どうぞ命は神様へ

石土 皿葉

クジラの少年

第1話 救いの手

「――あ! クジラだ!」


 何気ない日常の、授業中のことだった。

 場所は都内に位置する、とある小学校。授業の妨げにならない程度に賑やかだった教室に、高らかとそんな声が響いた。

「えー! どれー?」

 そんな一人の声につられて、全員が一斉に窓の外を覗き始めた。廊下側に席がある生徒は、授業中なんてお構いなしに窓へ近づいて行く。しかし、期待に胸を弾ませる子供達の熱意とは裏腹に、窓の外に広がるのは何の変哲もない街の風景だった。

 それもその筈だ。ここは内陸にある住宅街で、鯨が住み着くような海なんてものは存在しようがない。教室に居る子供達は、クジラを見つけようとしばらく外を覗いていたが、姿形どころか、それに似た何かすら見つけられず、段々と、この騒ぎを起こした発言者の嘘ではないかと疑い始めた。

「はい皆、席に戻って! 授業中ですよ!」

 見かねた教師が語気を強めて指示を出した。小学生にとって先生の注意とは絶対の命令であり、正義だ。誰も文句など言う訳もなく、渋々と席に座り始める。

 念のためか、教師も窓の外へ横目をやる。しかし、やはり鯨の影は無い。

「カイくん大丈夫? 体調が悪かったりしたら遠慮なく言ってね? 皆も騒がないよう気を付けるように。また宿題増やしちゃうからね?」

 軽い騒ぎを起こした張本人である、カイと呼ばれた少年は、教師に注意されて尚、窓の外を見つめていた。教師はその様子をどこか不思議そうに見つめ、少し心配しているようだった。

 カイに対する教師のこの態度は、とても優しいものだった。それはカイを特別視していたりとか、日頃から贔屓しているから、という訳ではない。むしろその逆で、教師である彼女は、カイにこれといった印象を抱いていなかった。

 カイは自他ともに認める大人しい少年だった。必要以上の発言は控え、時には自分の言いたいことまで隠したりもする、少し人見知りな、至って普通の男の子だ。

 だから今回の彼の言動はまさしく、らしくない。教師である彼女もそう感じ、体調や精神面に何かあったのではと不安になっていたのだ。


 そして、いつものように時は流れていき、放課後を告げるチャイムが鳴った。

 子供達は既に帰りの準備を済ませており、教師と挨拶を交わし、昇降口から帰宅を始めた。小さな人の波を作る下校時間、そこからチラホラと聞こえるのはカイの話だった。

 同じ教室の子供達から見ても、あのカイの奇行は珍しかったようで、今日のトピックにと、カイに目を付け、他の教室の友人に話を広めていた。

 一日も経てば誰もが飽きる消化の良い噂ではあるが、もちろん、その人の波の中にはカイ本人も居る。いつも通り静かに一人で帰り始める彼の耳に、この噂が届かない訳はない。

「ふんふーん」

 しかし、カイは誰の目から見ても上機嫌であると分かるほど、浮ついた様子を隠そうとしなかった。いつもトボトボと下を向いて歩くカイはどこにも見当たらない。彼は目に弧を描き、足は自然とスキップを刻んでいた。

 彼が見たというクジラがきっかけか、この日からカイは変わった。まるで別人になったかのような豹変ぶりだが、次第にクラスメイトなどの周りの人間は、彼が不思議で、変な人であると違和感なく受け入れるようになった。

 赤く染まる前の太陽に照らされるカイの後ろ姿を、この物語の主人公となる昇塚しょうづかとおるは友人らと眺めていた。

「どうしたんだろーなあいつ」

「さあ?」

 透の友人らがカイの後ろ姿に、嫌悪感や好奇心などが入り混じった視線を送る。透も例に漏れず、他と変わらない少し大人ぶった内心で、彼を見下している。

 しかし、透はそんなことを思いつつも、何故かカイの背から目を離せない。透は少しの違和感を覚えるが、友人らの掛け声でそんなことはどうでもよくなった。

 今日も帰りに公園へ寄って、友達と一緒に遊ぶ。透がカイに再び関心を持つのは、数年後のことだった。


 数年後、透は他の同年代と同じく中学校へ入学し、そこから更に一年が経った。見知った顔の何人かは他の学校へと道を分かれることになったが、それ以外に大した変化はない。中学へ上がるのに進学校の試験を受けようとするほど透は高い意識を持っていないし、透の両親もそれを子供に求めるような人間じゃなかった。

