第4話 現実との対峙

翌朝、麻衣子は早起きして、パソコンの前に座った。昨夜の不安と決意が、彼女を突き動かしていた。


画面に浮かぶ検索結果を、麻衣子は真剣な眼差しで追っていった。「ベンチャー企業」「リスク」「成功率」といったキーワードが、次々と新しい情報をもたらす。


ある記事が彼女の目に留まった。


「ベンチャー企業の90%が5年以内に消滅」


麻衣子は息を呑んだ。数字の冷酷さが、再び彼女を襲う。


しかし、別の記事は希望を語っていた。


「急成長するIT企業、新たな雇用を創出」


相反する情報の海の中で、麻衣子は必死に真実を掴もうとしていた。


洋介が考えている企業について、さらに詳しく調べてみる。確かに急成長しているようだが、業界自体の不安定さも見えてきた。新技術の台頭、市場の急激な変化、競合他社の躍進。それらが複雑に絡み合い、予測不可能な未来を作り出していた。


「でも、洋介の現在の会社だって、絶対安全というわけじゃない」


麻衣子は小さくつぶやいた。確かに、今の職場は安定しているように見える。しかし、この変化の激しい時代に、何が起こるかわからない。


彼女は家計簿を再び開いた。昨夜のシミュレーションを、もう一度見直す。


安定を求める自分の気持ちと、挑戦したい洋介の気持ち。その間で、最善の道を見つけなければならない。


麻衣子は深呼吸をした。


「私にも、できることがあるはず」


麻衣子は自分の過去を振り返り、スキルセットを見直し始めた。


彼女の人生は、どちらかといえば平凡なものだった。田舎の小さな町で生まれ育ち、実家は小さな雑貨店を営んでいた。子供の頃から、放課後や休日には店を手伝うのが日課だった。


「お客様の気持ちを考えるのよ」


母親のその言葉を、麻衣子は今でも覚えている。商品の並べ方、接客の仕方、在庫管理まで、商店経営の基礎を、母から学んでいた。


大学は、特に目標もなく、なんとなく経済学部に進学した。授業にはきちんと出席し、成績も悪くはなかったが、特筆すべき成果もなかった。サークル活動や友人との付き合いに精を出す、ごく普通の大学生活を送った。


就職活動の時期、麻衣子は運良く東京の中堅の広告代理店に内定をもらった。しかし、それは華々しいキャリアトラックではなく、一般事務職だった。それでも、地方出身の彼女にとっては、東京で働けることだけでも大きな前進に思えた。


社会人になってからは、真面目に仕事をこなしてきた。書類作成、データ入力、会議の準備など、裏方の仕事を黙々とこなす日々。特別なスキルを身につけることはなかったが、細やかな気配りと確実な仕事ぶりで、周囲からの信頼は厚かった。


結婚を機に退職し、それ以来は専業主婦として過ごしてきた。


今、自分のキャリアを見直してみると、華々しいものは何一つない。マーケティングの専門知識もない。しかし...


「でも、母から学んだことがある」


麻衣子は、実家の雑貨店での経験を思い出した。商品管理、接客、簡単な経理。それらの経験は、きっと何かの役に立つはずだ。


また、会社員時代に身につけた、細やかな気配りと正確な事務処理能力。それらも、彼女の強みになるかもしれない。


麻衣子はパソコンに向かい、求人サイトを開いた。事務職、販売職、そして在宅ワークの案件。様々な可能性が、彼女の目の前に広がっていく。


「私にもできることがある。たとえ小さな一歩でも」


そう自分に言い聞かせながら、麻衣子は求人情報を丁寧に見ていった。


ふと、洋介が務めている広告代理店の求人情報が飛び込んできた。それは、かつて彼女が勤めていた会社でもあった。懐かしさと共に、洋介との出会いを思い出した。


あれは入社3年目の春のことだった。新入社員の歓迎会で、麻衣子は受付を担当していた。そこに颯爽と現れたのが、営業部の新人だった洋介だった。


「すみません、遅れてしまって」


洋介の申し訳なさそうな表情に、麻衣子は思わず微笑んでいた。


「大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」


その日以来、二人は少しずつ親しくなっていった。社員食堂で偶然隣になったり、エレベーターで出くわしたり。些細な会話を重ねるうちに、お互いの存在が特別なものになっていった。


洋介の真面目さと優しさ、そして時折見せる茶目っ気。麻衣子は、そんな彼の全てに惹かれていった。


結婚の決め手となったのは、実家へ挨拶に行った時の出来事だった。二人で訪れた実家の雑貨店で、洋介は麻衣子の両親と親しく話し、店の手伝いまでしてくれた。


「君の両親のように、いつか二人で素敵な商売をしてみたいな」


洋介のその言葉に、麻衣子は心を打たれた。彼との未来を、確信したのだった。


しかし今、その未来が揺らいでいる。


麻衣子は深いため息をついた。求人サイトの画面に映る自分の姿が、少し寂しげに見えた。


「あの頃の夢は、どこへ行ってしまったのかしら」


そう呟きながらも、麻衣子は求人情報を見続けた。今は、現実と向き合うときなのだ。


時計を見ると、もう7時過ぎだった。洋介が起きてくる時間だ。


麻衣子は立ち上がり、キッチンに向かった。朝食を作りながら、これから夫とどう話し合うべきか、頭の中で整理していく。


トースターから香ばしい匂いが漂い始めた。いつもと変わらない朝の風景。しかし、麻衣子の心の中では、大きな変化が起ころうとしていた。


「おはよう、麻衣子」


洋介の声に、彼女は振り返った。


「おはよう、洋介。朝食ができたわ」


二人はテーブルに向かい合って座った。静かな朝の光が、キッチンを柔らかく照らしている。


麻衣子は深呼吸をして、話し始めた。


「洋介、あなたの転職のこと、私なりに調べてみたの」


洋介は驚いた表情を見せたが、黙って聞いている。


「確かにチャンスはあるわ。でも、リスクも大きいの」


麻衣子は、調べた情報を簡潔に伝えた。ベンチャー企業の不安定さ、業界の急激な変化、そして彼らの家計への影響。


洋介は真剣な表情で聞いていた。


「そうか...君もよく調べてくれたんだね」


「でもね、洋介」麻衣子は続けた。「私は、あなたの挑戦を支えたいの。だから、私も働くことを考えているわ」


洋介の目が大きく開いた。


「麻衣子...」


「私たち二人で、この変化を乗り越えていきましょう」


麻衣子の声には、不安と決意が混ざっていた。


洋介は沈黙した。その表情に、麻衣子は複雑な感情を読み取った。喜び、驚き、そして...戸惑い?


朝日が二人を優しく包み込む。しかし、その暖かな光とは裏腹に、麻衣子の心の中では不安が渦巻いていた。


洋介の反応、ベンチャー企業の不安定さ、自分が働き始めることの現実味。それらが複雑に絡み合い、新たな疑問を生み出していく。


本当にこの決断で良いのだろうか。

AIの判断は正しいのか。

自分たち夫婦の未来は、どうなっていくのだろうか。


朝食を終え、洋介が仕事に出かけた後、麻衣子は窓際に立ち、外の景色を眺めた。いつもと変わらない街並み。しかし、彼女の目に映る世界は、もう昨日とは違っていた。


未知の未来への一歩を踏み出そうとしている今、麻衣子の心の中では、ますます不安が募っていった。

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夫婦の未来を決めるのは、AIか、それとも人間か。 藤澤勇樹 @yuki_fujisawa

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