第2話 煙の中

 騒動の後、透はいつものように学校へ通い、カイは登校しなかった。

 犯人を名乗り出たカイは、停学処分となった。仮とはいえ他人の御守りを穢す行為が重く捉えられ、被害者である広沢の母親が猛抗議したこと、責任に疲弊した担任教師が判断を急いだこともあり、彼は二週間の謹慎処分を言い渡された。

 透はカイの自白により、この件に関係する生徒だとは認められず、お咎め無し。普段の素行も判断材料に含まれ、悪目立ちすることのない透は疑われず、逆に良くも悪くも生徒や教職員の目に付きやすかったカイが犯人だと言われても、異議を唱える大人はいなかった。

 この一件の当事者である透は、冤罪を免れた安堵よりも、その対応の早さに対する薄気味悪さを感じ、本当に事件は解決したのかという疑いを抱かざるを得なかった。

 そして何より、とんとん拍子に終わりを迎えた筈の今回の事件だったが、透が嫌悪する非日常は未だ尾を引いていたのである。

「でさ……あっ」

 そう声を漏らしたのは、透を目撃したクラスメイト。腫れ物を見たかのような気まずさを感じさせる表情をつくると、彼女はすぐに透から目を離した。この失礼な態度を隠そうとしないのは、彼女だけではない。あの一件以来、透はクラスメイトから距離を置かれていた。

 学校側はカイを加害者生徒として処理したが、この結果に納得していない生徒は決して少なくなかった。その噂は教室の外にまで広がり、一日も経たずして透を腫れ物とする風潮が出来上がってしまっていた。

 数少ない透の友人らも悪目立ちを恐れ、表立って透に話し掛けようとしない。彼の愛していた日常は形を取り留めることが出来ず、透は人生で初めて孤独というものを味わっていた。

 不慣れな状況に本人の性質も合わさり、透は学校生活を苦痛にしか思えず、事件があってから一週間も経たずに学校を休み始めてしまった。


「……あー」

 透は自宅の二階にある自室で、ボーっと光の無い照明器具を見ていた。流石に一日中とまではいかないが、彼は基本、こうして現実逃避を繰り返している。

 当たり前ではあるが透に自責の念は存在しない。しかし、透は壇上に立ったあの状況を思い出しては、もっと上手くやれることがあったのではと、疑念と後悔を感じていた。

 そして次に透の頭に思い浮かぶのは、冷たいクラスメイト達のこと。露骨に態度を改めた友人だった者、不意に目が合うと気まずそうに目を逸らす好きな人、その全てが透の思い描く日常とはかけ離れており、それが他でもない現実だと思い知ると、再びあの壇上での記憶が蘇る。そしてまた疑念と後悔に襲われ、その結果を眺める。

 そんな一連のループを、頭の中で何度も何度も繰り返すことが、今では透の日課になっていた。

 ……ピンポーン。

 静かな透の部屋に、家の呼び鈴の音が聞こえて来た。もちろん、それは透の耳にも届いていたが、彼は目を閉じるばかりで興味を示さない。しかし家の人間が階段を上って来る音が聞こえ、透が目を開けて反応を示すと、次に部屋の扉がコンコンと音を立てた。

「透、お友達が来てるよ?」

 聞こえて来たのは母親の声だった。何となく足音の主に気付いていた透は特に驚くことはせず、しかし話の内容に憤りを感じた。

 透は重い腰を上げ、誰が来たかと部屋の窓に寄る。これで裏切り者の顔を見ようならば、自分は何をしでかすか分からない。そんな物騒なことを冗談半分に考えつつ、透は友人を名乗る不届き者を目に入れようと、外を覗いた。

 しかし、その人物は彼が思い浮かべていた何人かの、その誰でもなく、全くの予想外な人物であり、透は面喰らった。

「あ、おーい!」

 どういう訳か嬉しそうに窓の外から手を振るのは、カイだった。

 透はカイと友人ですらない。透がカイを見かけることは多々あったが、それもカイが色んな意味で目立つことが多く、それを透が傍から見ていたからだ。小学校からの顔見知りではあるが、彼らの間には、あの事件以外での接点は無い。

