第15話『強欲』の愛犬 中

 前足が翼のように発達した、コウモリっぽい小動物が視界の端を飛び去っていく。

 それを追うように視線を上げれば、6m程度のゴツゴツした天井が目に入った。

 そこまで低いわけでもなしに、妙な閉塞感があるのは、頭上の空間を埋め尽くすように、氷柱が突き出てきているからだろう。

 レタンタの氷穴。

 レタンタの森の奥にあるそこは、数千年前のイパン山の大噴火でできた洞窟だった。

 内部は常に2摂氏程度の低温に保たれている。そして、天井からしみ出した天然水は、滴り、凍てつき、3メートルにも及ぶ氷柱となる。

 冷たく透き通った輝きは、美しい宝石のようで。

 ランタンの蒼炎に青白く浮かび上がる様は、どこまでも幻想的だった。

 青くて冷たい星が、無数に瞬いている。夜空みたいだな、なんて考えながら、反響する2つの足音に耳を澄ませた。

 平生は固く閉鎖されている氷穴内部にこうして立ち入ることが出来たのは、ひとえに、『子供たちの証』があったからだった。

「この氷穴は、アマン氏の所有物だった」

 グリードの声が、空間を反響する。濡れた足元から、隣の男へと視線を移す。

 蒼い光が、洗練された美貌の輪郭を、さらに怜悧に浮かび上がらせていて。

「彼は財産の保管場所に、この氷穴を選んだ」

「では、ペンダントはこの奥に?」

「ああ」

 釈然としない。

 秘匿性にしろ安全性にしろ、ここよりも優れた場所はたくさんあるように思えたから。

 俺の疑問を察したのか、グリードは小さく肩をすくめる。

「この氷柱には、一つ一つに魔力が濃縮されている」

「…………」

「天然の冷凍庫、だなんて呼ばれるこの氷穴は、同時に、天然の魔力貯蔵庫でもあるわけだ」

「すみません。話がよく見えません」

「そう?これ以上なく明確だと思うけれど。こと遺言の執行において、ここ以上に適した場所は無い」

 どこらへんが明確なのか、小一時間問い詰めてやろうかと思った。

 胡乱な目で、その横顔を睨めあげては、思わず言葉を呑む。

 ゲエと舌を突き出す表情は、普段の品性を念入りに破り捨てたような様子で。初めて見る類の表情だった。

「あれは公正証書遺言だ」

「こ……」

「公正証書遺言」

「公正証書遺言…………」

「おや、聞いたこと無い?相続関係の勉強は、しておいて損はないよ」

「いや、言葉自体を知らないわけではなく……」

 …………この世界にもあるんだ……そういうの……。

 所詮は法治国家。ファンタジーの限界を見せられた気分である。少しだけ萎んだ気持ちのまま人差し指をこね合わせる俺を他所に、グリードは、気だるげに右手を持ち上げる。

「証人2人の立ち合いと、遺言者自身を生贄に作成される遺言だよ。一人分の魂と証人が二人がかりで履行魔法をかけるので、その遺言は絶対的な強制力を持つ」

「具体的には」

「遺言の内容を妨害する人間に、ほぼ即死の呪いが降りかかります」

 前言撤回だ。俺の知ってる公正証書遺言と違う。完全に別物の呪術の話をしている。

 要は、その『即死の呪い』やら遺言の執行のために、膨大な魔力が必要であると。そういうことだろうか。

 ようやく話が見えてきた。

 というか、

「それ、グリードさんの固有魔法と似てますね」

 その言葉に、グリードはうっそりと目を細める。答える代わりに向けられた笑みに、訳もなく片頬が引き攣る。

 ────履行魔法

 ある契約の履行を担保する魔法。債務者が履行責任を全うできなかった場合に発動する、強制履行の呪いである。

 先刻、店主は恐らく「賭けに勝った者が景品を総取りする」という契約に背いたことで、グリードの支配下に置かれた。

「『同じ』?」

 そして、グリードは囁くように言いながら、長い指を伸ばしてくる。俺を小指を突いて、長い睫毛を伏せる。

「全然違う。約束を破っても、私は無暗に人を殺したりはしない。……一生私の犬になってはもらうけれど」

 本来ならば、人一人分の魂と一流の魔導士2人がかりで成立させる履行魔法。膨大なリソースと大掛かりな手続きの要されるそれを、『強欲』である罪源者は僅かな魔力の貸与だけで成立させてしまう。

