第6話 ショウが見つけたもの

母に急かされ他の村人と一緒に集会所を出たシャルは広場の真ん中で佇むショウを見つけた。ショウは珍しく少し落ち込んだような顔をして、すぐそばの石碑をじっと眺めていた。それを沈み始めた夕日が物寂しげに照らしている。

「お、おぉシャルか。で、隊長さんは何か言ってたか?」

こちらに気づいたショウが顔を上げてこちらに話しかけてくる。

「荷物は全部盗賊に盗られちゃったってさ。その代わり皇帝に御礼の品を送ってもらうよう取り計らってくれるみたいだけど」

「…そうか。残念だったな、シャルも皆も今日のためにすげぇ頑張ったのにこんなことになるなんてよ…」

シャルの声から更に抑揚が抜ける。

「起きちゃったことはもうどうしようもないよ。確かに残念だけどこれで交易が止まるわけじゃないし、また次があるさ。…それよりショウのほうは大丈夫?凄く顔色が悪いけど…」

シャルは不安そうにショウに尋ねた。好奇心旺盛なはずのショウが隊長の話を聞くために集会所に来なかったのも気になる。

「あ、あぁ。実は俺血とか亡骸とか、そういう縁起悪いもの見るの苦手でよ…。今日の出来事でちょっと調子が悪くなってんだ…」

「…」

いつものショウとはまるで想像がつかない態度と今までずっと一緒に居たにもかかわらず知らなかった彼の弱点にシャルは驚いた。言われてみれば今までひどい怪我をした行商や旅人の治療に立ち会うショウの姿を見たことがないが、彼の性格のことだ、「そんなしみったれた事やってらんねぇ」とでも考え、とんずらしているものとばかりシャルは考えていたのだ。そんな態度のままショウはしょげた顔で続けた。

「な、なぁ。改めて言うが今朝の事は本当にすまなかった。村長ってのは今日みたいなしんどい時でも皆の前に立って村の事を一番に考えなきゃいけないんだな。俺みたいなちゃらんぽらんにはとても務まらねえ仕事だ。そんな仕事にこれから就くお前を俺は馬鹿にしちまった。本当にすまない、この通りだ」

そういって頭を深く下げるショウを見て、シャルは思わず吹き出してしまった。

「な、なんだよ、笑うんじゃねぇぜ。そ、それともこれでもまだ謝罪の気持ちが伝わらねぇってんなら…」

「い、いや大丈夫だよ。それに今日ショウは仕事を凄く頑張ってくれたじゃないか。謝罪の気持ちはそれで充分さ。ただショウにそんな弱点があるなんて知らなかったし、何よりショウがそんな態度を見せるのなんて父さん達に叱られている時しかみたことないから何だか可笑しくって」

シャルはそういうと今度は砕けた態度を改めショウに対しても謝罪の言葉を述べた。親しき中にも礼儀ありだ。

「それに俺だって今朝の態度は誤らなくちゃいけない。お前がわざわざ俺を誘ってくれようとしたのも、お前が俺の緊張をほぐそうと気を使ってくれたからだろ?俺はその意図に気づけなかった。俺のほうこそ申し訳ない」

そういって頭を下げると、ショウは少し罰が悪そうにこう言った。

「おいおいシャルが謝る必要はねぇよ!それに別に俺はお前の緊張をほぐしてやろうとかそんなこと考えてなくてただ久しぶりにお前と馬鹿やりたかっただけっていうか…。と、とにかく今朝の件は俺が全部悪いんだ!そういうことにしといてくれ!なっ!?」

「…分かったよ。そういうことにしておく」

そういって互いに少しはにかんだように笑みを交わした二人は既に、青年になってもさして変わらない、いつもの悪ガキ二人組そのものに戻っていた。年を重ね立場こそ変わってしまったものの、物心ついた時から一緒に馬鹿をやってきた二人の絆はそうそう壊れるものではない。