 透は『何故?』という疑問を抱きながらも、このまま無視する訳にもいかないと、二日ぶりに外へと顔を出す。


「こんにちは」

「……こ、こんにちは?」

 屈託のないカイの挨拶に、透は困惑を交えて挨拶を返した。この空間が不思議に包まれる感じは、紛れもなくカイだ。透はようやく確信する。

「ちょっと仕事、手伝ってくれない?」

 開口二番目のカイの台詞を、透は理解が出来なかった。

 しばらくの沈黙の後、透はカイの言葉を一旦無視し、増え続ける疑問をぶつけることにした。

「えっと、色々聞きたいことあるんだけど……ま、まず何で俺の家知ってるの?」

「知らなかったよ? 歩いてたら表札が目に入って、同じ苗字だったから、もしかしたらって思って」

「ええ……」

 答えになっているかも分からない答えに、透は思考を放棄する。

 普段ならば自治体に通報しても可笑しくない相手の言い分だが、『カイだしなぁ』とどこか納得している自分に、透は我が事ながら呆れてしまった。

「……次、お前、自宅謹慎みたいな話じゃなかったっけ?」

「あーそうだけど……仕事、休むわけにもいかなくてさ」

 カイはそう言うと、困り顔で頭を掻く。そんな彼を透は訝しげに見ている。透は『仕事』という単語について憶測を並べると同時に、カイに対して多少の違和感を感じていた。

 透の中でカイという人間は、変人ではあるが悪い奴ではない、という印象だった。それは可も不可もないという意味ではなく、目立つことはあれど、彼は非行に走るような悪性とは無縁だろうという、言い換えれば信頼のようなものだった。

 だが、そもそも透とカイの間に互いのことを知り合えるような関係性は無い。透がカイに対して何かイメージを持っていたところで、それは透からの一方的なものでしかないということだ。

 しかし、それでも透は腑に落ちないと言わんばかりの態度を崩さない。それは何か透のプライドに触れる部分であり、本人も知らない拘りのようなもので、赤の他人同然であるカイに、透は期待を裏切られた気分だった。

 罪悪感を感じているかのように困り顔を浮かべる、ただの人間の仕草を見せるカイに、透は何故か、少し悔しさを感じた。

「……仕事って何だよ」

 なるべく平静を装い、透はカイに質問をした。

「歩きながら話そ」

 質問に答えず、カイはそう言った。

「……」

 このままでは望んだ答えが得られない。そう思った透は、無言のままカイに同行することにした。


 軽く身支度を済ませた後、夕日に照らされる街を透は歩いていた。その横には上機嫌なカイの姿もある。

 自室に籠り始めていた息子を案じた母親に送り出され、おまけに透は深夜徘徊の許可まで貰っていた。無論、ただの家庭内ルールで、本当は違法だが。

 そんな、ちょっとした思春期の冒険とも言える外出は今の所、変化は無い。出発してから三十分、二人は無言のまま、アスファルトでできた道を延々と歩いている。カイの口から発せられた情報は何も無い。仕事の内容や、目的地すらも知らされていない透は、その他諸々を聞くタイミングを逃していた。

 それも仕方ないことなのかもしれない。二人は赤の他人も同然で、透は前の事件で人間不信気味、カイに至ってはコミュニケーションに多少の難がある。彼らが自然と会話を始めるには、何かきっかけが必要だった。

 そのことを透は理解しており、自分から話し掛けなければならないことも分かっている。何せカイは気まぐれで、いつ勝手に喋り出すのかさえ分からないのだから。

「……はあ、で、仕事って何?」

 会話のきっかけを模索している内に、透はそれが無意味だと気が付いた。この三十分間、頭の中で喋り出しの試行錯誤をしていた自分とは対照的に、カイは気まずそうな素振りすら見せず、彼の足がスキップを刻み始めたからである。

「あれ、言ってなかったっけ? 火掃だよ。火掃」

「かそう?」

「ほら、火で掃くって書いて」

「あー火掃ね。……え? そんな仕事してるの?」


 火掃とは、死んだ人間や他の生き物の遺体を火で焼き、残った骨を土に埋めたり、海に流したりする仕事だ。毎年およそ千万もの死者が出るこの国では、死体処理を円滑に進める事業が必要不可欠であり、だからこそ火掃は国営を支える重要な役割を持っている。

 しかし一般市民の目からすると、火掃は地味な職業でしかない。決して若者が憧れるような仕事ではなく、全国各地に無数に存在する施設で働いている人間も、そのほとんどが四十歳以上の大人だ。