 だから変わったことは無い。クラスに居る連中はほとんど小学校からの顔馴染みで、透にとって居心地のいい、平穏な日常のままだ。

「でさー、お前はどうなんよ?」

「……え? 何の話?」

 日常の居心地良さにボーっとしていた透は、友人の声に少し遅れて反応した。

「だからさ、好きな人だよ。聞いたことなかったじゃん」

「あーね。そりゃおまえ……」

 話題は好意を寄せる異性。透が無意識に頬を染め、視線を送ったのは、男女数人に囲まれるようにして談笑をする、可憐な少女だった。

「うわー! お前も広沢さんかよ?」

「え、あ、いや……あ、あんま口に出すなよ。バレるだろ」

「すまん。でも広沢さんか~……ライバル多くね?」

「いちいち言わなくていいって……」

 透は見事、好きな人を言い当てられ、更に顔を赤くし、恥ずかしそうに頭を掻く。そんな透を励ますような、揶揄うような目で、友人は笑っていた。

 透が心を寄せる女子の名前は、広沢ひろさわ万美まみ。入学当初、その姿を一目見た時から、透は人生で初めての恋をしていた。

 艶のある長い黒髪に、可愛いとも綺麗とも言える整った顔立ち。更に、誰にも分け隔てなく親切で、中学生とは思えない美しい所作や立ち振る舞いから育ちの良さが窺える彼女は、間違いなく、透の知る人生で一番の素敵な女性だった。

 しかし、故にその倍率は高い。その美貌は、間もなく学校中に広まり、学年問わずその姿を一目見ようと生徒が集まっては、情緒を育んだばかりの男女の心を根こそぎ奪っていき、広沢万美は入学したてにして、校内一の美少女となった。

 一年経った今もその人気は衰えず、むしろ恋をする人間が増えていく一方。時間が経てば経つほどライバルが増える彼女の人気ぶりは、その周りを男子生徒の闘志で燃えあがらせる魔境と化していた。もちろん、透もその内の一人である。

「高嶺の花、っていうかなぁ……あそこまでいくと、もはや毒だよな」

「わざわざ人聞き悪くすんなって」

 透は、思いを寄せる広沢万美をネタにされた事に少しムッとし、しかし言い得て妙な友人の言葉に、不覚にも笑った。

 そんな時、透の耳へ意図せず、とある人物の声が聞こえて来た。

「ん、手伝おうか?」

「え!? あぁいや、大丈夫大丈夫……」

「そう? 無理しない方がいいよ」

 周りの雑音を抜け、不思議と綺麗に耳に入って来た声の方へ透が意識を向けると、そこには、机いっぱいにプリントを広げる大人しそうな女子と、それに声を掛ける男子が居た。女子の方とはあまり関わりのない透だが、男子の方は何かと目にすることが多い人物だった。

 透にとっても、もはや馴染み深くあるその男子生徒の名前は、田母神たもがみかい。そう、あのカイである。彼も透と同じ小学校からの同級生で、今も同じ教室に通う仲間だ。

 彼の評判は相変わらずで、何を考えているのか突然に奇行へ走ることが多く、基本は変人扱い。しかし、偶に気の利く行動を取ることがあり、カイはクラス内でマスコット的立ち位置に落ち着いていたりもする。

 今も彼は何がしたいのか、作業をしている女子にしきりに話しかけ、机の上のプリントに触ろうと話を続けているようだ。ところが、話しかけられている女子はというと、困り顔を浮かべているものの、本気で嫌がっている様子は無く、むしろ何処か楽しそうな様子だ。この光景を見たクラスメイト達のほとんどが、その様子に気付いていないが、透は何となくその雰囲気を感じ取っていた。