「それはそうとショウ、何で石碑なんか眺めていたんだ?俺達にとっては特に真新しいものなんかじゃないだろ?」

ショウは浮かべていた笑みを消す。

「いや、別に大した意味はねぇよ。ただこの石碑ってよ、昔起きた噴火の時に死んじまった村人の墓だろ?今日村に逃げて来た連中の中には村に着いてからこと切れたやつもいた。そういう人間の魂ってやつもここで眠るのかなって思ってよ。辛気臭い話だけどな」

ショウの言う通り今から六十年ほど前、ハイラの山で大規模な火山活動が起きた。山肌がいくつも割れ、そこから吹き出してきた灼熱の火山弾や溶岩、猛毒の黒煙が当時まだ開拓途中であったケハノ村を襲い、多くの命が奪われたという。この石碑はその魂達を慰めるために建てられたものだ。

「…そうかもしれないね。でもさ、改めて見るとこの石碑、ちょっと不思議だよね」

「んぁ?どういうことだ?」

ショウの問いに対し、今度はシャルが石碑をじっと見つめる。

「ショウの言う通りこの石碑は噴火に巻き込まれて死んだ人達のお墓だろ。なのに何で『罪を贖う』なんて言葉が彫られているんだろう。普通天災に巻き込まれて死んだ人を奉るなら、そんなこと書く訳ないと思わないか?」

「けど、大人達もなんで石碑にこんなことが書かれているか分かんないんだろ?俺も昔同じようなことを親父に聞いたことあるが、『俺も理由は知らねぇ。俺がガキの頃からあの石碑はあったが大人達は頑なに彫られた言葉の意味を教えてくれなかったんだ。それで、その大人達も殆ど老いて死んじまったから理由は結局分からずじまいだ』って。まぁムイのじいさん辺りなら知っているかも知れねぇが、親父達が知らないことをじいさんが俺達だけに話す何てこたないだろうしな…」

ショウはため息を一つつくと石碑を前にドカッと胡坐をかいた。それに倣ってシャルも彼の隣に腰を下ろす。

「それによ。この石碑の下に書いてある村の言い伝えもあんまり気分がいいもんじゃねぇよな」

「女神は例え罪人であってもその命に意味を与える…」

シャルがゆっくりとその内容を読み上げる。

「言われてみれば確かにそうだ。『どんな命もこの世に生まれた以上何かしら成すべきものを持っている』って意味だけど、言葉通り受け取るならまるでここに住んでいる俺達が…」


「なにかの罪人みたいだ」

「何かの罪人みてぇじゃねぇか」


そこで言葉が重なった二人は思わず目線を合わせると、僅かの沈黙の後に再び笑みを浮かべた。そのやり取りがきっかけとなり結局石碑の話はそれきりになり、今度は襲撃を受けた商隊の話になった。

「しかし本当に今日の出来事には参ったぜ…。まさか皇帝様の大商隊が盗賊なんかにぼこぼこにされるなんてよ…。そのことについて商隊の奴らはなんか言ってなかったのか?」

「そうそう、実はそのことについて凄い面白い話が聞けたんだ」

そういうとシャルは隊長の話と昼間ムイじいさんから聞いた昔話についてショウに伝えた。特に導きの軽業師と昔話についてはイオもかなり興味を持った。

「ほーん。軽業師のことは俺もただの噂話か、死にかけた行商の幻覚かなんかだと思っていたが、全員そいつを見ているってことはただ単に隊長がおかしくなったってわけでもないよな。それに不意打ちとはいえ都の兵を倒せる盗賊達を相手に素手で勝っちまうって確かに女神様の使いだって言われてもうなずけるが…」

そして少し考えた後、ショウは何か思いついたかのように頭を上げると興奮気味にキオに言い寄った。

「なぁ、また今朝の話になっちまうが俺は一昨日山の中ですげぇものを見つけたって言ったよな?俺が見つけたものはひょっとしたら軽業師に関わるものなんじゃねぇかって思うんだ。具体的に何を見つけたか話すとしらけちまうからここでは言わねぇが、正直伝説とかおとぎ話に出てくるような、そんなすげぇもんなんだ」

まくし立てるように話すショウの次の言葉を、シャルは見事に言い当てた。

「それで、今からそれを二人で見に行こうって話?」

こういう話になった時、基本的にショウは必ずシャルを誘う。かつては無理やり連れて行かれることが殆ど(と言っても村の仕事に携わり始めるまではシャルもほぼ自分の意志で付き合っていたが)であったので、まだ理性的になったともいえる。

