第12話 鏡花水月

 夕方の時間帯にもなると、電車の中は自分たちと同じような学生でいっぱいだった。


 俺と硝子は仲良く隣に座りながら、慣性の法則の影響を受けていた。

 揺れて近づくこともあるけど、相手の体に当たるギリギリで毎回止まる。

 

「で、今日は一体どこで描くんだ?

 このままだと、俺家に着いちゃうんだけど」

「珪君の家は通り過ぎるよ。

 須磨駅で降車して、私の家に描くから」

「一駅分電車賃無駄になるけど、観覧料だと思うことにする。

 ……なんで急に名前呼び?」


 顔には出さないようにしているが、女子に名前で呼ばれると少し恥ずかしくなる。

 男を勘違いさせるための、女子が用いる高等なテクニックの一つだ。


 硝子に限ってそんなことはないと思うけど。


「高槻って苗字言い難い。

 それに比べて珪って名前は、単純な二文字だから言いやすい。

 大した理由じゃないよ」

「単純って…………。

 納得したくないけど、納得してしまった自分が憎いな」

「キラキラネームよりはマシでしょ。

 “輝涙ティアラ”や“偉人グレイト”って名前があるくらいだから」

「あんまり馬鹿にすんなよ。

 普通に中二病感あってかっこいい名前だろ」

「そんなふざけた名前になるくらいなら、ピカソの本名が名前になる方が百倍いい」

「それ、親がどんな感情で名づけるか気になるな」


 マジで珪っていうかっこいい名前で良かった。

 ありがと母さん。






 須磨駅に着くと、俺と硝子は北口から出た。

 駅から出て最初の信号を左に曲がってしばらく歩くと、硝子が「これ」と指を差して立ち止まった。


「これ、私の家」

「思ったより普通の家で、なんか安心した」


 よくある二階建ての白い家を見て、俺の心配は杞憂に終わった。

 美術家の実家は太いってよく聞くので、女子高生バンクシーも例外ではないかもと思ったからだ。


「大豪邸だとでも思った?」

「ヴェルサイユ宮殿みたいなのを想像してた」

「それは嘘でしょ」

「うん、嘘。

 単純にクソデカい家を思い描いていた」


 硝子は特に反応もせずに、鞄から白いウサギのキーホルダーがついた鍵を取り出し、


「アロホモラ」


 と言って、鍵でドアを開けた。


「部屋からスプレー取ってくるから、珪君は外で待ってて」

「それは別に構わないけど……今の何?」


 どこかで聞いたことがあるような単語だ。

 なんかの映画で、こういう風に鍵がかかってる場面で言ってた気がする。


「開けゴマと同じ。

 扉を開けるための呪文みたいなもの」

「そういうのって普通、鍵がなくて、開かない扉があるときに唱えるもんでしょ。

 もしかして、碧海って中二病?」

「私の“赤塗料噴射レッド・ブレス”を喰らいたいってことでいい?」


 硝子はウザそうな目を俺に向けてきた。

 俺がそれ以上茶化さないのに満足して、家の中へ消えていった。

 

 俺は待っている間に、さっきのアロホモラについてスマートフォンで調べる。


 アロホモラ……『ハリーポッター』に登場する、扉や窓などの物体の鍵を解除する開錠呪文。


「パクリじゃん」


 どこかで聞いたことがあるなって思ったら、ハリーポッターだったか。

 正真正銘、100%完全なパクリだ。


 ハリーポッターが好きなら、そりゃ異世界にも行きたくなるな。


「そのうち、筆とか使って『ナメクジ喰らえ!』とかやってこないよな……」


 今の硝子なら本当にやりかねない。

 俺の中で碧海硝子は中二病認定された。


「待たせてごめん」


 スプレー缶がたくさん入った袋を片手に、硝子が家から出てきた。

 硝子は俺の顔を見ると、怪訝な表情をした。


「どうしたの?」

「『ナメクジ喰らえ!』だけは勘弁してください」

「意味がわからない」


 硝子は俺の発言を軽くスルーすると、早速自分の家に向かってスプレーを噴射し始めた。

 俺は少し離れた位置でそれを眺める。


「今回はどんな落書きにするんですか、バンクシーさん」

「安易に答えを得ようとするなんて、珪君は愚か者だね。

 どうなるかは、出来上がってからのお楽しみ」


 無表情だが、真剣な目でスプレーを走らせる。

 

 硝子が作品を作ってる姿は、美しく儚いように感じさせる。

 そこに翔子が存在しているのは知ってるのに、実体がなく、それでいて哀しさだけを残したような雰囲気になる。


 鏡花水月という言葉が似合っている。

 

 いや、


「あとどれくらいで完成なんだ?」


 沈黙に耐えられそうになかったので、苦し気まぎれに俺は訊ねた。

 硝子は創作に集中しながら、玲瓏れいろうな声音で答える。


「まだ、半分も終わってない。

 ……早く帰りたいの?」

「美味しいワインを醸成させるには、長い時間が必要なんだ。

 ……頑張って」

「フッフッ、何それ」


 硝子が少し笑みを綻ばせる。

 今は確かに、硝子は存在している。


「お姉ちゃん、家の前で何してんの?」


 突然知らない声が聞こえてきたので、俺はその方へ振り返った。

 中学生くらいの男子が、通学用カバンを肩にかけてこちらを見ている。


鉛汰えんた、部活じゃないの?」

「顧問の岬先生が休みだから、今日は各自自主練。

 で、何してんの?」


 硝子の反応を見る限り、この中学生は硝子の弟みたいだ。

 付き合ってるって思われたら嫌だな。


「言う義務もないし、言いたくもない」

「じゃあ、質問を変えるよ。

 その隣にいる人は誰?」


 鉛汰君が俺の方に視線を向けた。

 警戒してるというより、本当に誰こいつ?って感じの疑問の目だった。


 俺はゆっくり立ち上がると、丁寧に答えた。


「俺は碧海さんと同じ色浜高校に通ってる、高槻珪。

 高槻市の高槻に珪素の珪。

 碧海さんに貸してた本を返してもらうために、碧海さんの家までやってきたんだ」

「そういうことですか……。

 ご丁寧にありがとうございます」


 鉛汰君は行儀良くお辞儀をすると、再び視線を硝子の方に戻した。


「あんまり人に迷惑かけちゃ駄目だよ、お姉ちゃん」


 硝子が俺の方に怒りの視線を向けてくる。

 俺は視線を逸らした。


 このままだと本物の嘘つきになるな。


「そうだ。鉛汰」


 硝子は鉛汰君に呼びかけると、俺を指で差してきた。


「サッカーの自主練するなら、あの人に付き合ってもらえば。

 絶対、真面目にやってくれるよ」

「え、お姉ちゃん。それマジ?」


 鉛汰君が品定めするかのように、俺の全身を見る。

 そして納得したのか、うんと一回頷いた。


「高槻さんって、多分運動できますよね?」

「いや、それが全くできない」

「鉛汰、全部嘘だから。

 高槻君は結構運動できる」


 俺は硝子を軽く睨んだ。

 硝子は視線を逸らすと、創作の続きを再開した。


 性格悪いな、こいつ。


「お願いします。

 大会が近いので、しっかりした練習をしたいんです」


 信じられないほど丁寧にお願いしてくる。

 俺はその姿勢に負けてしまい、快く返事をしてしまった。


「俺でよければ、是非」


 腰を痛めない程度にやろう。

 


 

 


 


 








 



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