最終話 上るクジラ
ここ最近で一番気分のいい朝を迎えた透は、軽い足取りで学校へと向かった。周りの目に怯える透はもう居ない。しかし、問題というものは本人の意思とは関係なく、容赦なく襲ってくるものだ。透の晴れ晴れとした気分は、教室の扉を開けた途端に消え去った。
教室中に漂う異様な雰囲気。最近は軽蔑の念しか覚えられないクラスメイト達が、一塊に何かを囲んでいた。透の嫌な予感は一瞬にして的中し、その位置がカイの席であることに気が付く。
透が近づいて見ると、そこには無惨にも落書き塗れになったカイの机があった。古典的なイジメだと呆れる透の目に一枚の写真が映る。そこに映っていたのは、記憶に新しい昨日の光景。広沢の隣を歩くカイの姿だった。
「仲良さそうに遊んでたらしいよ」
「へー意外」
「広沢さん、なんか脅迫されてるんじゃ……」
透も嫌というほど味わった無遠慮な陰口。少し違うのは、そこに憤りを感じる声が混じっていること。透はこれをやった犯人への怒りを湧き上がらせ、すぐに気持ちを落ち着けた。犯人捜しをしようが何の意味もないと悟ったのだ。結局、これをやった犯人が何をしなくても、他の誰かが面白半分にこの波を大きくする。そういう意味では、ここに居る全員が加害者のようなものだった。
「……え」
「ん?」
開口一番に絶句と困惑を漏らしたのは、広沢とカイ。登校途中で出くわしたのか、二人仲睦まじく並んでやって来たようだ。
カイの机を囲んでいたクラスメイト達の視線は一瞬にして広沢とカイに注がれる。そして彼らは蜘蛛の子を散らすようにそれぞれ移動し、ひそひそと会話をし始めた。二人に非が無いとはいえ、そのあまりの間の悪さに、透はため息が漏れそうだった。
「これ、片付けよう」
「う、うん」
「ごめんね二人とも」
透の呼びかけに、広沢は周りの様子を窺いながら承諾し、カイは申し訳なさそうに謝罪をして、三人は片づけを始めた。
ほとんど会話もせず、三人は黙々と席を掃除する。その間、透はこの件の手強さに頭を回していた。
今まで通りの陰湿な虐めで終わる。そんな楽観的な予想は、透にはできなかった。これがカイを笑い者にするだけの話で終わるなら簡単だが、今回はあの広沢も関わっている。前の件で浮いているカイと、校内一番の人気を誇る広沢。その二人が恋仲ではないかと噂され、それが広まるなら……好奇心よりも、嫉妬や怒りを覚える連中が出てきてもおかしくはない。透はそう予想した。
透の不安が拭いきれないまま、いつも通りの学校生活が始まる。授業中はどの生徒も静かなもので、まるで先ほどとは違う世界のようだった。これも彼らなりの日常で、世間に適応する術なのだろう。
そして平和な一限が終わり、各々が休憩しようと席を立つ。カイと広沢を未だ気にする生徒はごく少数だが、やはりちらほらとその声が聞こえる。ひとまず無視するべきだと透は考えたが、言葉も無しに仲間と意思疎通することは不可能だった。
突然、周りの目をはばからず広沢が教室を出て行った。これには彼女の取り巻きも動揺し、不自然な光景として人目を引いた。透もその広沢の後ろ姿を眺め、昨日の楽し気な姿とは打って変わって、切迫感を感じさせる彼女に、危機感を覚える。ただ陰口に耐えられなくなったのかもしれないが、広沢の行動が状況を好転させるとは思えない。
広沢を放っておけず、勇気を出して彼女を追おうと席を立つ透だったが、ふとカイの姿が目に入る。特に周りの様子を気にせず、彼は窓の外を眺めていた。
透はこの教室に、カイを独り置いていくことは出来なかった。かといってカイを連れて行けば、この噂を余計に助長するだけだろう。