「本当ならそうしたいぜ。けどお前はまだ仕事があるだろ?だからお前は俺がちょーっと行って帰って来るのに許可してくれればいいんだ。もしかしたらそこで軽業師に会えるかもしれねぇ。そしたらその土産話は一番にお前に聞かせてやるからさ、頼むよ」

「けど、朝言っただろう?そんな危ないところ行かせられないって」

そう言うと悔しそうにショウは唇を噛んだ。流石に彼の好奇心も親友に対する罪悪感には敵わないらしい。

「あ、あぁその通りだぜ…。だが…」

「だから、俺も付いていく」

「…は?」

シャルからの思わぬ発言にショウは目を見開いた。

「付いていくってお前…」

「さっき集会所を出る時に父さんに今日はもうゆっくり休めと言われたからもう仕事は無いよ。それにお前一人じゃ危なっかしいし、何より俺もそいつが気になるんだ。朝の発言は少し撤回する。今から、二人で、ばれないように行って帰ってくるなら大丈夫だ」

そう聞いたショウの顔は、丁度今朝窓の下で見せた、何かを企んでいる時の自信満々の顔になった。

「決まりだな。家から鉤付き縄を取ってこい。そしたら俺の家の前に集合だ」


自分の家から縄を取ってきた後、ショウの家の前に着いたシャルだったが、ショウはまだ準備が終わっていないようでシャルは彼の家の周囲を眺めていた。シャルは村長の息子のため一応は村で最も大きな家に住んでいるが、そんなことが霞む程ショウの家は村で一番目を引く。なぜなら彼の家の周りには馬や犬といった動物や人物を象った大小様々な石彫刻があるからだ。ショウはその性格からは考えられない程手先が器用であり、幼い頃シャルと遊べない時は台所からくすねてきた小さい包丁を使い、使わなくなった古い湯もみ板に絵を彫っていた。しかしショウが十二歳の頃、村を訪れた墓石の職人から予備の石材用の彫刻刀を貰ったことで石彫刻作りに没頭するようになり、家の周りの手ごろな岩に目を付けては彫刻を作るようになったのだ。最初は鬱陶しがっていたケムだったが、村の子供達がこの彫刻で嬉々として遊ぶため無下に扱うことが出来なくなり、次第にショウの家の周りは石彫刻だらけになっていったのだ。

(ショウが村から出ていったらこの像たちもどんどん風化してゆくんだろうな)

シャルは彫刻達を眺めながらそんなことを考えていた。ショウはムイじいさんやセナが話していたように、来年にこの村を出て東ノ国(ルウ・ゼン)の都に向かう。都に行って何をするかまでは特に決まっていないのが彼らしいが、都に行けば行商や漁師、兵士や交易船団の船員といった様々な職に就ける。更に芸術に携わる者は代替が効かない職業であることもあり、東ノ国でも西ノ国でも重宝される。彼の石彫り技術はまだまだ粗削りもいいところだが、腕の良い職人の下で修業すればすぐに頭角を表す可能性だってある。少なくともこの小さな村で死ぬまで湯場で働くよりもショウにとっては幸せだろう。シャルも今までそう自分に言い聞かせてきたが、いざ来年親友が村からいなくなると考えると流石に寂しさがつのるようになってきていた。何より昼にムイじいさんに言われた、「シャルはいずれ必ずお前の力になってくれる」という意味深長な言葉も相まってシャルはますますショウと離れたくなくなっていた。

