第4話 湯場の異変

ケハノ村は西の草ノ大陸と東の海ノ大陸を両断し、その二つの大陸を創造したとされる女神テリ・ハイラが住まうとされる神の山、ハイラ山脈の東側に存在する村だ。山の斜面を切り開くことで作られたこの村は周辺に地熱により温められた地下水が多く湧き出ており、これを用いた湯浴み業で成り立っている村でもある。東ノ国(ルウ・ゼン)と西ノ国(ルウ・バロ)の交易を行う行商人達の多くは過酷な環境であるハイラ山脈を超える前にここで英気を養うため、小さいながらも国家間の交易を支える重要な存在である。彼らは湯場を旅人や行商に提供し、その対価として金だけでなく行商が運ぶ交易品を貰って生計を立てているため、湯場の運営に携わる者は大きな責任が伴う。というのも自然の力によって温められている湯は突然高温になったり、時折地下から湧き出る毒が湯に混じったりするため、湯場を解放している間は村人が常に湯の状態を見張っていなければならないのだ。湯場の管理は代々村長が中心になって行っているが、今日は大きな商隊が来ることでチムの手がそこまで回らないこと、そして将来村を背負って立つ息子の成長の為に湯場の管理をシャルに任せたのだ。

皆を連れて湯場に向かっていると、隣にショウがやってきた。見ると少し肩を震わせている。陽が出ている間であっても春先の村は涼しく、少なくとも半裸でうろつけるような陽気ではない。

「な、なぁシャル。先に湯場に行っていてもいいか?気合入れるためにこの格好で家を飛び出たのは良いけど流石に寒くてよ…」

「あぁ、大丈夫だよショウ」

「悪ぃ。そんじゃ、お先に失礼するぜ」

シャルの言葉を聞くやいなや、ショウは猫に追いかけられたネズミのような速さで山を駆けのぼっていった。湯場まではそれなりに急な傾斜がいくつかあるが何十年とこの村で過ごしている者にとってはなんてことの無い道だ。

「ほっほ、ショウは相変わらずじゃのう」

朝っぱらから元気だなおい…、いや、でも俺を起こす為にあんなことしていたんだから当然か、などと考えていると、二人のすぐ後ろを歩いていた老人が穏やかな声でシャルに話しかけてきた。彼の名はムイ。村で一番の高齢であり、村全体のお目付け役だ。

「えぇ、ムイじいさん。あいつは本当に変わらないですよ」

「あやつがこのままこの村にいてくれたら、お前さんはきっと良い村長になれるのにのう」

「え?」

ムイじいさんからの予想だにしなかった発言に対し、シャルは歩みを進めつつ優しい笑みを浮かべる老人に問いかけた。

「ショウは村に残ったほうが良いと?」

「そうじゃ。お前さんは正義感が強いが、それが災いして物事に対して深く考えすぎてしまうきらいがある。じゃが人が生きてゆく中では人間などというちっぽけな存在がいくら知恵を絞ったところで決して変えることが出来ない、理不尽な出来事に必ず出会う。そんな時にお前さんのような人間は無理に解決しようとして頭を使い倒し、結果として心を曇らしてしまうんじゃ。そんな時にはショウのように、責任や他人の期待なぞ気にせず自分の気が向くままに進んだほうが良い方向に行くこともある」

「…それじゃあ僕もショウのようになれと?」

返したシャルの声には少しだけ困惑があった。ショウが村に留まるべきと言われたからではない。シャルやショウを始めとした村の子供達が何をしようと何も言わずに穏やかな笑みを浮かべながら眺めているようなムイじいさんがこのように人の性格を、しかも本人の目の前で批評していることに驚いたからだ。

「ほっほ、流石にあそこまで自由奔放な村長は勘弁じゃな。要は判断する力が必要なのじゃ。目の前の困難にぶつかった時、それは知恵を用いて突破出来るのか、はたまた逃げ出して別の道を探すことで新たな活路が開けるのか。これを見極めるのはとても難しいが、お前さんが長として判断を下す時が来た時に、ショウはきっとお前さんの大きな力になってくれる。そういう意味でショウは村に残ったほうが良いといったんじゃ」

「……」

彼の助言は、シャルを既に「村の子供」ではなく「村で仕事をする大人」として見ていることの証であった。ムイはこの村の長老として、村の仕事に関しては穏やかな調子こそ崩さないものの常に適格な助言や判断をする。事実、チムが自分達の家にムイを招き入れ二人きりで相談しているところをシャルは何度も見ている。その経験からシャルはムイじいさんの言葉を頭の中で咀嚼しようとする。

(ショウが将来俺の力になる?確かにあいつがいてくれたおかげで今の俺があるのは間違いない。けどそれは子供同士のたわいのない関係だからであって、これから俺達が進む道は大きく変わる。それなのにあいつが力になってくれるのか…?)

