第10話 糸魚川泡夏

 夢を見ていた。


 俺にとって一番大切で、何にも変え難い思い出と言ってもいい。

 今の俺を構成する要素の中でも大きな割合を占めていて、人生のターニングポイントだ。


 その日、俺は自殺を試みた。


 部活でのトラブルで嫌というほど人間の醜さや現実の残酷さを思い知らされて、壊れそうな俺を優しく支えてくれた両親が、交通事故で呆気なく死んだ。


 笑ってしまうぐらいに最悪な事が豪雨のように襲いかかってきて、生きるのが辛く、苦しみから早く解放されたかった。


 俺は学校が終わると、家へ帰らずに須磨の海に来ていた。


 入水して死のうと考えていた。

 好きな作家である太宰治も入水で亡くなったし、何より好きな須磨の海で死ねるなら本望だと思った。


 何の偶然か、空は澄み渡ってるほどに青く、静かに海は凪いでいた。

 素晴らしい自殺日和だった。


「…………これだけ穏やかだと、後悔なく逝けるな」


 俺は眼前に広がる海に目を細めると、ゆっくり少しずつ歩いていった。

 死ぬことに対する恐怖のせいか、足が震えてるうえに重い。

 本能的に回避しようとしているのが分かる。


「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ…………!!!!」


 動悸が激しくなり、呼吸が荒くなる。

 ここまで来て、死ぬことを躊躇ちゅうちょしてる自分がいる。

 色々なことを考えてしまっている。


「もう……引き返せない…………!」


 俺は唇から血が出るほど強く噛むと、勢いよく走って海の中へ入っていった。

 進んで行くにつれて、深くなって呼吸ができなくなり、気管に水が入っていく。


「ゴバっ!ゴボっ、ゴボっ………………………」


 どんどん肺に水が入って、苦しくなっていく。

 薄れていく意識の中で、俺は走馬灯を見た。


 お母さん、お父さん、姉貴と仲良くご飯を食べている。

 俺と姉貴が喧嘩していて、お母さんがそれを見て和かに笑い、お父さんが呆れた表情をしていた。


 最後に幸せな妄想が見れた。


 俺は力が抜けて、深く深く沈んでいった。






「……………………ガハっ!」


 詰まっていた水を吐き出して、俺は目が覚めた。

 墨を溢したような綺麗な夜空が視界に入っている。


 死んだのか……?


 俺はゆっくりと体を起こした。


「よかった。目が覚めて」


 人の声が聞こえてきたので、横を向くと知らない女性が隣に座っていた。

 前髪の一部を編み込んでいるセミロングの黒髪に、大きな空色の瞳で、優しく包み込んでくれるような雰囲気をまとってる。

 見たところ、自分より歳上のようだ。


「…………ここって死後の世界ですか?」

「違うよ。ここは現実の世界。

 私たちが生きている世界だね」

「もしかして…………俺を助けたんですか……?」


 女性は「うん」と微笑みながら頷いた。


 …………ふざけるな。


「余計なことすんなよっ!!!」


 俺は大声で怒鳴ると、女性の顔を睨みつけた。

 心の底から憤怒の情が沸々と湧いてくる。


「俺の苦しみを何も知らないくせに、勝手に助けようとするなよ!

 見て分かんなかったのか!

 この人自殺したがってるんだって!

 自分が気持ちよくなりたいのか、善人ぶりたいのか知らないけど、大きなお世話だし、誰も助けなんて求めてないんだよ!

 生きてることが苦しいから、自殺しようとしたんだ!

 死んだ方が楽だから、とっとと死にたかったんだ!

 なのに、あなたの偽善のせいで、また苦しまなきゃいけなくなった!

 マジで余計なことすんなよ!クソ偽善者!」


 自殺するのには相当な覚悟が必要で、俺は覚悟ができたから自殺に臨んだ。

 死ぬ恐怖を全身で感じながら、それでも死のうと決意した。

 悩みながら、生死を秤にかけて選んだ。


 それが全て無駄になった。


 憎悪の塊のような言葉を浴びせたのに、変わらず女性は優しく微笑んでいた。

 

「私は善人でもなければ、偽善者でもないよ。

 君の苦しみなんて無視して、私のエゴで君の自殺を止めた。

 私は傲慢な悪人だよ」


 そう言うと、女性は俺に近づいて手を握ってきた。

 暖かな体温を感じる。


「私は君に生きてほしいだけ」


 すぐに文句を返そうとしたが、動揺して中々出てこない。

 手の温もりを感じながら、言葉を捻り出した。


「生きてほしいって……初対面じゃないですか」

「初対面じゃないんだよなぁ。

 私は君の名前知ってるから」


 俺は驚いて、相手の顔を凝視した。

 こんな人と会った覚えが全然しない。


「高槻珪君だよね。

 高槻市の高槻に珪素の珪」

「……なんで俺の名前知ってるんですか?」


 女性は意味深にニコッと笑うと、水平線の方を眺めた。

 俺の言葉には答えずに、違う話を語り始めた。


「私は人生は数直線だと思ってるんだ。

 死が0で、楽しいとプラスの値で苦しいとマイナスの値。

 今が楽しい人は死がマイナスに思えるし、苦しい人は死がプラスに見える。

 だから、苦しくて悩んでる人に迂闊うかつに『死ぬのは命がもったいないから、駄目だよ』なんて私は言えないな。

 それよりは、話を聞きたいと思うんだよ」


 何が言いたいのか分からない。


 女性は困惑してる俺に向かって微笑んだ。


「何がそんなに辛かったの?」


 答えるつもりなんてなかった。

 知らない他人に、自殺させる決意をさせるほどの話などしたくなかった。


 でも、なぜかこの人は、同情も慰めもせず受け止めてくれそうな気がした。

 

 

「俺はーーーーーーー」


 サッカー部の後輩を庇った結果、同学年の部員に罵詈雑言を浴びさせられた挙句、暴行騒ぎになって、根も葉もない悪い噂が広まったこと。

 その噂のせいで他人から信頼されなくなったこと。

 大好きだったサッカーが大嫌いになっていたこと。

 精神が疲弊しきっていた俺を優しく慰めて支えてくれた両親が、交通事故に遭って亡くなってしまったこと。


 気づいたら、辛かったことを赤裸々に話していた。

 次々と思いが口から出ていって、その度に俺は涙を溢していた。


 話が終わると女性は肯定も否定もせずに、また関係ない話をした。


「名前を言ってなかったね。

 私は糸魚川いといがわ泡夏うたか

 糸の魚の川で糸魚川、泡に夏って書いて泡夏」


 女性ーー泡夏さんは砂浜に字を書いて説明する。

 星明かりのお陰でかろうじて読むことができた。


「珪君。もし、まだ自殺したいのなら、その前に二人でデートしない?」


 突然のデートのお誘いに、俺は間抜けな声を漏らしていた。

 この人は本当に意味が分からない。


「どうせ死ぬのであれば、私とデートしてからにしようよ。

 お金も全部使いきっちゃってね。

 珪君が嫌なら、この話はおじゃんになるけど、どう?」


 少し考えて答えようとしたところで、夢は終わりを迎えた。






 俺は飛び起きた。

 須磨の砂浜ではなく、慣れ親んだ自分の部屋。


「もう、二年前か……」


 感慨深く呟くと、手のひらに水滴が落ちていった。

 自分が泣いていたことに気づく。


「夢の中でしか会えないなんて……マジでふざけてるな」


 俺はベッドから下りると、学校の支度を始めた。


 ほんのり胸が温かかった。

 


 




 

 

 


 


 

 

 


 




 

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