そうこうしていると、玄関からショウが出てきた。肩に縄を斜めがけにして身に着け、腰には金属の小箱と松明をぶら下げている

「よう、準備はばっちりだな。親父さん達にはばれなかったか?」

「あぁ、母さんは看病につきっきりだし父さんもまだ広場のほうで皆と話しているみたいだから家にはいなかったよ」

「俺のとこもそうだ。おかげで窓からこっそり外に出る手間が省けたぜ。けどいつ皆が戻って来るかもわかんねぇ。だからちゃちゃっと見に行こうぜ。ついてきな」

ショウはそういうとシャルを連れて村の道を登り、行商路に出た。海ノ大陸にある東ノ国からケハノ村に至る道は多少の急こう配が存在するくらいで例え登山の心得がないものでもなんとかなるが、村を出て西ノ国(ルウ・バロ)に向かうための行商路に出た途端、ハイラ山脈はその真の姿を見せる。東西に延びる尾根の斜面を切り開いて作られた行商路は、道自体はそれなりに広いものの、左手に切り立った断崖と、右手には同じように切り立った、噴気孔が散在する急斜面が迫っており、昼間は谷底から吹き上げてくる風に、夜には頂上から吹き降ろす風に晒される過酷な道だ。ケハノ村まではそれこそ村の反対側に湯場を作り、そこを行き来できるほどには緩やかな斜面が続くが、村を一歩出ればとても人の力では登り切れない程の断崖絶壁と急こう配に挟まれることになる。そんな道を二人の青年は歩いていた。幸いなことに今日は風がかなり穏やかだが、日が落ちてきて少しずつ薄暗くなってきている。不安を覚えたシャルは前を行くショウに尋ねた。

「ねぇ、あとどれくらい進むの?」

「いや、もう着いたぜ。といってもここからがちょいときついがな。ほら、ここの上の方をよく見てみな。横穴が開いているのがわかんだろ?」

ショウは右手にそびえる斜面を指さした。指さす方向に目を向けると、確かにシャルの身長およそ六~七人分程の高さに人一人が入れる程の大きさの穴が開いている。

「本当だ。よく気が付いたな」

「あぁ。丁度十日くらい前に村に着く直前に落馬して腕を折った西ノ国の行商がいただろ?そいつを助けるために皆とこの行商路まで迎えに行った時たまたま見つけたのさ。この辺は落石があんま無ぇから行商はすっこ転ばないように前と足元ばっか見るだろうし、そのおかげで今まで見つからなかったんだろうな。それじゃあ縄を下ろしな。今からあそこまで登るぜ」

ショウは肩にかけた縄を外し、縄を使って鉤を頭上で回し投げ、横穴近くの岩にこれを器用にかけた。縄をグッと引き、鉤が岩にしっかりかかっていることを確認するとショウはシャルに

「ほら、お前も投げろ」

と告げた。シャルも同じように鉤を投げ、ショウがかけた岩の少し下に食い込ませる。

「俺も大丈夫だ。登れるよ」

そして互いに縄の状態を確認した二人はほぼ垂直の斜面に足をかけ、横穴に向けて登り始めた。日はもうすでに山の向こう側に沈みかけており、薄闇が周囲を包み始めている。そんな中彼らの命を守るものは自分達でかけた一本の鉤縄である。何かの拍子でこれを離せば全身を岩に強く打ち付けあっという間にあの世行きだろう。幼い頃から山と共に生きてきた二人だからこそ出来る芸当だ。更にシャルは一歩歩みを進めるごとに硫黄の匂いが強くなってくることに気づいた。朝ショウが言っていたように今二人が登っている斜面はほとんど噴気孔の活動が無い。にもかかわらず穴に近づけば近づく程その匂いは濃くなってゆく。どうやら匂いは穴から漂ってきているようだ。一体あの穴の奥には何が潜むのか。そんなことを思っていると先に登っていたショウが穴にたどり着き、追随するシャルに手を伸ばしてきた。その手を取り、シャルも穴によじ登る。穴はまるで誰かの手によって掘られたかのように二人の身長よりも少し高いくらいの広さでずっと先に続いているようだ。

「この先にショウの言っていた凄いものがあるのか?暗くてなんにも分からないけど」

穴を覗き込みながらシャルは目を細める。

「そうだ。だから次はこいつらの出番だ」

ショウは腰に着けていた松明を外し、同じく身に着けていた金属の小箱を開けた。中には灰とその中で小さく赤く燃える炭が入っており、どうやら松明に火を灯すための火種を入れていたようだ。ショウが火種から松明に火をつけると一気に周囲が明るくなる。

