第14話 縁談の行方

 涼佳すずかの声掛けと共に襖を開けると、杏子あんこに無理やり迫られる翔和とわの姿が目に入った。

 彼と別れおおよそ四十分。着物を乱した妹は、倒れた翔和にのしかかるようにして顔を近付け、今にも唇が触れそうな態勢で、彼を見つめている。


「あらあら。これはまた随分な光景ねぇ。お話しして決めなさいとは言ったけれど、不純な行為を許した覚えはないのよ、杏子ちゃん」


 すると、明らかに翔和を襲い、既成事実を作ろうと目論む杏子に、涼佳は一切動揺した素振りもなく、むしろ恐ろしいほど淡々と声掛けた。

 穏やかな表情で杏子を見下ろす彼女の口元には、上品な笑みさえ浮かんでいるものの、滲み出る威圧感に、部屋の空気が一瞬にして凍りつく。

 だが、そんなことを気にした様子もなく視線を向けていた涼佳はやがて、彼女が離れたことを確認すると、何事もなかった顔で口を開いた。


「それで? 話し合いの結果はどうだったのかしら?」

「これで口頭での決着がついたように見えますか? 母上」

「見えないわねぇ。お互いに一歩も譲る気はないと言うことかしら。でも、大事な息子に無理強いをするような子、私はちょっと、認めたくないわね」


 穏やかな笑みを湛え、分かり切った質問をする涼佳に、翔和は畳で打ったのか、頭をさすりながらゆっくりと上体を起こし、ため息を吐いた。

 翔和は何も言わないけれど、おそらく彼は、涼佳が内心怒っていることに気付いたのだろう。だからこそ、えていつも通りを装う彼の横で、杏子は慌てて泣き縋る。


「ごめんなさい! 涼佳様! 私、どうしても翔和様に、私の魅力と甘味への愛を分かっていただきたくて……! 本当はこんなことをするつもり、なかったのです!」

「ふふ。でも、何かしようとしたのは事実でしょう?」

「……っ」

「仮にもご令嬢が、あんなはしたない真似をするものではなくてよ?」


 翔和以上に圧のある微笑みと、見え隠れする怒りに触れ、杏子はそれ以上何も言えずに黙り込む。

 どうやら翔和の前では本性を晒していた杏子も、涼佳には気に入られたい気持ちがあるのか、先程までの高慢さを隠しているらしい。


 所詮結婚は家同士のもの。気に入らないと姑が嫁を追い出し、離婚と相成る事例が後を絶たないご時世においては、気に入られるべきは本人よりも親ということだろう。

 思惑に肩を落とす翔和の傍で、杏子は猫を被ったまま告げる。


「そう、ですわね。……分かりました。でも、縁談の話は一旦、持ち帰らせてください。お養父とう様にお話しして、それでもう一度、最終的なお願いをさせていただきたいです」

「ふぅ。翔和の気持ちは決まっているようだし、素直に諦めて別の縁を探す方が得だとは思うけれど、分かったわ。玄関まで見送ってあげるからおいでなさい」


 かわいらしい上目遣いに媚びを乗せ、涙目で懇願する杏子に、涼佳は冷たく頷くと、くるりと背を向けて歩き出した。

 正直翔和としては、杏子や眞銅しんどう議員との縁など、ここでバッサリと切ってほしいものだったが、家の体面上、そう簡単に物事が進むものではないらしい。涼佳の言葉を受け、部屋を出ていく杏子が消えた室内で、翔和はもう一度、盛大なため息と共に宙を見上げた。



「…………」



 部屋を出る杏子の姿を、雅月あづきは廊下に立ったまま、静かに見つめていた。

 すべてを目にしてなお、彼女は声を出すことも、逃げることも出来ずに立ちすくみ、ただ、成り行きを見守るばかり。

 杏子が翔和を欲していることは分かっていたつもりだったし、目的のためなら手段を択ばない性格なのも、幼いころから知っている。だが、あまりにも衝撃的な光景に、言葉は出てこなかったのだ。


「……――このままで済むと思わないでくださいまし、お姉様」

「!」


 すると、一足先に玄関へと向かう涼佳に聞こえぬよう、杏子は通り抜けざまに、雅月を見据え囁いた。

 ほんのわずかに覗いた視線には、凍えるほどの冷酷さが宿り、雅月の心を一層深く震わせる。


 杏子はまた、自分に何かをするつもりなのだろうか。

 虐げたことはもちろん、道理に背くようなマネを彼女にした覚えは一切ない。にも拘らず、彼女はどうしてそこまで雅月を邪険にするのだろう。

 彼女にとって雅月という姉は、それほどまでに邪魔な存在なのだろうか……?