 どちらかというと浮いているような存在であるカイが、どうやってクラスに馴染んでいるのか、透は理解が及ばず、不思議でしようがなかった。


「――あ、そういやお前、神路決めた?」

「あー出た出た」

 透の友人は思い出したかのようにその話題を振り、既に話題が切り替わっていることに気付いた透は、間延びした声で適当に返事をした。

 中学卒業を控える生徒達には、俗にいう『神路決め』というイベントがある。

 これは国民の四大義務の一つである信心の義務をもとに作られた制度であり、義務教育の卒業と共に、本人に選択させる為の法律として定められているものだ。

 そして、この神路決めで少年少女に選択させる必要があるのは、文字通り神への路。何せこの神路、要は命の預け元を決めないということは、それが定まらず、死後その本人の命が路頭に迷うということなのだ。

 死は決して命の終わりではない。信仰はまさしく命の力であり、人の心を救う唯一の方法。それが常識だ。

 実際、死者との会話を為す方法がある。人生に迷いを抱いた人や、離れて逝った死者に未練がある人などが、今は公共サービスとなっているそれを利用するのだ。

 だからこそ神路を選ばないという行動は忌避され、誰もが死後の世界へ足を運べるよう、国が法を敷いた。だから『神路決め』というイベントは、その形式こそ文化や歴史で差異があれど、どの国かなど関係なく、大昔からの常識だった。

 しかし、現代人の若い世代にとっては、これが非常に重要な問題であることとは別に、どうしても面倒臭さが勝るイベントでもあった。何故なら、この平和な日常に生きる自分が若くして死ぬなど、ほとんどの人間が考えないからである。

「とりあえず家族と一緒にしたけど、多分そのまま変わらんと思う」

「お前ん家も重教の宗派だっけ?」

「そう」

「まー普通だな」

 透は友人と神路について短く話した。そこに重要な認識は無く、これもまた、ありふれた話題として消化される。

 彼らにとってただの日常の一部であるこの問題は、後にちょっとした騒ぎになり、透の変化のきっかけにもなった。


 騒ぎが起きた日の朝、透は他の生徒よりも早く教室にやって来た。決して何か目的があったわけではなく、本当にたまたま早起きをしただけで、透自身も何となく、いつもと違う時間に登校したのだ。これも、神の思し召しなのかもしれない。

 透がまず目にしたのは、生徒が座る席の机ひとつひとつに置かれた御守りだった。透は見慣れない光景に一瞬、違和感を覚え、大した時間もかからずに、それの正体に気が付く。

「はあ、これが」

 透がそう呟いたのは、その御守りは恐らく、担任教師から配布予定であった自治体からの贈り物であり、一生の共となる大事な物であるから。厳密には、大事な物になる予定の、その入れ物だ。

 姿形の無い神から、どうやって恩恵を賜るのか。それは触媒を介した交信だ。

 透の場合であれば、三大宗教の一つ、重教。その祖であるトンガと呼ばれる神を信仰することとなるため、その蹄の破片が、この御守りに納入される。

 紛れもない神の五体の一部である触媒は一般的に、窓と総称され、個人が携帯する御守りだけでなく、家具から街のインフラなど様々な場所で使われることが多く、人々の生活を支えている物だ。

 もちろん、窓は特別な物で、無断の廃棄や意図しない紛失でさえも許されない。御守りも個人で携帯する物ではあるが、厳密には国の管理物であり、信仰の変更などで返却が求められ、何より、大事に扱わないと所持者に祟りが降りかかる場合もある。

 だから情緒の安定しない子供は基本的に窓の所有を認められず、中身のない御守りを配布するのも、中学卒業と共に配布される、窓を大事にしようという意識づくりの為だった。

 とはいえ、配布された御守りは中身が無いだけで本物そのものであり、仮に中身が入っていたとしても中身を覗くなんて罰当たりなことは誰もしない為、実質これが、透らにとって命を共にする御守りであった。