結局、透は自分の席に座り直し、ただ時間が過ぎ去るのを待った。カイに話しかけたりなどする生徒は居らず、広沢も授業に間に合うよう戻ってきたため、何事もなく二限が始まるかと、思われた。
「今朝の机の落書きについて話がある」
そう話を切り出したのは、ちょうど二限の教科を受け持つ担任教師。いつもの快活さは無く、幾らかの疲労が見て取れる顔をしていた。
三人は虐めの件を教師に悟られる前に片づけを終えていた。だから担任がこの話を知る由は無い。折角の話題を教師に咎められるのは、このクラスメイト達も望まない事だろう。だから告げ口の犯人は、必然的に広沢の可能性が高かった。
「いい加減にしてよ皆!」
ほとんどやる気の感じられない担任による注意喚起が終わろうとしていた頃、広沢が声を荒げた。これには担任やクラスメイト達だけではなく、透も驚きを隠せない。広沢は容姿からもてはやされる女子であり、ゆえにこの毅然とした主張は非情に珍しいものだった。言ってしまえば、彼女らしくないのだ。
彼女も前後不覚に陥ってしまっているのか、その一言から次に出て来る言葉はなかった。担任が咳ばらいを零し、広沢のフォローに回るよう話をまとめ上げ、普段通りに授業を再開させる。しかし、やはりというべきか、ここ最近で一番の盛り上がりを見せる今回の件は、クラスメイトの格好の餌食でしなかった。
それから昼休みまでの間、クラスメイト達は隙を見て、広沢の周りに群がった。普段は完璧に映る広沢が珍しく弱みを見せたことに、勝手に親近感を覚えたのだろう。容赦ない同調圧力が広沢を襲った。
カイとの関係を無神経に聞かれ、遠回しに馬鹿にされ、挙句に変人扱い。今までとは違う周りの反応に、広沢は戸惑う。面白ければいいとテンションだけで生きる男子グループ、いつも目立つ広沢に嫉妬を覚えていた女子生徒。主にその二つの悪意に晒され、広沢は限界を迎えた。
気付くと、教室に広沢の姿は無かった。彼女を抜きに始まる昼休みは、クラスの均衡が決壊した暗示のようにも思える。人気者の広沢が居ないというのに、それを気にかける生徒はほとんどいなかった。
透は頭を悩ませながら、先ほどと同じ轍を踏むわけにはいかないと、広沢を捜すことにした。当然、カイを置いてく訳にもいかない。しかし、声を掛けようと透が視線をやった先には、無人の席があった。カイの姿はどこにもない。こんな時に姿を消すカイの行動が解せない透だったが、広沢が何をしでかすか分からない以上、カイまでも探している余裕は無かった。
透が校内を駆けまわっている間、周りから聞こえるのは広沢の噂だった。噂が出回り始めたのは今朝のことだというのに、既にほとんどの生徒がそれを知っている。校内一の美女とはいえ、その噂の広がり様に透は恐怖した。まるで何か見えない力が働いていると、そう思わずにはいられなかった。
そして彼女が居るであろう場所に当たりをつけ、透は広沢を見つけた。場所は無人の空き教室。透が独り時間を潰していた人目のつかない場所で、彼女は椅子を使わず蹲っていた。
「……広沢さん」
透が恐る恐る声を掛けると、広沢は慌てたように涙を隠した。透はそれを目ざとく見つめ、そして気付かないふりをする。
慎重に彼女と距離を置き、透も腰を下ろす。長い沈黙が降り、次に口を開こうとしたのは透の方だったが、上手く言葉が出なかった。気の利いた心配の声を出す他ないと、透も分かっていた。しかし、出来なかった……というよりは、したくなかったのだろう。自分の中に無視できない疑問があり、透はそれを口にした。
「どうして、あんなに目立つことを?」
透は広沢に、少し許せない気持ちがあった。結果的に彼女が状況をひっかき回し、カイに迷惑をかけていると思ったからだ。常日頃から大勢の人間に囲まれる彼女が、こうなると理解していなかったのかと。何となくだが、透も理屈の話ではないと分かっている。カイを好きな広沢が、彼の為に何か力になりたいと考え、それが空回ってしまっただけ。ただそれだけの話だ。