「それじゃ行くぜ。なぁに、そんなに長い穴じゃない。せいぜい歩いて十五分てとこだ。…なんだ怖いのか?」

松明に照らされたシャルの、少し不安そうな顔を見てショウは少し煽り気味に話しかけた。

「べ、別に怖がっているわけじゃないよ。ただこんな山のど真ん中に開いている穴なんていつ途中で毒が沸いて出るか分からないし…」

「俺も最初はそう思ったんだがな。不思議なことに多少硫黄の匂いがきつくなるところがあるくらいで危ない場所はうまいこと避けてあるみたいなんだ。中に入りゃその意味が分かると思うぜ」

二人が入った穴は基本的に平坦であったが、そのかわりかなり曲がりくねっており、曲がり角の多くは真っすぐな道よりも少し熱くそして硫黄の匂いが強くなっていた。ショウの言う通り、どうやら噴気孔を上手く避けるような形でこの穴は続いているようだ。松明を片手に進むショウの背をシャルは静かに追う。そして丁度五分ほど穴を進んだ時のことだった。


コツン…コツン…コツン…


穴の向こうで足元のような音が確かに響いた。思わずシャルは小さく悲鳴を上げ、ショウもつられるように足を止める。

「ね、ねぇ。今確かに聞こえたよね…?」

「あ、あぁ俺も聞こえた。けど行けば分かるが向こう側からは人は絶対に入ってこられねぇはずだ。もしかしてここは軽業師の通り道とかだったりするのか…」

「や、やめろよ気味悪い…」

「何だよ別に軽業師は悪い奴じゃないだろ!あ、でもじいさんの昔話の中なら不死身の反逆者とかなんとかだったな…」

しかし、それ以降足音のような音は聞こえなくなった。しばらくその場で足を止めていた二人だったが息を整えると再び歩みを進めた。


そしてショウの言う通り十五分程歩いた時、穴の向こう側にかすかな光が見えた。出口だ。先程の正体不明の足音のせいか、二人は光が見えた途端足早に出口へと向かった。そして出口に近づいたシャルは驚きの余り言葉を失った。どうやら穴はシャル達が入った斜面とは反対側の斜面に繋がっていたようで、そこからは夕日に照らされた美しいハイラ山脈の山々が広がっていた。しかし普段から山に住んでいるシャルにとってこんな光景は日常茶飯事だ。ではシャルは何に驚いたのか、それは彼らの眼下に広がる光景であった。彼らがたどり着いた出口は、入り口と同じようにほぼ垂直の斜面にぽっかりと出来た穴であり、その下には入り口側の行商路と同じように断崖絶壁ではなく、まるで人の意志によって作られたかのような、きれいな円状の火口が存在した。現在キオ達がいる山脈とケハノ村が存在する山脈の間には両方の尾根から伸びるようにもう一つの山脈が存在するため低い位置にある村からでは見つけることが出来なかったのだろう。そしてその火口には煮えたぎる赤い溶岩ではなく、巨大な熱水泉が存在した。だがその泉は…


「嘘だろ…。何であの泉、虹色に光っているんだ…?」


シャルは思わず声に出した。彼が言うように二人の眼下に存在する泉はその熱水が中心から七色に染まり、吐き出される大量の白い蒸気と相まってこの世のものとは思えない光景が広がっていた。物心ついた時からずっとケハノ村でハイラ山脈が生み出す湯を見てきたシャルだったが、こんな美しい泉は今まで見たことも聞いたことも無かった。