「……ほー」

 透は自分の席に置かれた御守りを手にし、訝しげに眺めながらも、思わず感嘆の声を漏らした。この御守りは全て、職人による手作りの物だ。その洗練された意匠は、若輩者である透の目から見ても素晴らしいと一目で分かる出来であり、信仰深い人間にとって愛着を持たざるを得ない代物だった。

 透は満足するまでそれを眺めた後、流れるような手つきで御守りを懐にしまった。

 誰も居ない教室で優雅ともいえる時間を過ごした透は、静寂の中、ちょっとした好奇心を抱いた。まるで覗き見をするような悪趣味さに、ほんの一瞬だけ躊躇を覚える透だったが、そんなものは僅かな好奇心にさえも勝てない。

 御守りの意匠は、信仰によって決まる。それ即ち、八百万の神が居るこの世では、その道に詳しい専門科さえも全てを把握するのは難しい程の、多種多様な意匠が存在しているということである。

 信仰が地域などで偏ることは珍しくないが、それでも全員が同じ神を信仰しているわけではない。透が気になったのは他のクラスメイトの、特に自分が思いを寄せる広沢の御守りだ。

 机の合間を練り歩く透は、すれ違いざまに他の御守りを眺め、しかし目当ての物を見るまで歩みを止めない。年相応の下心が垣間見える奇行は、誰の目にも触れられることなく、目的を達した。

 それは透の物とは違った。深みのある紺色は落ち着きを感じさせ、派手ではないが気品溢れる意匠の御守り。透は信仰の違いに落胆したものの、どこか彼女と同じ雰囲気を醸し出す御守りに、納得する気持ちを一番強く感じた。

 そしてお目当ての物を眺め始めて間もなく、透は違和感に気が付いた。広沢の机が、やけに濡れているのである。御守りに気を取られていたのか数舜遅れて透は気が付き、天井やガラス窓など、おおよそ水が湧いて出て来るような箇所をキョロキョロと見渡すが、特に異変は見当たらない。

 疑問ばかりを頭に浮かべ、透はもう一度、御守りに目をやると、特に濡れているのはその御守りだということに気が付く。黒にも近い紺は何かの液体に湿っており、その色に更なる深みを持たせていた。

「ん? お、昇塚。何かやけに早いな今日は」

「……あ、先生。おはようございます」

 担任教師は教室へと入って来ると、明るい口調で透に声を掛けた。透は思い人の御守りの件を一旦、頭の片隅へ追いやり、担任教師との会話に専念し始める。

「何か今日はたまたま早起きしたんですよ。ついでに学校も早く来ようかなって」

「おお、良い心がけだな。他のやつらも見習ってくれればなぁ……」

「そういえば、まだ早い時間とはいえ誰も来てないですね?」

「いっつもこんなもんだよ。まあ、うちのクラスは集まりが悪いで有名だしな」

「初耳なんですけど……」

 かしこまった透の敬語口調を、担任教師は気に留めることなく会話を続ける。

 本能的にと言ってもいいほどに、目立つような真似が嫌いな透は、友人や同年代以外には敬語を使うよう心掛けて生活している。はっきりと一線を引いた透の態度に、教師らは可もなく不可もないような印象を持ち、それゆえ彼を問題視するような人間は誰もおらず、透は自分が望む立ち位置を維持できていた。

「そうだ、御守りはもう見たか? お前らに喜んでほしくて早めに配ったんだが」

「あ、もう頂きました。あんまり気にしたことなかったですけど、いざ手に入ると結構嬉しいです」

「いやー良かったな。恒例行事とはいえ、神との邂逅への第一歩だからな。なんか俺まで嬉しくなっちゃうよ。……よし、折角だし昇塚も先生の手伝いするか! 別に御守りを配るのに夢中で、雑用を忘れてたとかじゃないぞ」

