第3話 揺れ動く心

翌朝、麻衣子は早起きして朝食の準備をしていた。キッチンに立ちながら、昨夜の洋介との会話を思い返していた。トースターから焼きたてのパンの香りが漂い、コーヒーメーカーがゆっくりとドリップを始める。この日常的な光景が、今までにないほど愛おしく感じられた。


洋介がリビングに現れた時、麻衣子は既に朝食のテーブルを整えていた。


「おはよう、麻衣子。朝から申し訳ない」


洋介の声には、昨夜の興奮が少し落ち着いているように聞こえた。麻衣子は微笑みながら夫を見つめた。


「おはよう。ゆっくり朝食を取りましょう。それで、ゆっくり話し合えたらいいわ」


二人は朝食を取りながら、昨夜の話の続きを始めた。麻衣子は母親のアドバイスを思い出し、まずは洋介の話をよく聞くことに集中した。


「昨日は突然で驚かせてごめん。でも、このAIのアドバイス、本当に魅力的なんだ」洋介は熱心に説明を続けた。「今の仕事では行き詰まりを感じていて。でも、このベンチャー企業なら、新しい挑戦ができそうなんだ」


麻衣子は頷きながら聞いていたが、心の中では不安が渦巻いていた。彼女は深呼吸をし、自分の気持ちを正直に伝えることにした。


「洋介、あなたの気持ちはよくわかったわ。でも、正直に言うと、私にはいくつか心配なことがあるの」


「どんなこと?」麻衣子の言葉に、洋介は真剣な表情で聞き入った。


「まず、そのベンチャー企業の安定性よ。急成長中っていうけど、それだけリスクも高いんじゃないかしら。それに、私たちの家計への影響も心配」麻衣子は慎重に言葉を選びながら話した。


洋介は少し考え込んだ後、答えた。「確かにリスクはあるけど、AIの分析では僕のスキルセットがぴったりだって。給与も上がる可能性が高いんだ」


麻衣子は黙って聞いていたが、心の中では疑問が膨らんでいった。AIの判断はどこまで信頼できるのか。人生の重大な決断をAIに任せていいのだろうか。


「わかったわ。でも、もう少し時間をかけて調べてみない? 私も一緒に情報を集めてみるわ」麻衣子は提案した。


洋介は安堵したように微笑んだ。「そうだね。君の意見も大切だ。一緒に考えていこう」


朝食後、麻衣子は自分でもインターネットでベンチャー企業について調べ始めた。確かに成長率は高いが、同時に倒産リスクも無視できないことがわかった。彼女は家計簿を開き、もし洋介の収入が不安定になった場合のシミュレーションを始めた。


その日の午後、麻衣子は母親に電話をかけた。


「お母さん、ちょっと相談があるの」


電話口から母親の穏やかな声が響いた。「どうしたの、麻衣子?」


麻衣子は洋介の転職の話を詳しく説明した。母親は黙って聞いていたが、最後にこう言った。


「麻衣子、夫を笑顔で送り出し、転職が成功するように支えることは大切よ。でも、同時にあなた自身のことも考えなくちゃ。もしものときのために、あなたも働きに出ることを検討してみたらどうかしら」


母親は少し間を置いて、懐かしそうに続けた。


「そういえば、あなたのお父さんが40歳のときのことを覚えているかしら。会社の倒産で突然仕事を失って、家族みんなで大変な思いをしたわね」


麻衣子は幼い頃の記憶を呼び起こした。父が毎日憂鬱そうな顔で求人広告を眺めていた姿が、ぼんやりと蘇ってきた。


「でもね、そのとき私が パートの仕事を始めたの。最初は経験もなくて大変だったけど、少しずつ慣れていって。そのおかげで、家計を支えることができたの」


母親の声に誇らしさが混じっていた。


「そうして半年くらい経ったころ、お父さんが新しい仕事を見つけたの。私たち二人で協力して乗り越えたからこそ、今の幸せな生活があるのよ」


麻衣子は驚いた。両親のそんな苦労を、彼女は知らなかった。


「お母さん、そんな大変な時期があったなんて…」


「そうよ。だから言えるの。夫婦は支え合うもの。でも、自分の人生も大切にしなくちゃいけないって」


母親の言葉に、麻衣子は深く考え込んだ。自分が働くことなど、今まで真剣に考えたことがなかった。しかし、それは確かに一つの選択肢かもしれない。両親の経験は、新たな視点を与えてくれた。


「ありがとう、お母さん。よく考えてみるわ」


電話を切った後、麻衣子はリビングのソファに座り、両親の話を反芻した。両親が困難を乗り越えてきたように、自分たち夫婦も乗り越えていけるはずだ。しかし、そのためには自分自身も変わる必要があるかもしれない。


麻衣子は再び家計簿を開き、先ほど行ったシミュレーションの結果を見つめた。もし洋介の収入が30%減少した場合、彼らの生活水準を維持するのは難しくなることが明確だった。住宅ローンの支払い、日々の生活費、そして些細な贅沢さえも見直さなければならない。


さらに、最悪のシナリオとして洋介が失業した場合を想定すると、貯金は半年ほどで底をつきそうだった。麻衣子は息を呑んだ。これまで気にも留めていなかった数字が、今は重大な意味を持って彼女の目の前に広がっていた。


「私が働き始めれば...」


麻衣子は小さくつぶやいた。彼女のスキルセットで得られそうな収入を大まかに計算してみると、確かに家計の助けにはなりそうだった。しかし、それでも洋介の現在の収入には遠く及ばない。


麻衣子は深いため息をついた。数字は冷酷なまでに現実を映し出していた。しかし同時に、この現実に向き合うことで、彼女の中に新たな決意が芽生え始めていた。


その夜、麻衣子はベッドに横たわりながら、様々な思いが胸の中でぶつかり合うのを感じていた。


洋介を支えたい気持ち。

安定を求める気持ち。

そして自分自身の可能性を探りたい気持ち。


家計のシミュレーション結果が、これらの感情をさらに複雑に絡み合わせていた。


窓の外では、いつもの街の喧騒が聞こえていた。麻衣子は、この変わらない日常が、大きく変わろうとしていることを感じていた。


AIが示す未来と、人間の知恵が指し示す現実の間で、彼女の心は揺れ続けていた。


しかし、一つだけ確かなことがあった。それは、どんな決断をするにしても、洋介と二人で乗り越えていくという決意だった。そして、両親の経験と冷徹な数字が、その決意をさらに強いものにしていた。


麻衣子は目を閉じ、明日洋介とどのように話し合うべきか、頭の中で整理し始めた。


彼女の人生は、確実に新たな局面を迎えようとしていた。


静かな夜の中で、麻衣子の心臓は早鐘を打っていた。未来への不安と、同時に新たな可能性への期待が入り混じり、複雑な感情が彼女を包み込んでいた。

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