 彼との約束は、それこそ件の遺言書と同等の強制力を伴う呪いとなる。

 弱者を踏みつけ、強者をねじ伏せ。問答無用でこの世の全てを搾取し尽くす、『強欲』たるに相応しい固有魔法だった。

「約束を守る限りは、皆が対等で大事なビジネスパートナーだ」

 生殺与奪の権を奪われて。生かさず殺さず、飼い殺しにされる自分をわけもなく想像する。そんな俺を他所に、グリードは「とにもかくにも」と軽く手を叩く。その声に、先刻までの凄艶さは見る影もなかった。

 げんなりとしたまま相貌を擡げると、元の溌剌とした美貌がこちらを見ていた。

「そして、ペンダントのある空間は、この先3つの試練を超えた先にある」

「…………試練」」

「響きこそご大層だが。内容自体は、3つの質問に答えるだけの簡単な物さ。ただし──」

「──『ただし、嘘を吐けば命はない』?」

 言葉を継げば、返事の代わりに薄い唇が弧を描く。そして、ゆっくりと歩を止めては、こちらに正面から向き直った。

 俺もまた、グリードに従うように歩みを止める。

 道が二手に分かれていた。

「片方は、奥の空間に。片方は出口に繋がっている」

「…………」

「ここまで連れてきておいて何だけれど。要するに、まあ、この先は命懸けだ」

「…………俺が引き返したとして、あなたは?」

「私?」

 自らの胸へと手を添えて、白々しく仰け反って見せる。

「私は、もちろん先へ進むよ」

 そして、次に浮かんだのも、貼り付けたような胡散臭い笑みだった。

 少しだけ腰をかがめては、ランタンを持つ人指し指を立てて見せる。

「いざとなれば、まあ、強行突破することも不可能ではないし?」

「…………」

「何せ、罪源者なもので」

 鼻先に迫った微笑みに、顎を引く。「でも」なんて。碧眼を睨み返せば、僅かに目元が痙攣した。

「…………ただでは、済みませんよね」

 答えは無いただ、音もなく笑みが深まるだけだった。

 どこか遠くで水滴が落ちるような音がした。

 ピチャン、ピチャン。

 静寂のなか、澄んだ水音に耳を澄ませて。

「行きますよ」

 それが、答えだった。

 答え自体は決まっていた。ただ、声に出すまでに少し時間がかかってしまっただけで。

 冷えた氷の匂いに、原生生物か何かの、甲高い鳴き声。五感が妙に研ぎ澄まされるみたいだった。

 此方を見下ろす瞳に、透徹した光が宿る。

 光の角度なのか、その虹彩は金色に色付いて。その色彩に、わけもなく懐かしい顔を思い出した。

「…………出来る事なら、なんだってしたいんです」

「それは、『憤怒』のためかな」

「自分のためです」

 俺は、狩野にたくさん酷いことをした。傷つけ、裏切り、そして逃げた。

 だから今更、『狩野のため』だなんていう気はない。

 ただ、知ってしまったというだけの話なのだ。

 向き合うことも辛いけれど、逃げるのは、もっと辛い。

 眠るごとに、夢を見る。

 あの日あの時、狩野から逃げなかった場合の『もしも』。彼の告白を受け入れなかったとしても、自分の言葉で、真正面から向き合えば、彼をあそこまで傷つけることにはならかったのではないか。