 透もまた一般的な価値観や印象を抱く人間であり、カイの言う仕事が火掃だとは思い付きもしなかった。

「珍しい?」

「珍しいっていうか……中学生でも働けるもんなのか?」

「うん。なんか働く人が全然いなくて、ずっと人手不足なんだって。高校生のバイト雇ったりとかも珍しくないってさ。まあそういう僕はまだ中学生なんだけど」

「へえ……」

 ひとまず目的地を知れたことで安心感を覚えた透は、カイの諸事情に踏み入る気も無かった為、火掃を行う焼却場に着くまで会話をしようとは思わなかった。そしてカイの方から話し掛けられることも無く、それ以上の話し合いは無かった。


 奇妙な沈黙を貫いたまま、やっと焼却場まで辿り着くと、空には既に星が輝き始めていた。街から離れたこの場所は透の日常とは無縁の暗闇で、カイが持参していた懐中電灯が無ければ、透は簡単に迷子になっていただろう。

 保護者の居ない夜。街から離れた田舎。その見える景色全てが透にとっては初めての非日常であり、そのためか何となく夢心地に居る透は、今から何をするのか、あまり理解できていなかった。

「……来たか」

 焼却場、というには真っ平らな土地が広がる野原、その敷地内に佇む小さな小屋の前に居た初老の男性が、こちらを確認するなりそう呟いた。男は黒く汚れた作業着を着ており、ボロボロになった帽子を目深に被っている。その風貌はまるでホームレスのようであり、透は警戒心を抱かざるを得なかった。

「今日は16だ。よろしく」

「了解です」

 不気味な雰囲気に透は委縮し、カイは自然に話を進める。男はカイに鍵を手渡し、挨拶をしただけで帰って行った。

 それが何か、いかがわしい取引現場に見えた透は、男の姿が消えた事を確認すると焦った様子でカイを問い詰める。

「なあ、今の誰?」

「管理人の盛山もりやまさん」

「管理人……」

「? そうだよ?」

 いまいちこちらの心情を察してくれないカイに透は諦めがつき、同時に込み上がって来た恐怖をどうにかしなければいけないことに気が付いた。

 冷静さを取り戻した透は、改めて自身が置かれた状況を見る。年齢を詐称し働いているクラスメイトに流れのまま付いて行き、一日も終わりそうな頃に右も左も分からない仕事をしようとしている。改めて思えば、あの盛山という管理人もおかしいことに気が付く。ここで仕事をしているカイは勿論だが、初めて来た筈の自分を見ても何も反応を示さなかった。

 透はここに来て、何か不味い事をしているのでは、と勘ぐり始める。

「はい、これ」

「ひっ!」

 そんな心境で焼却場の敷地内を歩いていると、カイに突然話しかけられ、透は小さな悲鳴を上げた。

 透は怯えたままカイに差し出された物を見る。カイの手に握られていたのは、何の変哲もないただの汚い軍手だ。それが仕事で用いる物だろうとは、少し余裕の無い透の頭でも理解できる。

 少し肌寒さを感じていた透は、相手の動向を疑いつつも素直にそれを受け取り、すぐに身に着ける。カイはそんな透の様子を不思議に思いつつも、慣れた手付きで作業を始めた。

 気が付くと、透の目の前には煙突の付いた大きな炉が佇んでいた。外側がほとんど錆びついており、かなりの年季が入っている事が窺える。恐らく、これで遺体を焼くのだろう。隣には大きな木箱のようなものがあり、カイが脚立を使って上り、蓋を開ける。

 そして漂い出す、強烈な腐敗臭。

「ぅ、おえっぇ!!」

 突然に発生した異臭を鼻が捉えると、一瞬にして透の脳が限界を迎え、身体にすぐさま嘔吐するよう指令を出した。それは透の意思で止められるものでは無い。一瞬で辺りに立ち込めた臭いが、更に透へ吐き気を促す。

 ところどころ土がめくれ上がった野原にえずく透の横で、カイは箱の中から遺体の一つを抱え、炉の中に投げ込む。

「こんな風に、って……大丈夫?」

 様子のおかしい透に気付いたカイが、心配の声を掛ける。しかし作業を止める様子は無く、手を動かしながら透の様子を見守っている。

 透はそんなカイの態度を知る由もなく、ただひたすらに腹の物を戻すことに専念している。波はあるものの、その勢いは休まることなく、少しの胃液が出始めた頃には、全ての遺体が炉の中に投げ込まれていた。

 未だ吐き気を忘れられない透だが、ようやく周りの様子を窺えるくらいには回復をした。見ればカイが大きな炉の扉を閉めており、次に火を起こすための薪を用意し始めている。

 仕事の慣れか淡々と作業を進めるカイを見て、透は素直に心の中で尊敬をし、同時に自分がここへ仕事を手伝いに来ていることを思い出した。

「……」

 しかし当然のように「手伝う」という言葉は出てこなかった。透は戦士でもなければ勇者でもない、都内の中学校に通うただの子供で、本人の気性も決して勇ましいとは言えない臆病者だ。

