一から十のお題

@azuritebox

第1話「たったひとつの」

「たったひとつの」






聖堂には、一体のガラスの像があった。

美しい女の像だった。


ある日、金に困った一人の男が、その像を盗み出そうとした。


等身大のガラスの像は、抱えると、奇妙なことに人の肌のように暖かく感じた。

夜の闇に紛れて聖堂から逃げるうち、ガラスの像が泣いているのに気づいた。

女の目から、確かに、透明な液体がするすると滴り落ちている。男はぎょっとした。

ガラスの像は涙を流し続け、まるでガラスがすっかり溶けてしまったように、透明な液体に変わって、男の手から流れ落ちてしまった。


空になった腕を眺めながら、恐怖というよりも何かとんでもないことをしてしまったような心地で、男は逃げるようにその場を立ち去った。




翌日から、この町で異変が起こった。

疫病が流行りはじめたのだ。

ここに居ては、みんな感染して死んでしまう。そういって、足の丈夫なものはみんなこの町を出ようとした。

男も、命だけでも助かろうと荷一つ持たず立ち去ろうとしていた時だ。

「お前のせいだ!」

一人の女が男のもとへやってきた。身なりの悪い中年の女だった。

何がなんだかわからぬまま、男は、怒り狂ったその女に引きずられて、聖堂まで連れてこられた。

「お前があの像を盗もうとしたせいだ、あたしは見ていたよ!」


天から落ちるいかずちのような激しい怒声に、男は縮み上がった。

足が凍りついたように動くことができなかった。

が、すぐにそれは、犯そうとした罪がばれてしまった畏怖に体がすくんでしまっただけではないのだと気づく。

男の足は、言葉のとおり、その場に凍りついて動けなくなっている。すぅっと体の血の気が引くような、五感が遠のくような感覚がして、全身が冷たくなった。そして、まぶたさえも動かなくなる。ステンドグラスから差し込んでくる鈍い明かりが、目を貫くように入り込んでくる。

その体は、水を固形化させたような、ガラスへと変わっていた。



ああ。

これは天罰なのか。



自分を怒鳴りつけた、あの薄汚い女は、きっと天から使わされた神の声の姿であったに違いない。


唇は助けを呼ぶことはできず、誰か助けてくれと叫ぶことはできない。

自分は一体このままどうなってしまうのかと、涙を流すこともできない。

生きたまま、木のようにただ立ち尽くすことしかできなくなってしまった。


誰か気づいてくれないかと思ったが、この町で、男のことを記憶にとどめている物はほとんどいなかった。




体がガラスと化した次の日から、この聖堂に、町の人間が立ち代り入れ替わり訪れた。

だが、誰も男が生きた人間だと気づくものはいなかった。

そんな余裕があるはずもない。涙を流しながら、床にひざまずいて熱心に祈って帰っていく。

ああ、もし神がここにいるのならどうか助けてはくれまいか。

この逃れることのできない恐ろしい死の病からどうか助けてください、と。

彼にとってはそんなことはどうでもいい。自分の身の方がよほど切実だ。これでは、死に包まれていくこの町から逃げることすらできないではないか。


(俺はここにいる、誰か助けてくれ!)


男は必死に叫び続けた。

その心の声は誰にも届くことはない。


素通りしてゆく町の人々をうらめしく思った。

目に見えない死の病に汚染された灰色の空気が、透明な体にまとわりついて、塵の積もりゆくガラスの肌を鈍く曇らせた。

男の苦しみも悲しみも恐怖も、誰にも届くことはなかった。




やがて、入れ替わり立ち代わり前に訪れては帰っていく町の人々の顔を見ているうち、苦しみとは別の感覚が生まれた。

心臓の無いその胸に浮かんだ感情は、安堵だった。


(俺は、このままでいる限り、この病で死ぬことは無い)


このガラスの体は、空気の中に潜む死の病にかかることは無かった。

はたしてこれは、神の庇護であろうか。

自分は、この透明な壁によって体の自由を奪われる代わりに、命を護られたのだ。

のどに息の通らない身なので、息をつくことはできないが、胸をふさぐ恐怖が軽くなった。

動くことができなくても、逃げる必要は無い。

誰にも気づかれなくてもいい。ここに隠れていれば自分は安全なのだ。

俺の立つこの場所は、神の目の下ともいえる聖堂の屋根の下だ。いつか慈悲によって俺の些細な罪も許され、この死の病がおさまった頃には俺のガラスの拘束も解けることだろう。


