第2話 AIがもたらした転機

翌週の金曜日、いつもより遅い時間に帰宅した洋介の表情が、どこかいつもと違っていた。麻衣子は夫の様子を気にかけながら、温めておいた夕食を用意した。


「お帰りなさい。今日は遅かったわね」


麻衣子が声をかけると、洋介は少し落ち着かない様子で頷いた。


「ああ、うん。ちょっと、話があるんだ」


その言葉に、麻衣子の心臓が一瞬早鐘を打った。夫婦10年の間に培った直感が、何か重大なことが起きようとしていると告げていた。


「どんな話?」


麻衣子は落ち着いた声を装いながら尋ねた。そのとき、彼女の脳裏に母親との会話が蘇った。


結婚して3年目のころ、麻衣子は些細なことで洋介と喧嘩をして実家に戻ったことがあった。母親は麻衣子の話を黙って聞いた後、こう言ったのだ。


「麻衣子、夫婦は互いを支え合い、困難な時期を乗り越えるものよ。あなたのお父さんと私も、何度も危機があったわ。でも、そのたびに二人で話し合って解決してきた。大切なのは、まず相手の話をよく聞くこと。そして、自分の気持ちも正直に伝えること。それと、すぐに結論を出そうとしないこと。時間をかけて二人で考えることが大切なの」


母親のその言葉に導かれ、麻衣子は家に戻り、洋介とじっくり話し合った。それ以来、二人の関係はさらに深まっていった。


この記憶を胸に、麻衣子は洋介の話に耳を傾けた。


洋介はリビングのソファに腰を下ろし、深呼吸をした。


「実は、最近仕事のストレスが酷くてね。それで、AIのキャリアアドバイザーに相談してみたんだ」


麻衣子は驚きを隠せなかった。夫が悩みを抱えていたことも、AIに相談していたことも知らなかった。


「AIのアドバイザー?」


「ああ、最近流行っているんだ。個人の経歴やスキル、希望を入力すると、最適なキャリアプランを提案してくれるんだよ」


洋介の目が輝いていた。麻衣子は夫の話に耳を傾けながら、心の中で不安が膨らむのを感じていた。


「それで、そのAIが何て言ったの?」


「今の仕事を辞めて、新しいキャリアに挑戦するべきだって」


洋介の言葉に、麻衣子は息を呑んだ。これまでの安定した生活が、一瞬にして揺らぐような感覚に襲われた。しかし、母親の言葉を思い出し、まずは夫の気持ちをしっかりと受け止めようと努めた。


「具体的には?」


「ベンチャー企業への転職だよ。AIによると、僕のスキルセットと経験は、急成長中のIT企業で活かせるらしいんだ」


洋介は興奮気味に説明を続けた。給与も上がる可能性があること、新しい技術に触れられること、キャリアの幅が広がることなど、AIが提示したメリットを次々と挙げていく。


麻衣子は黙って夫の話を聞いていた。母親のアドバイスを思い出し、相手の話をよく聞くことに集中した。


「洋介、あなたはその提案をどう思っているの?」


洋介は少し考え込んでから答えた。


「正直、怖いよ。でも、今の仕事にずっと不満があったんだ。毎日同じことの繰り返しで、自分の成長を感じられない。AIの提案は、新しい可能性を開いてくれるような気がするんだ」


麻衣子は夫の目に、久しぶりに情熱を見た気がした。しかし同時に、大きな不安も感じていた。安定していた生活が、どう変わってしまうのか。AIの判断は本当に正しいのか。


母親の言葉を思い出し、麻衣子は自分の気持ちも正直に伝えることにした。


「わかったわ。あなたの気持ちはよくわかりました。でも、私も正直に言うと、不安もあるの。もう少し詳しく調べてみない? 私たちの生活にも大きく関わることだから。母が言っていたわ。夫婦で時間をかけて考えることが大切だって」


麻衣子は冷静さを保とうと努めながら提案した。


「そうだね。君の意見も大切だ。一緒に考えてくれてありがとう。確かに、もう少し時間をかけて検討した方がいいかもしれない」


洋介は安堵したように微笑んだ。


その夜、麻衣子は眠れずにいた。窓の外では、通りの向こうにある新しい学習塾の青い看板が、寝室を薄暗く照らしていた。


彼女は、これから自分たち夫婦の人生がどう変わっていくのか、想像もつかなかった。ただ、母親の言葉を胸に、夫を支え、二人で時間をかけて決断していく決意を新たにしていた。

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