「っ、助けたかったからに決まってるでしょ! 私だってあんなことになるなんて」
透の不躾な問いに広沢は激昂した。普段の彼女からは考えられない取り乱した姿を前に、透はただ無表情で居る。そして、長い勘違いを透は自覚した。
広沢も人間だった。透と同じ世界で生きるただの人間。透は周りと同じように彼女を神格化し、完璧な超人だと思っていただけなのだ。現に広沢は弱みを見せ、感情を制御できずにいる。
「カイくんは……私の、神様だから……」
広沢の弱々しい本音が、透の耳に届いた。一瞬、透はその意味が分からなかったが、すぐに理解する。そう、彼女もカイに救われた人間だった。その後に紡がれる広沢の本音から、透は彼女を取り巻く環境を察する。
親に言われるがまま身なりを着飾り、そんな彼女に周りは期待を寄せ、広沢は重圧を感じていた。勉強も運動も平均的で、完璧を演じるに必死だったのだろう。恐らく、カイだけが等身大の広沢と向き合っていた。
ひとしきりの慟哭を終え、広沢は再びその場に蹲る。透はただ、その光景を眺めていた。透が憧れていた広沢はもう居ない。透はその現実を受け止め、今まで抱いていた自分の身勝手な憧憬を思い出し、広沢に申し訳なさを覚える。しかしそれ以上に、透は親近感を覚えずにいられなかった。
かつては透も、完璧ではないが自分を偽っていた。周りの目を気にし、時には自分の気持ちを誤魔化して。だから、透は広沢の気持ちを、勝手に理解できた。
「……俺もカイに救われた」
「……」
ただの同情だ。広沢は透の言葉を意に介していない。しかし、透から放たれた次の言葉は、広沢を否定するものだった。
「でも、カイは神様じゃない」
それは広沢にも響く言葉だった。他でもない自分が、身勝手な期待を寄せられ、しかし今度は、カイを神聖視していたから。
「こんなとこに居たら、手遅れになる」
透のその言葉は、広沢だけでなく、自分に向けたものでもある。立ち止まってしまいそうな自分を、奮い起こす為、透は言葉に力を込めた。
「カイを、助けないと!」
カイを救うためには、広沢が必要だと透は思った。だからこの言葉には、多少の打算が含まれている。その事は透自身も自覚していたが、それでも後悔はしなかった。
透の本心は、広沢よりもカイが大事だと答えを出した。その決定的な優先順位は、透の初恋を過去のものとし、広沢を立ち上がらせようと差し出した手に、何の下心も持たせない。
透の言葉に正気を取り戻した広沢は、涙をぬぐい、彼の手を取る。透は好きだった人の手の温もりを感じ、しかし心躍らせない。『これも役得だろうか』と、透は仄かに自嘲した。
「あーカイなら先輩に連れてかれたよ。その……屋上に行くとか言ってた」
そう言ったのは、広沢を気にするクラスメイト。カイを呼ぼうと教室に戻る透と広沢だったが、彼は未だそこに居なかった。話によると、カイは顔も知らない学年上の生徒に呼び出しを受けたらしい。何故そんな事に、と頭の中で警鐘を鳴らす透だったが、広沢の方には心当たりがあった。
「その人、多分この前私に告白してきた人だ」
その先輩とやらは運動神経はいいものの、少し気が短く、不良の気がある事でも有名らしい。広沢は恐怖しながら告白を振ったと語っている。
透は広沢のことも忘れて、屋上へと駆けだした。先ほどの話が本当なら、カイが無事で済む保証はどこにもない。胸が張り裂けそうな思いで、透は立ち入り禁止の屋上のドアノブに手を掛けた。
今日は快晴で、雲一つない群青の空に、太陽の光が一筋、鋭くさしている。カイと関わった影響か、透がその景色に海を幻想すると、次の瞬間、水が舞った。