 透にとって人の遺体は命の無いおぞましい物でしかない。遺体とは忌み嫌われるべき物であり、例えそれが親しい人物の物でも、感傷を寄せるような代物ではない。例えそれが大きな鉄扉を隔て、目に触れることが無くても、そこにあるというだけで透は足がすくむ思いだった。

「見てるだけでも大丈夫だよ」

 怯えていた透に、カイはそう言った。カイは背を向け作業を進めている。透の様子は知る由も無い筈だった。

 透はその言葉を不思議に思うよりも前に、自身の吐き気や恐怖が、段々と薄まっていくのを感じた。吐いても吐いても吐き足りなかった食道は鳴りを潜め、恐怖に震えていた体がピタッと止まったのだ。

 透はカイの言葉に、訳も分からないが、救われたように感じた。


「よし……今から焼き始めるけど、熱かったら離れてね」

 カイはそう言うと懐からマッチ箱を取り出し、懐中電灯の光を頼りに新たな明かりを灯した。それは山の夜に比べ、あまりにも小さく、しかし力強い火だった。

 火にまつわる神は様々な形で存在する。しかし、火とは神が人間に授けた知識ではなく、人間が自分たちの力で見出した数ある御業の一つであった。その歴史を現代人は知らないが、透は今この瞬間、神が介在しない神秘を、人間に備わる本能で感じ取っていた。

 炉の開口部へカイが火を投げ入れ、しばらくすると炉の中は轟轟と燃え盛り、夜空に光る星を隠すように黒い煙が立ち上り始めた。人が焼ける生々しい匂いはするものの、吐き気を促す腐敗臭は幾分かマシになり、未だ寒さが残る山の夜を温めるように光を溢す炉のおかげで、透は多少の居心地よさを感じることが出来た。

「……っはあ」

 野原に体育座りをする透の横から、思わず零れたといった様な感嘆のため息が聞こえて来た。その声の主を知りつつも、透はわざわざ首を回す。

 透は、何かに目を輝かせるカイを見た。何を見ているのか、当然に疑問を覚えた透はその視線の先を目で追う。しかし透は、そこに目ぼしい何かを見出すことは出来なかった。強いて挙げるとすれば、闇夜に交じり溶ける黒煙と、時折目に付く微かな火花と、遠く遠くに見える星々。そのどれもが、目を輝かせるような物ではないと透は思った。相手がカイであることを考慮しても、透はそう思ったのだ。

「なぁ、なに見てんの?」

「……あ、え?」

 自然と疑問を口にした透に、よほど見入っていたのか呆けた声を出すカイ。その様子を見た透は、きちんと疑問が届いていないことを察し、ただもう一度、同じ問いを繰り返す。

「なにが見えるんだ?」

「あぁ……煙だよ。命が灰になって、のぼっていく煙」

「?」

 カイにしては具体的な内容だった答えに、透はその言葉の意味が分からず、疑問符を浮かべた。念のためもう一度空を見上げるが、やはり見えるのは星を隠そうとする黒い煙。

 透は、カイへ更に疑問を投げ掛ける。

「命、ってどういう意味だ? これはただの煙だろ?」

「……みんなは違うって言うけど、僕は遺体にも命が残ってるように見える。こうやって燃やすと、それが空にのぼっていくんだ」

 カイは当然のようにそう語った。

『遺体とは命が離れた物だ。どう見ても、それは生きていないじゃないか』

 言ってしまうことは簡単だった。しかし、透はそう言えなかった。そして、思うことも難しかった。

 自分の目の先に居るカイは、目を輝かせていた。特に珍しくも無い光景だが、その目には、論理などではない、自分の理解が及ばない根拠がある。透はそう思った。そして何より、透はその話を否定したくなかった。もちろん共感は出来ないが、その考えが嫌いになれなかったのだ。

 多少の期待を込めて、透も黒い煙を眺めた。自分もここじゃないどこかへ行けるのではないかと。しかし、いくら見ても命らしき物を見つけられず、透はため息をつくと、次第に諦めた。


 そこから炉の火が消えるまで会話は無く、透はカイの片づけを傍らで眺め、二人は帰路に着いた。道路脇にある街灯に光は無く、より一層の暗闇が辺りを覆っている。カイが手に持つ懐中電灯は歩く道を照らすのみで、お互いの顔すらも見えない。