 …………互いの気持ちを擦り合わせながら、ずっと寄り添うことができたのではないか。

 そんな、不毛な蓋然性の検討と、意味のない後悔。

 そんな『もしも』を延々と繰り返すのは、何よりも耐え難い苦痛だった。

「……もう、後悔はしたくない」

 低く唸れば、眼前の男の目元が、柔らかく撓む。

 かと思えば、瞬きのうちにそれは不敵な笑みに塗り替わって。

「良い心意気だ」

 とん、と。

 整えられた爪の先が、額を弾いた。

 あまりにも容易く俺の急所を捉えながら、グリードは口端を吊り上げる。

「君なら、そう言うと思っていたよ」


 ***


「ァ最初はグー!」

 腰を入れて、声を張り上げる。

「ジャン!」

「ケン!」

 むさくるしい男たちの声が、先刻までとは比にならない高さの天井に反響した。

「ポン!」

 そして、握りしめた拳に対して繰り出される、すらりとした手のひら。

 俺は膝から崩れ落ちた。

 慟哭を漏らす俺に対して、グリードは悠然と腕を組んでは頬に手を添える。

 澄まし顔でふふん、と鼻を鳴らす所作が、非常に腹立たしい。

「きみね。毎回最初にグーを出すのを、まずやめたほうがいいよ」

「うるせえっ!」

 思わず敬語をかなぐり捨てて叫ぶ。

 …………この世界──ゲームには、何かにつけ物事をじゃんけんで決める習慣がある。

 新しいツールでのゲーム作成に四苦八苦しているころ、唯一追加できたゲーム要素がじゃんけんシステムだったからだ。

 特に怠惰ルートでは、じゃんけんやらあっちむいてほいが頻出する。

 負けたら即デッドエンド。惰性で命を潰さる運ゲ要素こそが、怠惰ルートが『クソゲルート』と呼ばれる所以だった。

 そういうわけで、俺にとってじゃんけんとは特別な意味を持つ。

 これもまた、試練のトップバッターをかけた、魂のぶつかり合いだった。

 なのに。

「…………小癪な……」

 小癪にも、分析などしおって。じゃんけんは心理戦ではない、パッションなのだ。

 この男はそこをわかっていない。

「見苦しいよ、圭一くん。男に二言はない。そうだろう?」

「うぐぐぐぐ……」

 肩をブルブル震わせる俺の背に、ニコニコ顔で手を添えてくる。

「そしてもう一つ。勝負事で、相手の提示した条件やシステムを鵜呑みにするべきじゃない。大抵の場合、それは君にとって不利で、相手にとって有利な物になっているから」

 加えて、要らん助言まで。じゃんけんに勝っただけで、なんでこんなに勝ち誇れるんだ。

 憮然とした表情で、促されるまま通路の入り口まで歩いて。

 入口の脇。地面から突き出た石碑は、この氷穴内のどれとも違う。

 明かな、人工物であることが伺える。

『1』という数字の下。石碑に刻まれた文字は、古ぼけていて読み取れなかった。

「『幸福を知る者だけ』と。そう書いてあるね」

「…………不幸な人が通ったら、死ぬ?」

「端的に言えば、そう」

 …………それが、『試練』?