「ははは……了解です」

 愛想笑いを浮かべ、教師の手伝いへ向かう透の気分は、一瞬にして地に落ちた。早起きは損気と教訓を得た透は、教室の扉を抜ける。

 その時、透は気に留めなかったが、どこからか海の香りが漂ったように感じた。


 透は重い荷物を持ちながら職員用の階段を上り、降り、上り、また降り、担任教師の指示に従った。心の中で恨み節を思い起こすが、決して口や顔など、表には出さない。雑用を終えた透は心身ともに疲弊しており、担任と教室へ戻る頃には、ショートホームルームが始まりそうな時間だった。

 そうして透が教室へ入ると、静かだった教室がザワザワと騒ぎ立っていることに気が付いた。もちろん、登校時間が迫り、クラスメイトが揃っているため、人が多いのは当たり前だ。しかし、日常の活気を好む透は、それがいつもとは違う熱気であると瞬時に分かった。

「誰がやったのよ! どうせ男子の誰かでしょ!」

「いつまで言ってんだよ……誰も分かんねえって」

 少し棘のある女子生徒の声に、疲れたような呆れたような男子生徒の声。担任教師と透は状況が呑み込めず、虫がたかっているかのような人の集まりに近寄ると、数人の生徒の隙間から、広沢の姿を見つけた。要は、彼女がこの人混みの中心に居た。

 何の話をしていたにせよ、透はまず、自分が思いを寄せる広沢の異変に瞬時に気が付く。周りを窺い、狼狽している彼女の姿が、嫌に透の目に付いた。

「おうおう、どうしたお前ら」

「あ、先生おはよー。それが広沢さんの机が何かビチャビチャになってて」

「皆、私は大丈夫だから……」

 広沢は困り顔を浮かべながら周りを宥めようとするが、彼女自身が築き上げた人気がそれを許さない。この騒ぎを面倒くさがる生徒も何人か居たが、その場に居るほとんどの人間が犯人探しに躍起になっていた。

「やった奴! 名乗り出なさいよ!」

「そうだそうだ! 広沢さんにこんなマネしやがって……」

「まあ、確かに、あれはいくらなんでも陰湿すぎるかもな……」

 ショートホームルームという制限時間が迫っているのもあってか、静かに熱を上げ続ける教室。透もその熱に当てられ、一人頭の中で犯人捜しを始めた。

 犯人を絞り込めるのは自分だけ。そんな考えが当たり前のように透の頭にあった。何せ、今日は透がいち早く登校したのである。教室へ着いた頃には、確かに彼女の机は濡れていた。その事実をもとに透は、彼女の役に立ち、あわよくば気に入られたいという下心をほんの少し抱え、今朝の出来事を遡り始める。

 何か怪しい出来事がなかったか真剣に考える透の耳に、クラスメイトの内の、誰かの声が無遠慮に入って来た。

「そういや、昇塚と先生は何やってたんだ?」

 些細な刺激で崩壊してしまいそうな空気に、その声は波風を立てず、自然と馴染んだ。誰が言ったのかも分からないその発言に、透は考えごとから現実に引き戻され、担任教師は淡々と事実を述べた。

「ああ、昇塚は俺の手伝いをしてもらってたんだ。こいつは違うと思うぞ」

 先の質問に犯人をあぶり出そうとする意図があったかどうかは分からないが、担任教師は話の流れのまま、昇塚を擁護する形で答えを口にした。

 しかし、たかが三十人前後の狭い世界では、情報は全て共有される傾向にあり、クラスメイト達は些細な非日常にも敏感に反応を見せる。

「それっていつから? 誰か昇塚のこと見た?」

「確かに、いつもは登校中に見かけるけど……」

「私が来た時には昇塚の荷物あった気がする……」

 誰よりも平穏を好む透は、その空気の変化を敏感に感じ取った。それは、とても小さな波紋だったが、透からしてみれば荒波の予兆である。

「昇塚は今日、教室に一番乗りだったぞ。俺も居たからな」

「……それ本当? 目を離したりは?」

「いやいや、本当だって。俺がトイレに行ってた後で……ん?」

 担任教師はその性格ゆえか、身振り手振りを交え、大袈裟に透を擁護しようと情報を口で並べようとし、しばらくの沈黙の後、疑問符を浮かべた。

 透の心臓が小刻みに波を立て始める。額に脂汗を浮かべる透は、そんなまさかと周りを見渡す。見えるのは彼が愛してやまない日常の登場人物達。しかし、それはいつもの彼らとは違い、無数の視線を透へ投げかけている。