「信じらんねえよな?俺も初めて見た時はびっくらこいてここから落ちそうになったぜ。けど、すげぇ奇麗だろ?」

ショウが呟くように言う。

「う、うんとても奇麗だ。でも何であんな色が?自然にあんな泉が生まれるなんてあり得ない…って何しているんだショウ!?危ないぞ!」

シャルが眼下の光景に圧倒されているとショウはその隣で穴から大きく身を乗り出して周囲を見渡していた。

「さっき言っただろ?ここはじいさん達が言っていた軽業師に関係するんじゃねぇかって。もしかしたらここはそいつの家で丁度そいつがどこかにいるんじゃねぇかってな」

確かにこの泉はそれこそ神のような存在でも無い限り生み出せるものではないだろう。仮に酔狂で命知らずな芸術家や画家が密かにこの巨大な泉を見つけ、それを自分の作品に仕立てようとして泉に色を着けたとしても、これだけ大きな泉を染め上げるには大量の顔料や染料をこの火口に運ばなければならない。そんなこと不可能だ。それに泉は湧き出る熱水のせいで常に波立っている。そんなものに七つの色をつけたとしても、すぐに色同士が混ざり合ってしまうだろう。しかしこの泉は決して色が混ざり合うことなく、常に一定の範囲でそれぞれの色の層が形作られていた。もしかしたらショウの言う通りここは軽業師に関係する場所、神域のような場所なのかもしれない。

そんなことを考えていながら泉を眺めていると、シャルは段々とあの泉にもっと近づきたいという思いが強くなっていった。あの泉に近づきたい…あの泉に降りたらどうなるのだろう…いや、あの熱水に触れたらどうなるのだろうか…

しかししばらくそんなことを考えていると突然隣にいるショウが大きな声を上げた。

「…って松明がもうやべぇ!このままじゃ帰りの明かりがなくなっちまう!シャル、戻るぞ!」

そう言われシャルはぼんやりとショウの方を見る。確かに彼の言う通り、彼の持つ松明の火がかなり弱くなってきている。弱まった明かりと焦るショウの様子を見てシャルの泉に対する意識は断ち切られた。

「…おいおいこれじゃ帰りの道で火が消えちゃうぞ!今まで気づかなかったのか!?」

「す、すまねぇ。だが泉のことを見ている内に段々あの泉のこと以外考えられなくなっちまってよ、しまいには今からでもここから降りてったらどうかとか考えちまっていたぜ…。そういうシャルは大丈夫だったのか?」

「…い、いや実は俺も全く同じだった。ショウの声を聞くまで泉に近づいたらどうなるんだろうとかばかり考えていて…。昨日ショウが来た時もこんなだったのか?」

「いや、昨日はこんな風にはなんなかったはずなんだが…」

二人はこの短い間で泉にすっかり心を奪われてしまっていたのだ。この泉には美しい以外に何か得体の知れない力がある…。それを直感で感じた二人は軽業師のことなどどうでもよくなり、急にここに居ることが恐ろしくなってきた。

「と、とにかく今日は戻ろう!それとこの泉のことは当分の間村の皆には秘密だ!」

「そ、そうだな。夕暮れに抜け出していたことがばれるとめんどくせぇからな…」

そう言うと二人は急いで洞窟の中に戻ろうとした。しかし松明の火を心配しながら踵を返した瞬間、二人は目の前の光景に驚き今まで出したことが無い程の大声を上げた。


『うわぁぁぁぁぁぁぁ!!』


彼らの背後には群青色の衣を身に纏い、衣に付いている頭巾を目深に被った細身の男が静かに佇んでいたのだ。まるで幽霊のように音も気配も無く現れた彼を、件の『群青の軽業師』

であると理解する余裕などなく、二人は動揺し、


そして思わずその場から後ろに飛びのいてしまった。


彼らの背後にあるものは勿論地面などではなく、ぽっかりと空いた巨大な火口だ。

「あっ…」

自らの行いを後悔するよりも早く、二人は吸い込まれるように静かに火口に落ち始めた。こんなところから落ちれば、はるか下にある美しい泉に叩きつけられ、そして灼熱の熱水泉に全身を焼かれ、苦しみながら死を迎えることになるだろう。残念ながら未来ある二人の若い命はここであっけなく終わってしまった…。が、しかし


内臓がひっくり返るような、落下する際特有の感覚を受けた刹那、二人の腕は青い衣の男に強く掴まれ何とか死を免れた。二人を掴む男の両腕は細く色白で、とても一本で青年一人分の重さに耐えられるような筋肉がついているようには見えない。しかし男はシャルとショウをなんとその細い腕の力だけで軽々と支えていた。