そう思うことにして男は、しばらくそのまま、ガラスの像になりきっていた。

口が呼吸をしないことや、まぶたが瞬きをしない違和感にも慣れていった。腹が減らないことに関しては、感謝したいくらいだ。


あいかわらず、死に瀕した町の民達が、すがりつくように救いを求めて聖堂へと祈りに来る。

聞く必要はないと思っていた。俺は神ではない。


疫病は、いつまでたってもおさまる気配が無かった。

死者は増えるばかりだ。


健康な者はもうほとんどこの町には残っていない。

ここの地の民だけではなく病に冒された者たちが、追い立てられるようにしてここにやってくる。

活気のあった美しい景色は今はどこにもない。死の苦しみばかりが灰色の空の下に満ちる。




男は、ふと、いつか聞かされた言葉が脳裏によぎった。

お前のせいだ、お前があの像を盗もうとしたからだ、と。


(俺のせいだろうか)


それは、このガラスの体になってから一度も考えたことのないことだった。

あの日女に怒鳴りつけられた言葉さえ、今まで忘れていたのだ。




そう心によぎって以来、とたんに、聖堂に救いを求めて訪れる病人たちの声が、身に刺さるように聞こえ始めた。


助けてください。

苦しい。

死にたくない・・・。


今まで気づくことの無かった、苦しみの声がそこにあった。

音ばかりの声ならば、確かに今までも届いていた。だが、男は今まで、その心の中の苦しみに関心を寄せたことが無かったのだ。


やはりこれは天罰であった。

神は、男に他人の苦しみを受け取ることを教えたのだ。



しだいに、動かずにただ立ち尽くすことが苦しくなってくる。

死にゆく人たちに、言葉をかけることも無く傍観していることが苦しくなってくる。

俺もきっと本来はあちらの立場だった。



(ああ、俺を許してくれ)



わが身を心から悔いる。

透明なガラスの体の内側に、今までの生涯の中に一度もなかったような、純粋な懺悔が満ちた。

凍りついたこの指では、祈りのために手を組み合わせることもできないのだ。



声にならない悲痛のうめきが、ガラスの唇から発せられた。

するすると、目から涙があふれはじめた。

温かな透明な液体が、体の上を流れていた。

懐かしい心地がした。

体を縛り付けていた、硬い戒めが溶けたのだ。



自由がこの体に戻ったとき、男が最初にとった行動は、目の前の少女にひざまずくことだった。

このみずぼらしい身なりの少女もまた、疫病の恐怖に怯えて祈りをささげに来た一人だった。


「俺を許してくれ!」


長い年月、発せられることの無かった贖罪の言葉が、聖堂の内側に大きくこだました。

顔を上げたとき、男は少女の表情に気づいた。

病に冒され死に瀕した青白い顔ではなかった。天井の窓から差し込む光は、白い頬に穏やかな頬笑みを浮かべた少女を照らし出した。


確かに会ったことのある顔だった。

少女は男に言った。


「どうか泣かないでくださいね。悲しみすぎると、心がガラスになってしまうから」


男の脳裏に、ある光景が鮮明に浮かんだ。

疫病で人々が死ぬことを悲しんで、毎日毎日、ここの聖堂の中で祈りながら涙を流し続けていた少女の姿が見えた。


(誰も死なないでほしかったんです)


どこからか声が聞こえた。少女の声が。

彼女の涙が、人々の祈りの声を聞く透明なガラスの姿となったのだろう。









ふと気づくと、男は、聖堂の外にいた。


町は明るく、活気に満ちていた。

金に困って途方にくれ、ふらふらと歩いていてここにたどり着いてしまった、あの時のままの光景だった。


恐る恐る、誰もいない聖堂の中に足を踏み入れる。

美しい女の姿をしたガラスの像がそこにあった。



俺を許してくれ。



男は、深くひざまずいて頭をさげた。

窓から差し込む光が、透明なガラスの像を通してキラキラときらめきながら、男へと届いていた。




(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一から十のお題 @azuritebox

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る