「よかったらまた手伝いに来てよ」

 唐突にカイがそう呟いた。透はカイの方へ顔を向けてみるが、やはり表情は窺い知れない。透はその台詞を唐突に思うよりも、今晩の自分の不甲斐なさに、申し訳ない気持ちを抱いていた。

「……やめとくよ。俺じゃ何もできないし」

「じゃあまた明日、家行くから」

 透の弱々しい返答を聞いていた筈のカイは、そんなことを言って笑い声をあげた。透はそこに気遣いを感じつつも、話を合わせようとしないカイに困った顔を浮かべる。もっとも、暗闇なこともあり、カイに伝わる筈はないのだが。

「いや、俺は……」

「もう遅いし、走ろう!」

「あ……!」

 カイの足音と共に、唯一の頼りである光がどんどんと離れ始める。このままカイの後を急いで追う以外、透に選択肢は無い。

「ま、待てよ!」

 そう言って透も走り出すが、カイがスピードを緩める気配はない。

 結局、お互いの家に帰る分かれ道まで、二人はずっと走り続けていた。途中、距離を離されるようなことは無かったが、走り切った後も何故か涼しい顔をしているカイを見て、透は心の中で少し苛つきを覚え、いつかリベンジすると決めた。


「ただいま……」

 鍵で玄関の扉を開け、小声で帰って来たことを知らせる透。リビングはおろか廊下までも光が無く、両親は既に就寝しているようだ。

 夕飯を食べていなかった透は、思い出したかのように迫って来た空腹感に釣られ、冷蔵庫に何かないか探そうとリビングへ向かう。するとテーブルの上にラップをかけて置いてある食べ物と、一枚の紙に気が付いた。

 それは母親直筆の置手紙。内容は冷めた夕飯のことと、遅くまで何をしていたか明日に事情聴取をするという若干の怒りが垣間見えるものだった。

「深夜徘徊の許可はなんだったんだよ……」

 支離滅裂な母親の言動に呆れつつ、温めなおした夕飯を透はすぐに平らげた。長距離の移動や精神的な疲労もあり、満腹になった透は凄まじい眠気に襲われ、ゆらゆらと二階に上っていく。

 着替えはおろか、靴下も脱がずに透はベッドに倒れ伏した。うつ伏せのまま目を閉じ、今日の一日を振り返ろうとする。

 しかし、沸き上がる睡眠欲には勝てず、透はそのまま眠りに落ちた。学校での事件以来、なかなか眠れない日々を過ごしていた透が、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立て安眠するのは、久しぶりのことだった。


 翌日、思いのほかスッキリと朝を迎えた透は、カーテンの隙間から差す日光を一瞥すると、学校へ行く支度を始めた。

 外は嫌になるほど眩しく、透の気分を更に沈めさせた。衝動のまま何となく登校し始めた透は既に後悔を覚えている。何故、自分が制服を身に纏い、外へ出ているのか、彼自身もよく理解していなかった。

 しかし、透は戻ろうとすればすぐに戻れる道を振り返ることは無い。視線はほとんど自身のつま先に注がれていたが、透は学校へ着実に歩を進めて行った。


 例の事件に加え、久しぶりの登校となると、周りの目はより一層、鋭いものになっていた。

『お前の居場所は無い』

 凍てつく無数の視線から、そう聞こえたような気がした。透は身の回りで起きている排他を、その肌で感じ、目を伏せる。ただ無言で教室に入り、不自然に静まった空気を無視して、自分の席に座った。

 誰からも話し掛けられず、孤独と戦う日々が始まろうとしている。しかし、透は不思議と辛いとは思わなかった。未だ乗っている肩の荷も、決して重いとは感じない。さざ波の無い水を、指で撫でているような、そんな心地よさすら存在していた。


 何事も無く学生生活の一日を終えた透は、どこか晴れ晴れとした気分で帰宅すると、二階の自室から窓の外を眺めていた。夕日に照らされる道を、近所のおばさんや、飼い犬の散歩をする人間などの通行人が歩いている。透はそれらをボーっと眺め、目的の人物が来ると、荷物を手に取り、玄関へと向かった。