透は光を反射する水と、その音に現実へと戻る。悩みなど吹き飛ぶような天気とは対照的に、そこには空のバケツを持つ複数人の男子生徒と、水を被って衣服を濡らすカイが居た。
何の話をしていたかは分からないが、カイはボーっと空を眺め、男子生徒達はその様子を見てケタケタ笑っている。透はその光景を見て、沸々と怒りを感じていた。
「ん? 誰?」
男子生徒の一人が透を見つけると、複数の視線が一斉に透を捉えた。透はその視線を意に介さず、ずかずかと彼らとの距離を縮める。空を眺めていたカイも、透に視線が釘付けになっていた。
目撃しただけでなく、更に乱入して来ようとする透に、男子生徒達はつまらなそうな顔をする。主犯格である男が舌打ちを零すと、透に声を掛けた。
「部外者お断りなんですけど。何? 君も混ざる?」
男はそう言うと、空バケツを透の方へと投げる。カランカランと大きく音が鳴り、透は一瞬、怯えから躓きそうになってしまう。しかし、もう逃げることはない。緊張を顔に張り付けながら、透は男を睨んだ。透の態度が気に食わない男は、苛つきを隠しながら透に近づこうとする。
「もう止めて!」
そう声を荒げたのは、透の後を追ってきた広沢だった。その制止は、透と男の歩みを止める。広沢の登場により、他の男子生徒達も動揺しているようだった。
数秒の沈黙の後、人目がある中でカイを虐めるのに抵抗があったのか、男子生徒達は空のバケツを手に取り、退散しようとした。しかし、広沢に振られたという男だけが、広沢と透に執着を見せる。
「邪魔しないで欲しいんだけどなあ。折角みんなで仲良く遊んでたのに」
「……白々しくて見てられません」
あからさまな笑顔を張り付け、言い訳をする男に、広沢は断固として否定の意を示した。男は何もかもが面白くなかったのだろう。彼はふと目に入る透を見て、表情を歪めた。
「……へー俺振っといて、もう二人も男つくってんだ。いいご身分だな」
男はそう言うと、透の前に立ちはだかった。歳の差もあり、男は透よりも背丈が大きく、体格もいい。一触即発の空気に広沢は声が出せず、透も冷や汗が止まらない。しかし、それでも透は事態に立ち向かった。もう過去の過ちを繰り返すまいと決意を秘めて。
「どいてください」
男の後方に居るカイの身を案じつつ、男の視線に目を合わせ、透は言った。その勇猛果敢で反抗的な態度は、男の神経を逆撫でするのに充分だった。
「……おい、水汲んで来い」
退散しようとしていた仲間に、男が合図を出した。男子生徒達はお互いを見合い、渋々と言った様子で一人が階段を下ろうとする。しかし、広沢が足を震わせながら男子生徒の行く手を阻んだ。
その様子を見た男はわざとらしくため息を零すと、透の不意を突くよう顔に拳を入れた。透は突然のことに、鼻から血を出し、体を地面に預ける。
透は少しぼやけた意識の中、広沢の悲鳴を聞くと、男に髪を掴まれ、そのままカイの元まで引きずられた。立ち上がって反撃しようとするが、行動を起こす前に易々と察知され、透は男に腹を蹴られ、蹲る。
「透!」
上手く息ができず、痛みに悶える中、透はカイの声を聞いた。カイの切羽詰まった声を聞くのは初めてで、新鮮だなと透は呑気に考える。そして体を起こす間もなく、複数人の男子生徒に組み伏せられ、身動きが取れなくなってしまった。
「なんてことするの!?」
「うるせえ! てめえのせいだ!」
地面に顎をつけ、透は言い争う広沢と男を見た。何を言い合ってるのか内容はほとんど聞き取れなかったが、かなりの白熱を見せている。透の隣には、同じ格好で組み伏せられているカイも居た。