 めちゃくちゃ難しい古代文字とか、計算問題とかを問われると思っていたぶん、拍子抜けだ。

 眉を寄せ、首を傾げたまま足を踏み出した。

 次の間に続く通路の地面から天井は、2メートルもない。中腰になりながら、不安定な足場を進んで。

「…………通れた」

 中間地点まで進んで、どうにか背後を振り返る。続く人の気配が、全く無いのが気になった。

「…………グリードさん?」

 グリードは、未だ入り口付近で立ち往生していた。

 胸中がざらついた。焦燥のまま、腰をさらにかがめては目を凝らして。

「…………?」

 蒼い、炎が見えた。

 先刻まで俺のいた空間が──入口の向こう側が、蒼炎に包まれていた。

 そしてグリードの隣には、見覚えの無い人影が佇んでいた。

 少年だった。

 襤褸切れのような服に、骨と皮だけの、鶏ガラのような手足。

 俺にあの年の知人はいないが、その藍髪には覚えがあって。

 …………だが、その目は。その少年の目は、今の彼からは考えられないほどに、暗く、澱んで荒み切っていた。

 青あざだらけの腕を、だらりと下げて。悴み、真っ青になった指先を温めることもなく、ただ青い炎を眺めている。

 木々も、動物も、人々の悲鳴も。消える事の無い蒼い炎が、森ごと呑み込んでは焼き尽くしていく。

 パチパチと、炎の燃える音がする。

 先刻までは気にならなかったランタンの音が、やけに大きく響いて来るみたいで。

 グリードが標的になった理由こそわからないが、『試練』とは、つまりそういうことなのだろう。

 その人間の記憶を勝手に取り出して、揺さぶって、真贋を見極めて。

 そして──、

「…………っ、」

 咄嗟に、入り口から前方へと視線を移す。

 先刻までは、進むことに全力で、視界にすら入らなかった。

 俺の視線は、突き出た岩肌の陰に釘付けになっていた。

 黒ずんだ血痕に、まだ新しい、赤い肉の塊。

 回想する。

 山道に刻まれた、氷穴へと向かう先客たちの足跡。

 そしてその中には、一つとして『氷穴から出てきた』ことが伺える足跡が無かった。

 まずい、と。

 咄嗟にそう思った。

 急激に、空間の酸素が薄くなってくるような。呼吸を落ち着けようと深呼吸するも、嫌な汗が額から噴き出してきて。

 早く。早く進まなければと逸る胸中に反して、足が竦んだ。

 覚束ない視界の中に、壁を彩る肉片の一部となった自らを見た気がした。

「圭一くん、後ろがつっかえてる」

 散瞳する。その声は、直ぐ耳元から聞こえた。

「グリードさ、なんで……」

「見くびられたものだね。あんな子供だましに、私が引っかかるとでも」

「…………っ、」

「なんで君の方が死にそうなんだ……」

 そんな言葉と一緒に、背を押される。いつもは鬱陶しい温度に、無性に安心した。



 通路を抜けるやいなや、俺は腰を抜かした。

 呆然としたまま、鎌首を擡げる。無駄に高い天井に眩暈がした。

「生き延びた……」

「おめでとう。第一の試練クリアだ」

「…………」

「あと2回。頑張っていこうね」

 そして、果ての無い天井を押しのけるようにして写り込んでくる美貌に、半目になる。

 この角度では、美しい柳眉が良く見えた。柔らかな振る舞いに反して、存外意志の強そうな印象を受ける。

 よくもまあ、あのがらんどうみたいな少年が、ここまでの人間味を取り戻せたものだ。

「…………もうだめかと思いました」

「だから、なんで君が──、」

「グリードさんが」

 俺の言葉に、虚を突かれたように碧眼が見開かれる。

 気まずくなって、手の甲で目元を隠す。それでも言外に先を促されているような気になって、渋々口を開いて。

「……グリードさん、幸薄そうだから」

 結局、口から出たのはそんな言葉だった。

 目を覆っていた手の甲を、おずおずと外す。未だ何かいいたげにこちらを覗き込む男に、訳もなく息を吐いた。

 それが諦観から来たものか、緊張からきたものかはわからなかった。

「全部、燃えたんでしょう。山火事で」

「私は不幸?」

「……それを決めるのは、俺じゃないですけど」

「そうだね」

 うっすらと微笑んだまま、甲斐甲斐しく手を伸ばしてくる。

 少し迷っては、その手を取って起き上がって。まだ少しだけ足が痙攣しているようだったが、最低限歩けはするだろうと思った。

「思うに」

 そして、俺が立ち上がるのを認めては、グリードは次の試練へと向かう。

 小走りでその背を追って、隣に並び立つ。

「脈拍……あとは発汗?君はどう思う?」

「…………?」

「確かなのは、これが神の視点で真偽を判ずる機構ならば、あんな安っぽい揺さぶりは必要ないということだ」

「……ああ」

 ここにきて、ようやくグリードの言わんとすることを理解する。

 要はこの試練とは、浄玻璃の鏡ではなく、単なる噓発見器に過ぎないと。そういうことだろうか。

 改めて、この男の洞察力に感嘆を覚えつつ、自らの胸へと手を添える。

 等間隔な鼓動を確かめては、目を閉じて。

「だからね」

 なんて言葉に、ゆっくりと瞼を押し上げる。

「誰がなんと言おうと、私は私を不幸だとは思わない」

「…………だから、無事に通れた?」

「そう。人生を賭してでも果たすべき約束がある。幸福なことだ。そうだろう?」

 ──君にもわかるね?