「……雅月」

「!」


 まるで、突然底のない暗闇に放り込まれたような錯覚の中、妹の冷酷な悪意に震えていた雅月はやがて、幾度か自分を呼ぶ彼の声に、ようやく我へと返った。

 気付くと、室内にいたはずの翔和は、申し訳なさげな視線を浮かべ、こちらをじっと見つめている。

 ひどく疲れの滲んだ双眸を鑑みるに、よほど妹の対応に苦労したのだろう。面倒を持ち込んでしまったことに、雅月の胸がちくりと痛んだ。


「翔和……妹が、ご迷惑をおかけして……」

「謝るのは僕の方だよ。ごめん」


 だが、翔和を前に項垂れる雅月の一方、彼はすぐに首を振ると、彼女を強く抱きしめた。

 過程はどうであれ、不意を突かれ押し倒されたあんな場面を彼女に見せてしまったことが心苦しくて仕方なかった。返事をする間もなく、襖を開ける涼佳の行動はいつも通りとしても、自らの不甲斐なさに、後悔ばかりが押し寄せる。


 もっと早く突っ撥ねていれば。今さらそんなことを思っても、後の祭りなのは分かっていたけれど。


「ごめんよ雅月。辛かったでしょう。何も言われはしなかったかい?」

「……ええ。でも、苦しかったですよ、翔和」


 小刻みに震える手を握り、ぎゅっと強く抱きしめる翔和の抱擁に、雅月はしばらく迷った後で、自分もぎゅっと抱きついた。

 いつもの雅月なら、「私は大丈夫です」と強がりを押し通し、気丈な態度を見せていたかもしれない。でも、今だけは、彼にこうされたいと願ってしまった。

 妹の恐怖で凍りついた心を、彼の甘さで溶かしてほしい。

 傍にいてくれるだけで、雅月はきっと、いつもの自分に戻れるから。どうか、もう少しだけ……。


「そっか。……うん。怖い思いをさせて、ごめん。でも僕は今日、実家に来れてよかったと思っているよ。これであの妹も当分懲りただろうし、甘えてくれる雅月も、かわいいし……」


 胸に抱く思いのまま彼を求め、ぎゅっと埋まる雅月に、翔和はやがて苦しさと嬉しさを合わせたような複雑な声音で呟いた。

 翔和から彼女に触れる展開は数あれど、彼女が積極的になってくれることはあまりない。

 妹という恐怖に弱った故ということも否定できないけれど、それでも彼女の行動がとてつもなく嬉しくて。自分でも驚くほどに、形容しがたい想いが溢れてくる。


「そう、だといいですね……」


 一方、心の中で雅月を想う翔和に、彼女は不安を見せ呟いた。

 確かに今回の件で、杏子はたとえ眞銅議員のゴリ押しがあろうと、縁談を簡単には進められなくなっただろう。そして涼佳の心証を鑑みるに、結婚が成立する可能性は限りなく低い。

 だが、去り際に呟いた脅しとも採れる発言に、彼女の心は決して穏やかではいられなかった。

 自分を支えてくれるこのぬくもりを失わないためにも、自分がもっと、強くならなくては。



「翔和……。私、妹を撃退できるよう、もっと強くなりますね」


 心の中でそう誓い、しばらくじっと抱きついていた雅月は、優しい笑みを浮かべる翔和を見上げ、腕を回したまま呟いた。

 そして、急な言葉に目を瞬く彼に、ハッキリと宣言する。


「これから先、あの子が私に何をしてきたとしても、私はあなたを渡したくないのです」

「……!」

「私はあなたのものなのでしょう。ならば私も、あなたを私だけのものにできるよう、精進致しますわ」


 まるで愛を告げるように、雅月は優しい顔で咲笑う。

 たとえどれだけの恐怖に見舞われようと、雅月と言う少女は、最終的に逃げることなく立ち向かう強さを持っているのだろう。


 正直に言えば、これから先、杏子が自分に何をする気なのか、それはまだ分からない。

 もしかしたら、このまま翔和の傍に居続けることで、いつかまた、彼や御代家に迷惑をかけてしまう日が来るのかもしれない。

 でも、傍にいたいと思うから。

 妹に振り回されず、自分だけの人生を、生きたいと願うから。

 心を込め力強く言うと、翔和はゆっくり顔を赤くして、小さく笑った。


「雅月って本当に狡いよね。それって決意? それとも告白してくれているの? でも、僕だって雅月を守りたいからね。あの妹が何をしてこようと、守るよ、きみを。永遠に」

「ありがとうございます、翔和。大好きです」





 ――こうして、互いの想いを確かめ合う二人に、また日常が帰って来た。

 室内で堂々と語る二人の姿を涼佳がしっかりと見ていたこともあり、縁談の話は眞銅議員側の判断待ちという体で、実質なかったことになっている。

 その一方、雅月を気に入ったらしい涼佳は、この隙に二人の関係を推そうと試みたようだが、杏子という気がかりがあるせいか、翔和は結婚という形に拘りたくないと言って譲らなかった。


 結果、涼佳との喧嘩を経て、ようやくこれまで通りの生活を赦された二人は今、別邸に植えられた精霊木の前に来ている。

 青々と葉が生い茂る桜は、ようやっと明けた梅雨後の太陽に照らされ、キラキラと輝いていた。


「精霊木への願掛け。実は私、初めてで、緊張しますね。……精霊たちは、願いを叶えてくださるでしょうか」

「うん、きっとね。僕らにはこうすることしかできないけれど、御代家の先祖は、幾度も精霊の加護に窮地を救われてきたという。だから祈りを込めて、願おう」


 この縁が末永く続きますように。


 すると、深く目を閉じて願う二人の周りを、今はもうないはずの桜の花びらがふわりと舞った。

 きっと桜の精霊木は御代家を、そして二人を見守ってくれているのだろう。


 季節は夏。

 二人の甘味巡りは今日も、続く。



 第一章 完

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