そして次の瞬間、男が広沢に手を上げた。加減はされていただろうが、広沢も地面に倒れ込む。その光景を見た透は、堪忍袋の緒を切った。
透は精いっぱいの力を込め、暴れようと試みた。火掃の成果もあってか身に着いた力は同級生に比べ、かなり強い。しかし複数人の男子に組み伏せられていては、全く歯が立たなかった。元凶の男はもちろんのこと、自分を押さえ付けながら、今になって保身を気にするよう焦りが含まれた戯言を口走る男子生徒達にまで、透はどうしようもなく殺意を湧かせる。
そんな折、透は自身の中で何かがすくすくと成長していることに気が付いた。それは色に例えると黒く、赤く、黄色で、獣を思わせる野蛮さに、機械のような冷徹さを併せ持つ。その化け物に、透は気が付きながらも、止めることが出来なかった。
抑えつけられれば抑えつけられるほど、化け物は大きくなっていく。もし解放されれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。しかし、透の中で、それでもいいと思っている自分が蠢ている。大切な世界を守るために残されたほんの少しの理性さえも、その化け物には敵わなかった。
「――透」
その呼びかけは、透の中に居る化け物を止めるどころか、一瞬にして消し去ってしまった。未だ組み伏せられる体からも窮屈さが消え、視界の大部分を占める青空が、この状況でも美しく見える。カイの声が、透を凪いだ。
どうしようもない現実は変わらないというのに、やはり透は、カイの世界の憧憬を忘れることはなかった。いつもカイの言葉は、世界をひっくり返してしまう。透は自身の真横で顔を伏せるカイの話に、釘付けにさせられた。
「透のおかげで……答えが分かった。長い間、ずっと疑問を抱えていたんだ。本当に、透のおかげだよ。だから……お返しをさせてほしい。大丈夫、死にはしないさ」
うつ伏せになっているというのに、カイはどこまでも爽やかだった。言葉の節々から滲み出る不穏さに、透は意識して危機感を覚えようとする。しかし、それでも透はカイの言葉に心底安心してしまっていた。
「僕のことは忘れないでいてほしい。……ありがとう。透が一番の友達だ」
透の返事を待たず、カイはそう言った。透が何かを言いかけようとすると、不思議なことが起きる。
突然、カイの身柄が解放された。カイが自力で抜け出したようにも思えたが、男子生徒達の力が、途端に抜けたようにも見えた。現に、何が起きたのか彼らは理解していない。
カイは未だうつ伏せになっている透に視線を投げ、笑った。すると勢いよくその場を駆けだす。しかし方向は、広沢や男の方ではない。それとは真反対の、屋上のフェンス、その向こうを目がけていた。
二メートル以上ある緑色の柵を、カイは一度に飛び越える。まるで海へ泳ぎに出た子供のように。煌々と輝く太陽が、その一部始終を照らしている。
カイは自由を背に乗せ、広がる世界に身を投げた。
透は唖然とするしかなかった。男子生徒達は事の大きさに顔を蒼白させ、広沢に言い寄っていた男も焦りを隠そうとしない。広沢は次第に涙を溜め、泣き叫んだ。恐れ慄いた男子生徒達はすぐに透の拘束を解き、一目散に屋上から逃げ出した。男の方も我を忘れ、背を向けるように走り去っていく。
透は自由になった身に精一杯の力を込め、ゆっくりと立ち上がった。しかし、カイの安否を確認しようと歩き出すその足取りは重い。眩暈を覚えながらも、透は取り繕うように希望を探した。
「あ、あ……」
カイは生きていると、透は心の中で言葉を反復する。情けなく言葉にならない音を口から漏らし、それでも親友の言葉を信じた。『カイは普通の人とは違う。不可能を可能にする、まるで……』そこまで考え、透は足を止める。