「よっ。今日もよろしく」

「おう」

 軽快な挨拶と共に、カイは笑顔をつくり、片手を軽く上げた。透も緊張の無い声でそれに応え、カイと同じく片手を上げる。今日も二人で、あの焼却場へと向かう。


「じゃあ、働いてるのは進学のための貯金?」

「そうだよ。いつまでも爺さんの世話にはなれないからね」

 昨日とは打って変わり、二人の間には自然と会話が発生していた。

 小学校からの顔見知りではあるが、二人がこうして対面で話し合うのは初めてのことだ。他愛のない話から、身の上話まで、適当に話題を見つけ、互いに語らい合う。全てを話すには時間が足りず、会話が途絶えることはなかった。

 そして透は、カイが働いている理由を知ることが出来た。

 本人の話によるとカイには両親が居ない。彼は物心ついた時から、街の一角にある児童養護施設で暮らしているらしい。そこで暮らす子供の数も少なくはなく、カイは高校へ進学をすると同時に、一人暮らしを始めようとお金を稼いでいるという。

 透はその話を聞くと、素直に感服した。母親がポンコツだと、環境に文句を垂れることもあった自分を、透は恥ずかしいとまで思った。

「何か、すごいな。想像もつかないや」

「そう? 珍しいかな?」

「どうだろう……少なくとも、俺が生きてる世界とは違うな」

「へえ、じゃあ透はどんな世界で生きてるの?」

「どんな世界……」

 抽象的で素朴な質問に、透は一瞬、足がもつれそうになった。踏みとどまりたい気持ちを隅に追いやり、歩きながらその答えを探す。

 透とカイは、同じ時代、同じ街、同じ教室で生きている。しかし明確に二人の世界には差がある。透はその正体を考えたこともなかったが、改めて自分の世界を見つめなおすと、これまた疑問に躓きなりそうになる。

 果たして、綺麗なのはどちらの世界か。

 透はカイの世界に触れた。自分の知らない世界の輪郭を捉え、その景色の違いに、自然と、どちらが優れているかという疑問が透の意思とは無関係に沸き上がって来る。そして直感的に、透はカイの世界に憧れを抱いた。つまり透は、カイの世界の方が、自分のものよりも綺麗に感じたのだ。ここ最近の出来事もあり、その思いは鮮烈だった。

「……? 難しかったかな?」

「え、ああ、何でもないよ」

 透の様子がおかしいことに気が付いたカイが声を掛けると、透は平然を取り繕い、適当な返事をする。

「どんな世界かって聞かれても、俺もあんまり分からないかもな。ただ、あんまりいいものじゃないよ。……あ、いや、カイと比べたら、楽な世界かもしれないけど」

 思わず自分を卑下した透は、後にその言葉がカイへの皮肉に聞こえるかもしれないと焦り、咄嗟に訂正をした。

「ふーん、そんなもんか」

 カイは透の気遣いを気にするような素振りを見せない。むしろ曖昧な答えの方に、カイは少し残念そうな反応を見せた。透はそのカイの挙動を盗み見、やはり自分の世界の常識とは違う『何か』を、この友人は持っていると、そう確信する。

「そっちは?」

「ん?」

「カイの世界は、どうなんだ?」

 聞く以外の選択肢は無かった。透は興味を越えた必至の思いを持って、相手の世界を理解しようと努めた。自分の平穏を満たす何かを探し求めて。

「もちろん色々あるよ。そうだな……見えるもので言えば、クジラとか!」

「……くじ、ら?」

 求めていた何かとはどこか遠い、具体的で特別感の無い答えに、透は面食らってしまった。そしてクジラという謎の答えそのものが、透の思考を停止させる。必死でどこかにあるでろう深い意味を探すため、透は無理やり頭を回すと、そのクジラという言葉に聞き覚えがあることに気が付く。

「そういえば、前も……小学生の時だけど、クジラがどうのって言ってたよな」

「そうだっけ? あんまり覚えてないけど……」

「俺は覚えてるよ。それで……クジラっていうのは、その、なんなんだ?」

「? クジラはクジラだよ?」

 ダメもとで解説を求む透だったが、やはり相手が悪く、詳しい情報は得られない。

 突如、正体不明の恐れのようなものが、透の背を伝った。思わず透は道を振り返り、何も無い夜道を空虚に見つめる。

「?? 大丈夫? さっきから変だよ?」

「あ、ああ」

 街灯の奥に広がる暗い道を、透は怯えながら見つめていた。その奥にも光が見えるが、その狭間の闇に何かが潜んでいる。透はそう思わずにはいられなかった。

 この話を続ける勇気が湧かなかった透は、もう二度と後ろを振り向かないよう前を歩き、そこに居るかも分からない『何か』の逆鱗に触れぬよう、クジラの話をすることは無かった。