 これは透にとって初めての経験だ。彼は、他でもない自分が話題の中心に居ると、過度に緊張した面持ちで悟った。

「……え? お、俺じゃないぞ」

 透は咄嗟に、そう言葉を絞り出す他なかった。もちろん、透は犯人ではない。しかし、そんな真偽は最早どうでもよく、これが現実で、悪目立ちしているという事実だけが、透の精神を蝕んでいた。

「まだ何も言ってねえよ」

「い、いやだって、皆がそうやって……とりあえず、本当に俺じゃないって」

「証拠は?」

「証拠なんて……せ、せんせいは分かってますよね!?」

「あ、ああ……」

 透は自身の説得力が欠けているのを自覚しつつ、情けない声で担任教師に縋るしかなかった。教師の方も透が犯人ではないと思いつつも、その必死さに圧倒され、少し気の抜けた返事をするしかない。

 今、精神が不安定である透は、その煮え切らない教師の返事に虚偽が含まれていると思う他なく、他のクラスメイト達も、その二人のやり取りに信憑性を一切感じていなかった。

 透への視線が、より一層鋭くなっていく。透は自分が下せる選択の幅が狭まっていく感覚を覚え、もう自己弁護する他ないと、ようやく理解した。

「な、何で、俺が疑われるんだよ?」

「いや、だって……なあ?」

「言いたいことあるなら、はっきり言えよ!」

 透が狼狽えていることは、誰の目にも明らかだった。壇上に立たされた被告人がこうなってしまえば、それを見ている人間達が疑いを持ってかかるのは、そう不自然ではない。

「……じゃあ、はっきり言うけど、お前以外に怪しい奴が居ないんだよ。他のやつらは大体複数人で登校してるし、その後は教室にずっと誰か居る状態だから、人前でなんて何も出来ないだろ?」

「うん、それはもう話したし」

 どうやら、透が担任教師の手伝いをしている間に行われた犯人捜しでは、犯人を特定できず、ゆえに犯行可能な人間が居なかったという結論に落ち着いていたらしい。致し方ないとはいえ、この情報は透の立場を不利にさせるものだ。

 透はその立ち位置を客観的によく理解しており、しかし巻き返せるほどの度量は持ち合わせていない。更に続く自己弁護は感傷を加速させる。

「だ、第一、そんな事して俺に何の得があるんだ!? 俺がそんな事する奴に見えるのか!?」

「そりゃ、そうだけど……」

「いや、こいつが犯人じゃないと仮定した話もしようぜ。昇塚は犯人に心当たりないのか?」

 そう助け舟を出したのは、いつも透が居るグループの一員である友人。彼も昇塚を犯人と思っている人間の一人だが、多少の同情から、透へなけなしの逃げ道を何とか用意した。

 しかし、今の透にはその助け舟が複雑なものだった。友情を感じられる一幕にも思えるが、今の透は冷静ではない。透も理性では、その助けを有難く思った方がいいと理解しているが、憐れみのような、蜘蛛の糸のようなその救いは、透に悔しい思いを覚えさせた。

 ましてや相手は腐っても友人である。態度がいつもと違い、彼が可哀そうな物を見る目をこちら向けていることを、透は十二分に理解しており、透の心は、それが裏切りに近い何かであると結論付けた。