だがすぐに今の自分が置かれた状況を思い出し、こう答えた。

「助言をありがとう、ムイじいさん。少なくとも今のショウには力になってもらうよ。俺の忠実な『右腕』としてね」

「ほっほっほ。そうじゃ、今はそれでよい」

シャルの言葉を受けてムイじいさんは満足げにほほ笑んだ。


やがて一行は石造りのこぢんまりとした建物の前にたどり着いた。ケハノ村の湯場は集落が存在する斜面とは反対側の斜面に位置しており、この石造りは脱衣所としてだけでなく二回の露台が湯上りの客が涼むための場として機能しており、村と湯場の間の尾根を跨ぐような形で建てられていた。

「うむ、確かに今日は硫黄の匂いが強いのぅ。風下にある湯は臭くて使えんかもしれんな」

「朝自分が湯を開けた時もかなり強くなっていますね…」

シャルの後ろで今日の湯場を開ける当番であった者とムイが話しているのが聞こえる。湯場を見る者はその日の湯の状態を常に判断し、客を入れても大丈夫か見極めなければならない。硫黄の匂いは多量に吸えば喘息を引き起こし、肺をだめにする危険な臭気だ。そんなものが多く出ている時に帝の行商を湯に入れ、病気を起こしたとなればそれこそ縛り首は免れないだろう。

「う~ん。そんなに気になりますかね…?僕にはいつもと変わらないように思えますが…」

シャルはムイじいさんに向けて問いかけた。少なくともシャルの思う限りでは普段と変わらない匂いであった。

「今はこの石造りが風よけになってくれておるからのう。湯場に行けばお前さんでも分かるはずじゃ」

「…分かりました。とりあえず湯を見てみます。それじゃあ皆着替えよう」

シャルはそう言うと皆を男女に分かれさせて脱衣所に入れ、自分も着替え始めた。湯場は湯から常に発せられる蒸気のおかげで常に暖かいため、日が出ていない時と冬場を除いて皆下半身には麻の腰巻を巻き、また男は上着を着ず、女も胸元を麻の布でさらしのように巻くだけだ。

シャル達が着替えをしていると入り口とは反対の扉、つまり湯場に繋がる入り口からショウが入ってきた。体から多くの雫が滴っているのを見ると恐らく皆を待っている間に湯に浸かっていたのだろう。

「よう、皆来たな」

「お前もう湯に入っていたのか」

「あぁ。体を温めるついでに湯場全体も周ってみたが、今日はどうも女神様の機嫌がよろしくないみたいだぜ。湯加減は悪くないが如何せん硫黄の匂いがきちぃ」

確かにショウが湯場側の扉を開けたことで脱衣所に漂う孵卵臭がかなり強くなった。日が出ている時には山の斜面が地上よりも早く温められるため、地上付近の冷たい空気が風となり山の斜面を吹きあがってくる。ムイじいさんの言う通り、外にいた時は脱衣所が風よけとなって低い位置からの風が運んでくる匂いを防いでいたおかげでキオには違いが分からなかったのだ。

「ありがとう、ショウ」

「おうよ。なんてったって今日はお前の『右腕』だからな、こんな報告は朝飯前だぜ。ま、もう朝飯は食ってきてるんだけどな!」

「はは…」

ショウの調子の良さとは裏腹にシャルの中には不安が募っていった。もし商隊に十分な入浴を提供出来なければ、それだけ対価として払われる金や品は減る。湯場が使えないことは村の損失に直接つながるのだ。

「よし、皆準備が出来たみたいだね。それじゃ、行こう」

シャルは脱衣所にいる男たちが着替え終わったことを確認するとやや焦り気味に外に出た。脱衣所を抜けるとそこには山の斜面に作られた広大な湯場が広がっていた。斜面に沿って段々畑のように存在する大小の湯からはもくもくと白い蒸気が絶えず出ており、これが風に煽られ岩石に覆われた黒い山の斜面を流れることで白い蒸気と黒い地面が互いに強調し合っている。湯の周りには人が素足でも歩けるように竹や木で出来た通路や坂、階段が細かく張り巡らされており、更に互いの水量をある程度一定にするため多くの湯の間には同じく木製の水路が張り巡らされており、風の音に混じって、水が流れる心地よい音が湯場を包んでいた。この村の湯に浸かり、そこから壮大で美しいハイラ山脈を眺めることは西から命がけの山越えをしてきた者にとっては究極の癒しであり、これから山を越す者にとっては待ち受ける過酷な山越え前のつかの間の休息となっており、前述の通り多くの行商や旅人がケハノの村に立ち寄った際にこの湯場を利用する。中にはここの湯に浸かる為だけに山を越えてくる者もいるほどだ。そんな癒しの湯場であるが、どうも今日は調子が良くないようだ。シャルが外に出た瞬間これまでとは比較にならない程の強い孵卵臭が鼻を突いた。ショウ達が言うように今日は硫黄の匂いがかなり強い。シャル以外の者も外に出たと同時に鼻を抑えたり、顔をゆがめたりしている。