柵の下を見る勇気が透には無かった。あと数歩というところまで進んだ透だが、力尽きたようにへたり込んでしまう。見上げるフェンスが、絶対に越えられない壁のように透は感じた。
透はカイの心情を夢想する。何を思ってその身を投げたのか。生を諦める理由はどこにあったのか。本当は思いつめていたのか。自分では力になれなかったのか。……そのどれもが違うと透は思った。カイは心からの笑顔を浮かべていた筈だったから。透には何も分からない。終いには心が折れ、涙が零れそうになる。その時だった。
重い咆哮のようなものが響き渡った。地面が揺れ、透の意識が揺さぶられる。透が伏せていた目を上げると、それは下から姿を現わした。一瞬、大きな目が透を捉え、そのまま上へと昇って行く。しかし、太陽の光が混じる影は未だ屋上を覆う。透は目を輝かせた。
クジラだ。半透明の白いクジラが、下から姿を現わしたのだ。快活な鳴き声を上げ、そのまま上へと昇っていく。風を纏い、上へ上へと。クジラは空を泳ぎ、次第に光と混じっていき、姿を消した。最後に一鳴き、透に挨拶をして。
後に残ったのは雲一つない快晴。透は呆然とクジラが居た空を眺めている。嗚咽を漏らす広沢に、その光景は見えていないようだった。
騒ぎを聞きつけた教師が屋上に来るまで、透はボーっと空を見ていた。あのクジラをもう一度、その目に収めるために。天気予報に無い雨に降られても、ただずっと。
カイと透、広沢に直接的な危害を加えた男子生徒とその仲間らは、屋上での事件で退学処分となった。特に反抗することもなく、彼らは終始、大人しく自分達の非を認めていたという。
しかし予想外だったのは、カイの身柄が確認できなかったこと。透や広沢の目撃情報があったにも関わらず、屋上から飛び降りた先に遺体らしきものは発見されず、同時刻グラウンドに出ていた生徒達は、それらしき物どころか、異変があったことにも気が付かなかったらしい。自治体による捜索も行われたが、全くと言っていいほど足取りを掴めず、数週間の後、『神隠し』として捜索は打ち切られる。例年、原因不明の行方不明者の数は多く、特に珍しい話でもない。その中の一つに、カイは埋もれていった。
クラスメイト達の態度にも変化があった。誰もカイのことを話さず、透や広沢を揶揄おうとする様子はもうない。もともと担任の教師から虐めについて釘を刺されていたこともあり、透は卒業するまで平和な日常を過ごした。大切な人を失くしたという喪失感から、透と広沢は傷を舐めあうように交際を始めたが、その関係も長く続くことはなかった。
カイが居なくなってからも透は火掃の仕事を辞めなかった。稼ぎがいいという建前で、透はずっとカイを捜していた。彼と過ごした場所に向かえば、どこかで再会できるのではないかと。毎晩、淡い期待を胸に抱き、透は夜道を歩いた。しかし結局、カイと再会することは叶わなかった。
あれから数年が経ち、成人した透は大学生となった。一人暮らしを始め、身の回りに友人と呼べる間柄を作らず、生活のほとんどを孤独に過ごしている。
透は義務である御守りの携帯もしていない。何となく信仰しようと思える神がおらず、中身の入っていないダミーを持ち歩き、その場をやり過ごしている。このような行為に手を染めるのは、一般的に不道徳であるが、透は特に気にしていなかった。
二十歳の第二次成人式を終えた頃、透は昔の仲間から同窓会の誘いを受けた。予め、招待が来たら断ろうと思っていたイベントだが、透は旧友の名前が映るスマホを見て何かを考え込み、それから参加する旨を伝えた。
「かんぱーい!」
まとめ役が乾杯の音頭を取り、ほとんどの人間がそれに続いた。透も遠慮がちにグラスを掲げ、椅子に腰かけたまま酒を呷る。昔の友人と軽い挨拶を済ませ、透は酒を飲みながら周りを見渡した。まるで何かを探すように。