「そんなの聞かれても俺が知るかよ! 朝早くに来た時にはもう、びしょ濡れだったんだよ!」

 透は教室内でも普通な人間という立ち位置だった。それはクラスメイトの総評であり、彼自身が望んだことでもある。しかし、今その面影はどこにもない。壇上に立たされた昇塚透という人物は、根底に眠っていた本性を曝け出し、クラスメイトに新たな印象を与えた。それも、あまり良いとは言えないような、人間の弱い部分とも言える本性を。

「……その口ぶりだと、濡れてたのは知ってたってこと? 何で先生に言うなりしなかったの?」

「だって、先生に頼まれごとされて……」

「てか、なんで濡れてるの知ってたんだ? お前の席と結構、離れてるよな?」

「……それは」

 広沢が好きだからと、透は言う訳にいかなかった。多少のアリバイにはなるだろうが、そんなことを言ってしまえば、自分の初恋が終わると、今の透でも理解は出来ていた。

 答えを言い淀む透を見た生徒達は、先の質問が核心であると誤認する。

「昇塚……」

「ッ! いや、本当に俺じゃないんだよ! そ、そうだ! 俺の荷物を見てくれ! 水浸しになってるなら、えっと、ペットボトルとか、何か容器が必要だろ!?」

 極限状態になった透は、ようやくそれらしい証拠を見つけた。荷物を置いて担任教師と教室を出たなら、犯行に使われた道具がそこに無ければおかしいと。透の鞄には勉強道具しか入っていない。昼食を購買部で済ませる透の日常が、思わぬところで活きる。

 しかし、その場に居た女子生徒の一人が他の可能性を示唆した。

「……あれ本当にただの水だったのかな?」

 大人しそうな女子がそう言うと、他の女子の一人が同調を始める。

「あっ、そうだ! 最初なんか……磯臭くて急いで片付けたよね?」

「……? だから何だよ?」

 異臭騒ぎがあったことは知らない透だったが、それがどう自分の犯行だという証拠になるのか想像が付かず、困惑する。

「だから、えっと……」

「……人の体液、的な?」

 露骨に言葉を躊躇した女子に代わりに、隣にいた男子が言葉を濁しつつ発言した。

 その意味を理解するのに時間が掛かったのは透だけではない。しかし、次第にその意味を理解する人間が増えて行くと、沈黙を貫いていた生徒達もヒソヒソと静かに騒ぎ始める。

 透はその意味を理解すると、焦りを越え、驚愕するしかなかった。

「バカげてる……」

 うら若き想像力は、あらぬ方向へ飛躍した。この場に居る一部の生徒は、透が誰も居ない教室で、意図して粗相をする人間であると信じた。それが比喩などではなく、大小便だという意味と知りながら。

「いや、それは無い! とりあえず時間だからこの話は終わりだ! 一応言っとくが、馬鹿なことは考えんじゃないぞお前ら!」

 初めて見るほど白熱した生徒らの圧に、だんまりを決め込んでいた担任教師は、事の重大さをようやく真に理解し、一線を越えた後に仲裁に入った。しかし、何もかもが遅い。教室は既に、無法へ片足を入れている。

「ヤバくね?」

「いや、流石に……」

「最ッ低」

「犯人は犯人でも、んなことはねーだろ」

 もう広沢の身を案じている者は居なかった。今や透に降り注がれるのは嫌疑の視線ではなく、暇を持て余し話題を求める者たちの好奇の目。透は誇張も何もない、ただの絶望を味わっていた。

 そして、そのどん底に沈んだ心は平静を生み、透に決断を迫らせた。

 透は広沢のことが好きだ。しかし、このままでは初恋どころか、彼が愛してやまない平穏な日常までもが消え失せてしまう。それは何としてでも食い止めなければならないと、透は考えた。

 そして透は初恋を諦めることに決めた。彼の心には未だ広沢への淡い恋心がある。若さ故の純粋で儚く浅いものだが、それは今の彼にとって紛れもなく大切なものだ。しかし、平穏な日常を選んだ彼の、頭の隅にある冷静な部分が、その大切な恋心を餌にするべきだと告げた。