「確かに、今日はかなりきついな」

シャルは思わず呟いた。常日頃から湯場におり四六時中この匂いに晒されているケハノ村の者であっても不快に感じるほど、その匂いは強烈だった。更に問題はそれだけでは無かった。シャルは試しに一番近くにあった湯に手を入れてみた。普段よりもかなり熱い。

「ショウ、さっき湯加減は悪くないって言っていたよね?でもこの湯かなり熱いんだけど…」

「ん?あぁそれは下の方にある湯の話だ。言葉足らずだったな、申し訳ねぇ。下の方の湯なら温度もまだ丁度いいし、何より風上だから匂いもそこまできつくねぇ。だが今日来る商隊全員を浸からせられる程広くはねぇのが問題だな」

シャルは再度近場の湯に近づき手を入れてみる。湯は人が入れない程熱い、という訳ではない。だが入浴後すぐに山を越える者にこのような熱い湯は提供しないのが決まりだ。天候がすぐに変わる山の中では、少しぬるめの湯にじっくりと浸かり身体の芯から温まってから挑むのが最もよく、逆に熱い湯に浸かってすぐの身体は天候の変化に上手く対応出来ずかえって身体に負担をかけるからだ。商隊は大規模である上に西ノ国の献上品を運んでいるため村に長居はしないだろう。故に湯場を全稼働させ一度に出来るだけ多くの者を湯に入れることが当初の考えであったが、こう熱い上に硫黄の匂いがきつくては少なくとも風下にある上段の湯は使えない。

(どうしたものか…。)

シャルは一度考え、そして皆に指示を与えた。

「ひとまず皆は下段の湯を見てきてくれ。ショウの言う通り下は風上だからここほど匂いはしないだろう。けど湯の温度が心配だ。必要なら湯もみをして温度を下げてやって欲しい。とにかく下段の湯だけは使えるようにしておいてくれ。その間僕は他の湯について考える。それじゃあ皆、仕事開始!」

村人達はこれを快諾すると、皆それぞれ湯もみ用の長い平べったい木の板を持ち、湯場を降りていった。一方シャルはムイじいさんだけを引き留め、脱衣所を上がった二階の露台にやってきた。

「ほっほ。言っておくが儂はただのお目付け役じゃ。最後にどうすべきか決めるのはお前さんじゃぞ」

「勿論分かっています。けど今の状況は僕だけで判断するべきじゃない。ムイじいさんはこの場にいる中で一番経験が豊富だ。是非助言を頂きたいのです」

「ほっほっほ。それは光栄じゃな。ではそんな儂に聞きたいことはあるかな?」

「まず、今まで湯場を見てきた中でこんな風に硫黄の匂いがきつく、また湯が熱くなったことはありますか?」

「う~む。確かにありはしたぞ。山は気まぐれじゃからな。だがこれが続いたのは長くて数時間程の、短い期間じゃ」

「それでも商隊が来るまでは長すぎます」

シャルの声に焦りが混じる。

「かといって儂らがどうこう出来る問題ではないのは分かっておろう」

「はい。勿論です」

「では、その中でどうするべきか考えることが肝要じゃ」

「僕が取るべき行動は一つです。まずは今すぐ父さんのところに戻り、湯の調子が悪いことを伝える。勿論父さん達は商隊全員を湯に入れることを前提で交渉の計画を立てているだろうからその計画を大きく変えることになる。『帝の足』に不便を強いることも覚悟せねばならないでしょう。けどこれから湯の調子が回復しないとも限りません。そこで皆には湯場に待機してもらい、状態が回復次第こちらを整えるように指示します」

「そしてお前さんは何をするんじゃ?」

「僕は父さんに湯の状態を伝えた後は湯場に戻り、皆と一緒に湯の調子がよくなるまで待ちます」

「うむ、確かにそれが最も合理的じゃな」

「でもこれでは父さん達にかなり負担を負わせることになりますが…。」

「それはまぁ仕方のないことじゃろう。ケハノの湯浴み業はテリ・ハイラと共にある。女神様がご機嫌斜めな時は黙ってそれに従うしかないんじゃ」

「それもそうですね…。きっと父さんも行商の皆さんも分かってくれるでしょう。それでは僕は父さんのところに急ぎ戻ります。ムイじいさんは申し訳ないですが今の話を皆に伝えてもらえれば…」

「おーい、シャル!ムイのじいさーん!」

話がほぼまとまりかけていた所にショウの声が鳴り響いた。下を見るとショウが肩で息をしながらこちらを見上げていた。急いで駆け上がってきたのだろう。

「どうしたんだよ、ショウ。そんなに慌てて」

「どうしたもこうしたもねぇよ!あんたら気付かねぇのか!辺りを嗅いでみなよ!」

そういわれて二人は鼻をきかせてみた。すると風下にいるにもかかわらずかなり匂いが薄くなっている。

「ほっほ。全く、不思議なこともあるもんじゃ。これなら今立てた計画はおじゃんにしても大丈夫そうじゃな」

シャルは今までの緊張が一気にほぐれ、危うく露台の床に倒れこむところだった。

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