼月さんは里美沢を見つめたまま僕の傍まで歩いて移動し、得意げに胸を張った。


「なに? どういうこと?」


 良く分かっていない僕は素直に鬼月さんに尋ねた。


「タマホウシは宿主の欲求が強ければ強いほど強大な力を得ることはご存じですか?」

「あー、うん。なんとなく」


 磯崎さんの一件の時、鬼月さんが発した些細な一言を思い出した。「これほどまで臨さんの食欲が強いとは想定外でした」……。

 磯崎さんの食欲があの巨大な獅子のようなタマホウシとして具現化されているのであれば、この世界は里美沢の欲求の具現ということになる。


「里美沢さんの欲求は膨大で、それに呼応したタマホウシはこんな世界を創り出した……。紛れもなく戦後最大規模のタマホウシです……まぁ夢の中なので実感は湧かないでしょうけど」


 鬼月さんはサラッと恐ろしいことを言うと同時に、「そんなタマホウシを圧倒しちゃう私さすがじゃないですか? ね? ね?」と言わんばかりの視線が飛んできた。


「……じゃ、じゃあ鬼月さんはそんなタマホウシにどうやって勝ったのかなぁ?」

「それはですね、瑛太さん! 欲求の強さが私の方が上だったからですよ!」


 仕方なく欲しそうな質問をしたら、食い気味に答えてきた。


「里美沢さんの欲求は紛れもなく、瑛太さんへの想いです……ですが、里美沢さんが思いを寄せているのは瑛太さんだけではありません。そこが勝因ですね」


 鬼月さんは楽し気に述べたかと思うと、声のトーンを落として「しかし」と続ける。


「ここから出る方法が無いんですよね」


 無いと明言した鬼月さんだが、先ほど、里美沢は自分を殺せば解放されると言っており、矛盾が生じている。

 僕は問いただすような視線を里美沢へ向けると、薄ら笑いをうかべて僕から視線を逃がした。


「鬼月さん? 里美沢が死んだらどうなるの?」

「ゲーム機やパソコンと同じです。電源が落とされてそれまでのデータが全て消去、つまり囚われている人々の精神は戻らなくなります」


 ため息を吐いて、里美沢へ抗議の目を向ける。


「なるほど、里美沢は本当に良い性格をしてるなぁ」

「あはは……上ヶ丘くんがアタシを殺してくれれば楽だったんだけどね」


 かなり絶望的な状況だが鬼月さんの目は全く諦めていない。


「さて、里美沢さん、ここで交渉です」

「なに? 言っておくけどアタシ、特にアンタだけは許せないから」

「で、ですよねー。私も胸の事バカにしたの許せませんし……というわけで、お話できる方を呼んでいます。今日のゲストはこの人だ! どうぞっ!」


 相変わらず浮かれてんなーと呆れつつも、鬼月さんが促す先へ視線を動かした。

 すると、鬼月さんが現れた時と同様に暗闇の中に一筋の光が差し、一人の女子生徒が転がり込んできた。


「イターーーイ!」


 頭を打ったのかしばらくのたうち回った後、僕と視線が合った。


「カナメ?」

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