 例の体液だとかいう意見を鵜呑みにしているのは少数派である。それも犯人捜しに熱中した余波による、一時的なものである、と透は考えた。今この瞬間、自分は犯人ではなく、道化を求められていると。

 新たに必要な信憑性と話題性。この事件の真偽など、どうでもよくなるほどの適度な題材。

 透は、この場で自分の恋心を吐露することに決めた。それは決して、広沢に恋心を伝える為の告白などではなく、同情を誘う為のわざとらしい芝居だ。この一連の事件の犯人だということを、自分の内に秘めていた恋心を交えて否定しつつ、この身の潔白を示し、笑い話に飢えた化け物達に新たなネタを提供するのが狙いだ。

 しばらくの間、透は揶揄われるだろう。いや、むしろ目論見通りに同情をしてくるかもしれない。しかし、少なくとも、このバカげた事件の犯人として後ろ指を指されるよりも、健全な恋心を弄られる方がマシだと透は考えた。

 上手くいく保証は無いが、透は何が何でも成功させる意気込みだった。手段は問わず、必要ならば、涙さえも流して見せようと。ただし情けなさすぎるのは控えて。

 孤独に滑稽な計画を立てた透。しかし、それが必要になることはなかった。


「僕がやりました」

 その声は、ヒソヒソと話をする生徒達のものよりも、はっきり明確で、力強い宣言のようだった。それが場違いな発言だったからか、それとも、その声の主が人を沈黙させる天才だったからか、その人物は教室内に溜まっていた熱ごと、生徒達を鎮めてみせた。

 思わぬ自白が耳に聞こえ、透は俯いていた面を上げる。

 その自白の主は、なんと、田母神櫂。あのカイだった。

「……ど、どういうことだ?」

「? そのままの意味です。僕がやりました」

 困惑し、その意味を問う担任教師に、カイは不思議そうに同じ答えを返した。

「え? 何、どういうこと?」

「だから、僕がここで、おしっこをしたと言っているんです」

 思わずといった風に困惑した声を漏らす生徒に向かって、カイはひたすらに真面目な声でそう答えた。

 彼が、普段から奇行に走ることが多いカイだと、クラスメイトの全員が知っていたが、そのあまりに淡々とした態度に、絶句することしか出来なかった。それが嘘だというには、あまりにも気色が悪かったのである。

「……何でこんな事したの?」

 あまりにも大胆な告白に、沈黙を貫いていた当事者である広沢が口を開き、カイにそう聞いた。

「何となく?」

 臆することなく、というべきか、カイは被害者を前にしても、彼の平静を崩すことなく、不思議な回答をした。そのマイペースさは見ている者の困惑を助長させ、一部の生徒には苛立ちまで感じさせた。

「……と、とりあえず、田母神は職員室に来い! あと、昇塚も来てくれ」

「はい」

「は、はい……」

「他はとりあえず、一限目の準備を始めてなさい!」

 変な空気になった教室に残されるのは御免だという思いで、透は足早に担任教師と教室を出る。やはりというべきか、カイはその後を追うように、ゆったりとした足取りで教室を出た。


 透は、果たして今何が起きているのか理解できていなかった。濡れ衣を着せられ、初恋を捨てる決意をしたと思ったら、いきなりカイが自分を犯人だと主張した。

 カイが自分を庇ったのか、それとも本当にカイが犯人なのか、そもそも彼の行動には何の意味も無いのではないのか、そんな様々な憶測が透の頭に浮かび、その数だけ透の頭は混乱を極めた。

 そして必死に思考をする透をよそに、職員室まで共に歩くカイは、いつものカイのままだ。一人で笑顔を浮かべたと思ったら、今度は何ともないといった顔で欠伸をし、何が見えるのかガラス窓の外に目をやる。これから教師に叱られるかもしれないというのに、カイは興味や関心さえも示さない。

 自分の横を歩くそんなクラスメイトに、同じ性別、同じ年齢、同じ人間なのかさえも疑わしく感じ、必死に数えた憶測が無意味であることを透は悟った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る