シャルは何が起こったのか少しの間分からなかったが、自分が空中で宙づりになったままであることを知ると、下を見ないようゆっくりと自分を支えている男を見上げた。彼はかなり深く頭巾を被っていたため目元までを知ることは出来なかったが、固く結んだ口元と頬の輪郭を見る限り、かなり若い人物のようだ。どんなに高く見積もってもその年齢は二十歳後半ぐらいであろう。肌もまるで赤子のような色艶があり、乾燥や日照りが厳しい山で生きる者の肌とはとても思えない。

(こ、この人が群青の軽業師…。そして女神の反逆者…)

シャルは確信した。こんなところに現れ、自分達を助けてくれるような存在はそれ以外考えられなかった。

(本当にいたんだ…。行商やムイじいさんの話は本当だったんだ…!)

シャルは自分の置かれた状況を忘れ、つい目の前にいるおとぎ話の中の存在に魅入った。だが少し様子がおかしい。男は二人を引き上げることなく両腕を掴んだまま、無言で佇んでいるのだ。

「あ、あの。あなたは群青の軽業師…さんですよね?」

「……」

「ここはあなたの住処かなにか何でしょうか?」

「……」

「もし住処なら、勝手に入ってしまい申し訳ありません!お叱りなら受けるのでどうか私達を引き上げてはくれないでしょうか?そろそろ腕が痛くなってきてしまって…」

「……」

「なぁおいあんた!叱るなら俺だけでいい!こいつは俺が無理やり連れてきたんだ!こいつに罪はねぇ!それにあんな風に急に後ろに来られたらびっくりするだろうがよ!」

会話が成立しない男とシャルの様子を見ていたショウが突然口を挟んできた。どうやら彼も自分が置かれた状況を整理出来たようだ…と思ったがこんな状況にもかかわらずシャルを庇いつつも自分の命の灯を握っている人間に噛みついていくあたり、流石としか言えない。

「おい止めろ!あんま失礼なこと言うんじゃない!ここは俺に任せて…」

そうシャルが話しかけた瞬間、キオは握られた軽業師に握られている部分の腕が不自然に熱くなるのを感じた。まるでそこだけが火に当たっているような、そんな不思議な感覚だった。ショウも同じように感じているようで不思議そうに自分の腕を見つめている。そして軽業師は突然固く結んでいた口を開き、独り言のように話し始めた。その声はとても若々しく、しかしそれでいてまるで年を重ねた老人が若者を諭すかのような、不思議な重厚感があった。

「地導を捨てたかつての民… ここは彼らと私の償いの地… そこに泉と、そして祝福を受ける資格ある子が現れた… 女神は私の罪をお許しになったのだろうか…いや、いずれにせよこれが女神の望みであるなら私はあるがまま受け入れるのみ…」

突然放たれた支離滅裂な言葉に二人は困惑した。

「チ、チドウ?ツグナイ?何を言っているのか僕にはさっぱりです!と、とにかく早く引き上げて下さい!助けていただいたお礼ならなんでもします!」

「な、なぁ今の態度は謝るよ。状況が状況なもんでついかっかしちまってさ…。シャルの言う通り礼なら何でもする。だから頼むぜ…いや、お願いします!」

シャルも態度を改め、引き上げてもらうよう懇願している。自分が放った言葉に対して帰ってきたのが非難の言葉や反論などではなく腕に感じた奇妙な火照りと意味不明な独り言であったため、かえって恐怖を感じたのだろう。しかしそれでも軽業師は二人を宙づりにしたままだ。そして新たな言葉を彼は紡いだ。今度は独り言ではない、二人に語り掛けるはっきりとした言葉だった。

「すまぬ少年達よ、これは女神のご意志だ。今この地に危機が迫っている。女神がその怒りと悲しみでこの大地と山々を民草もろとも焼き尽くす前に、地導使いとして安寧と繁栄を脅かす敵からこの地を守れ。…では汝らに女神の祝福があらんことを」

「それってどういう…」

しかしシャルが言い終える前になんと軽業師は二人を掴む手を離し、二人を再びはるか下の泉へと落とした。


『うわぁぁぁぁぁぁぁ!!』


そして二人は先程と同じくらい大きな悲鳴を上げながら、美しい灼熱の泉へと落ちていった……

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