 そんな出来事があってから時間も経たずに、二人は焼却場にたどり着いた。今夜も当たり前のように居た管理人である盛山に鍵を貰うと、カイと透は仕事場にまで移動する。

「よ、よし」

 今夜こそは仕事を手伝うと決めていた透は、先ほどの不可解な出来事を忘れたい思いもあり、積極的に働き出た。

「え? 手伝ってくれるの? 大丈夫?」

「お前が仕事に誘ったんだろ……」

 緊張を言葉に乗せ、遠慮がちな悪態を吐いた透は、意を決して箱の蓋を開いた。

「ぅぐ」

 初めてでないとはいえ、吐き気を抑えがたい悪臭が、一瞬にして透の頭を回った。やはり忘れられない悪臭だ。更に、昨日は吐くことに夢中で見ていなかった人間の遺体が、箱の中にゴロゴロと無惨な姿で転がっており、透は驚愕で目を見開いた。

「……おぇ!」

 何とか耐えようと試みたが、やはり透は我慢できずに嘔吐した。目の前に広がる光景はそう易々と慣れるようなものではない。今夜のために昼食を抜いて来た透だったが、物の代わりに多分の胃液を吐きだす。その拍子にバランスを崩してしまい、透は脚立から転がり落ちた。

「大丈夫?」

 あまり焦っていない様子でカイがそう聞くと、透は肩をさすりながら、しかめ面をつくる。どうやら大した怪我は無さそうだ。

「もうちょっと心配してくれ……」

「あ、ごめん。大丈夫そうだったから」

 存外に言葉は一応のものだったと明かすカイに、透は更に行き場の無い怒りを抱え込んだ。耐え切れなかった嗚咽はどこかへ消え去り、途端に心の余裕が生まれる。

 数秒経って冷静になった透は、再び箱へ視線をやった。先ほど見た光景を思い出し、しかし今度は吐きはしないだろうと予想をつける。その根拠は、あの光景が、未だ脳にこびりついているからだった。

 ほとんどが黒く、人間だったとは思えない物が散乱する光景は、透に漠然と『死』のイメージを与えた。それも不思議なことで、死とは、命が体から離れる瞬間の事象のことであり、決して既に命が無い遺体に付随する表現ではない。そう思っていた透はしかし、人間だった物を見て、確かにそこに死を感じた。

 透は自分の世界が広がったような感覚を覚え、カイの世界に一歩近づいたような気になった。

「んー、とりあえず着替える?」

「……そうする」

 そういえばと透は、胃液塗れになった自分の服を見下ろし、荷物の中にある予備の服に着替え始める。その間にカイが遺体を担ぎ、次々と炉に放り込んでいく。透が着替え終わる頃には、遺体は全て炉の中にあった。

「さすがに仕事が早いな……」

「今日は少なかったね。火、つけてみる?」

「……おう」

 そう言って手渡されたマッチ箱から、透は一本の火種を取り出し、自らの手で火を点けた。昨日にも見たその火は、自身の記憶と何ら変わらぬありふれた物で、しかしより一層、特別に感じる小さな光だった。

 感慨に浸っていることを、何となく悟られたくなかった透は、誤魔化すような仕草でマッチ棒を投げ入れた。一瞬にして火が大きくなることはないが、それは消えようとせず、後はゆっくりと育つだけだ。

 しかし、すぐにはあの煙が現れず、焦らされているような気分になった透は、カイと他愛ない会話の続きを始めることにした。

「なぁ、お前は好きな人とか居るの?」

「んー居るよ」

「お?」

 健全な男子中学生ならば、軽い恋愛話は皆が好きなものだ。カイはそれに当てはまらないだろうと予想しつつ、意外な答えが返って来た透は、期待に胸を膨らませる。どこか違う世界で生きていると思っていた友人に、自分も共感できる部分があると知り、透は喜んだ。

「誰? 誰? 俺も知ってる?」

「知ってると思うよ」

「名前教えてよ」

「広沢さん」

「ひろ……!?」

 カイが透の質問に間髪入れず答えた人物は、透の思い人でもある広沢だった。透はあまりの衝撃に奇声を上げそうになるが、なんとかそれを堪え、平静を装う。幸いにもカイが不審がる様子は無かった。