そうして盗み見を繰り返す透に、周りは次第に声を掛けなくなった。ふと透の耳に広沢の話題が聞こえてくる。そういえば、と彼女が参加していないことに透は気が付く。しかし話によると、広沢には結婚した旦那がおり、最近では子供が生まれたそうだ。つまみを口に運び、透はその類の話を盗み聞く。
しかしやはり、透の目的の人物はここに居ない。まるで最初から居なかったのではないかと思えるほど、彼の痕跡はどこにもなかった。
二次会の打診が始まった頃、透は誰にも気が付かれないよう金だけテーブルに置き、その場を後にした。光溢れる夜の街を抜け、目的も無くただ歩き続ける。
どれほど歩いただろうか。気が付けば、透は都心から大きく離れた、全く光の無い海までやって来ていた。微かに見えるのは、遠くに見える大きな橋らしき物が乗せる街灯のみ。それがかろうじて波の動きを照らしている。
透はクジラの影を探していた。カイが居なくなってからずっと。当てもなく時間をただそれだけに費やしている。透はカイが消えてしまったことを、どうしても認められなかった。
酔いは冷めたが、ほとんど限界に近い脳みそで、透は狂気的な考えに囚われた。このまま海の中を進めば、クジラを見つけられる。まだ、この先があると。透は躊躇なく海水に足を入れた。その歩みは衰えない。
夜の海の冷たさを肌で感じながら、透は過去を思い出す。クジラに憧れ、ようやく友達になった。一緒に過ごした時間は短く、ほとんどが火掃の仕事だったが、そのどれもが透の人生の価値、その半分以上を占める、かげかえのない思い出だった。だからもっと、カイと過ごす時間がなくてはならない。透はそうとしか思えなかった。
何故なら、あの日、カイが言っていた疑問の答えを聞いていない。そして何よりも、誰よりも親しい友人として掛けるはずった言葉を、透は言えなかった。ただその悔いが、彼を突き動かしている。
そして海水が肩まで浸かりそうになった頃、透はようやく足を止めた。それは死に対する抵抗ではない。もうそれ以上、進む理由が透にはなかったから。
音もなく流れる涙が、海に溶けて消えていった。微かに漏れる嗚咽も、波の音がかき消した。透の泣き顔を照らす光も、ここには無い。この海は透を受け入れ、しかし連れ去ろうとはしなかった。
数年にわたる未練を、透はようやく手放すことが出来た。ようやく、カイが別の場所へ行ってしまったことを、認められたのだ。それがどこから湧いて出た天啓かは分からない。しかし、透はどうしようもなく納得させられた。カイは、自分の手が届かない場所に行ってしまったのだと。
海から引き返した透は、終電を逃したことに気が付く。今更になって焦りを感じた透はしばらく悩んだ後、徒歩で帰宅しようと足を動かし始めた。間違いなく、明日の講義は欠席になるだろう。体の不調を感じながら透は歩き、家に着く頃には空が明るみ始めていた。
透は当たり前のように風邪を引いた。夜の海に浸かり、服も乾かさず外に居たら、そうなるのは自明だろう。透は自身の馬鹿さ加減を呪いたい気分だったが、身体の疲労がそれを許さず、透をそのままベッドに倒れ込ませる。そして数秒も経たないうちに、透は寝息を立て始めた。これ以上ないほど穏やかな寝顔を浮かべて。
きっと、これからも透はカイの夢を見る。しかし、もうクジラの影を探すことはないだろう。新たな日常が透の目覚めを待っている。
机に転がる空っぽの御守りからは、海の匂いがした。
どうぞ命は神様へ 石土 皿葉 @HebuHoi
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