 自身の軽はずみな発言を少し後悔しつつ、『とんだライバルがいたもんだ』と驚く透は、何よりもあのカイですら虜にしてしまう広沢を恐ろしく感じていた。

「そ、そっか広沢さんか。美人さんだよね……」

「美人……そう。そうだね」

 なんとか痴態を晒さずに済んだと安堵する透。そして息をつく間もなく、次の発言について透は選択を迫られる。

 透は『ここで思い人を明かさないのは不公平だ』という考えに囚われていた。思い人の名を明かすのは、誰にとっても簡単なことではない。しかし、それでも恋愛話をするのは、秘密を明かす勇気や、友情を試すことが醍醐味だからだ。そう理解していた透は、だからいつも友人の恋愛話に付き合い、今もこうして話を振ったりしている。相手が同じ広沢などとはどうでもいいことだ。実際、思い人が同じである友人が居た時、透はそれでも包み隠さず本当のことを話していた。

 しかし、カイに本音を明かしていいものか、透は判断できずにいる。かつての友人とは、思い人が同じであると分かりつつも、関係を維持できていた。むしろ、その友情は更に強まっていたとすら言えるだろう。だが、透はなんとなく、同じ手がカイに通用するとは思わなかった。……いや、透自身が通用しないと決めつけ、彼はカイとの間に確執が生まれるのではないかと恐れてしまっていた。

 一度に、何人もの友人、友情を失った透は、だからこそカイとの関係は大事にしたいと考えている。地雷とも言える話題を生みだしてしまった以上、透はここで慎重に言葉を選ばずにいられなかった。

 そして透は思考を費やすうち、不思議なことに気が付いた。カイの発言が破綻しているとも取れる、例の事件でのことだ。

「……でもカイって、前の事件で、その……広沢さんから良い印象が……その、俺のこと庇ってくれた時さ」

「ああ、あれね。あれ? 透は犯人じゃないでしょ?」

「いや、それはそうなんだけどさ……」

 カイにペースを乱されながらも、透は言葉を上手く組み立て、口にする。

「カイが犯人ってことになったろ? 広沢さんに嫌われちゃったり……」

「あー……」

 思い切って真意を伝えた透に、カイは煮え切らない返事をしつつ、立ち上り始めた煙に視線をやったまま、何やら腕を組んで考え始めた。短くない時間、思考するカイを、透は固唾を呑んで見守る。

「――まあ、しょうがないかな」

「しょ、しょうがないって……」

「しょうがないよ。実際、僕がやったんだと思うし」

「…………え? 何? どういうこと?」

 カイが口にした事実は、透にとって思いもよらないことだった。透目線、カイは善人に当たる人間であり、ましてや思いを寄せる相手に嫌がらせをするような人間だとは露ほども考えていなかった。例の事件も、別に犯人が居ると確信までしていた。

 しかし、本人の告げられた話は、その仮定をひっくり返すものだった。強いて希望を見出すのであれば、かろうじて、その言葉には自信の無さが表れており(透からしてみれば何故、未確定であるのか甚だ疑問なのだが)必ずしもカイが犯人であるとは限らないということだろう。その一縷の望みをかけ、透はカイの言葉を追及した。

「さ、流石に冗談でしょ?」

「記憶には無いんだけど……なんだかね、僕がやったんだ、って思うんだ」

「い、いやいや、ただの思い込みだって。記憶に無いって……それが事実じゃん!」

「うーん……」

 カイにしては珍しく、難しく悩んでいるような顔を見せた。それを見た透は、この状況を上手く飲み込めず『仮にカイが犯人だったとしても、相手への見方や、カイの良いイメージが崩れることは無い』と無理やりに自分を納得させる他なかった。


 カイが自分の日常を奪い去った犯人であるかもしれない。そんな事実が、今日一日の思い出になってしまうかもしれないと危惧した透は、後片付けまで精力的に働くと決めた。

 その判断が功を為し、透は結果的に、一日の記憶があやふやになるほど疲弊した。カイの指示に従い単調に仕事をこなしたが、その作業は、透の想像を上回るほどの重労働であり、帰路に着いてからも足取りはフラフラで、更にカイが昨晩のように走り出したため、またも疲労を溜め込んだ透は帰宅するなりベッドに飛び込んだ。

 流石にカイが真犯人である可能性は頭から消えなかったが、それでも透の頭に嫌疑が残り続けるようなことは無かった。

 その日の細かな出来事など、透はもう覚えていない。仕事の疲れが全てを上書きしたのだ。当の本人は、だらしなく涎を垂らして寝具に身を預けている。焼却場への道のりで感じた暗闇に対するあの恐怖をも、完全に忘れ去っていった。

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