 なんて。そんな声が聞こえたような気がして、わけもなく眉が寄る。

 …………グリードは、先代の『強欲』の友人だった。

 レタンタの山火事で家と家族を失ったグリードは、孤児院に引き取られることとなる。そこで出会ったのが、先代の『強欲』であり、グリードの親友となる男だった。

 腐敗した政治を敷く貴族と、平民から搾取した財で私服を肥やす富裕層。彼らから巻き上げた金の全てを、先代は孤児院の経営と森の復興に費やした。

 そして、ついに王家の怒りを買った先代は、『罪人隠匿』の嫌疑をかけられた孤児院を庇うため、その身を差し出した。

 そして死の間際に、グリードは先代から『強欲』の罪源を継承する。

 グリードの『目的』とは正しく、先代の成し得なかった、レタンタの森の復興と孤児救済だった。

 と、ここまでが作中での設定であるが。

「それを踏まえて、次の試練だ」

 パンパンと、乾いた音に意識を引き戻す。

 先刻までの憂いは見る影も無い。溌剌とした笑みを浮かべて、グリードは石碑を顎で示した。

「『悔い改める者だけ』」

「…………」

「さて、圭一くん。君の人生に後悔はあるかな」

 試すような言葉に、反射的に拳を握りこむ。

 眼裏に浮かんだのは、ひび割れそうな眼で叫ぶ友人の顔だった。

「当たり前だ」

「…………」

「……腐るほどある」

「気が合うね」

 何がおかしいのか、グリードはどこか楽し気に俺の頭へと手を添えた。

 冷たい風が、柔らかな藍髪を揺らす。

 魔力を帯びた氷が、血の気の感じられない相貌を半分だけ青白く照らし出して。

 不意に、炳として燃え上がる蒼炎が、一瞬にして部屋を埋め尽くした。

 人々の悲鳴と怒声が、広い空間を満たしていた。赦しを乞う声が、焼けただれては焦げ付いた。

 吹き荒ぶ熱風に、毛先から炙られていくような錯覚に陥る。

 それでも、俺の痛覚は熱も痛みも拾わない。鼻腔に届くのは冷えた氷の香りだけで。

 …………これは、虚像だ。

 …………レタンタの山火事?

「否──」

 少年が、微笑んでいた。

 何もかもを焼き尽くす業火の中央で、藍髪の少年が、ただ一人綺麗なまま。

 視線を右に。

 少年を生き写したような男が、やはり全く同じ微笑を浮かべていた。

「…………グリードさん」

「確かに、この力は私の些細な願いを叶えてくれた」

「……………」

「こんな具合にね」

 妙に、寒かった。およそ視覚とは乖離した体感に、足が竦むみたいだった。

 これが記憶であるという前提に、グリードの言葉を加味すると、彼の『些細な願い』については大方想像がつく。

 赦して、ゆるして、助けてくれ。

 悲痛に響く声は、恐らく彼から友人を奪った人間たちの物なのだろう。

「あなたは……」

「私は常に後悔と共にある。私をこのつまらない生に縛り付けてきたのは、いつだって後悔だった」

 尋ねるまでも無い。

 復讐を遂げた彼に後悔があるとすれば、それは一つしかない。

 けれども俺は、彼らの間でどのような会話が交わされたのかを知らない。彼の──グリードの内面を知らない。グリードから、友人を奪っておきながら。

 わけもなく、頸に手を添えていた。

 知っておくべきだ。

 俺には、俺の奪った物と、その行末を知る義務がある。

 カサついた唇が、はくと開閉する。

「何をしようとしているんですか」と。そんな言葉は、「圭一くん」なんて言葉に遮られる。

 熱風に煽られる、藍髪の下。慈愛すら滲んだ穏やかな双眸に、わけもなく背筋が伸びる。

「大抵の物事は、最善には進まない。ほとんどの場合、私たちは選択を迫られることになる」

「…………」

「だからね。どれだけ憂鬱なテーマであっても、私たちは向き合い、迷い続けなければならない」

 ─────その時になって、後悔の無い選択ができるように。

 その目は、確かに俺を見ていた。

 けれども意識は、はるか遠慮──ずっと昔の時間へと向けられているようだった。

「先達からのアドバイスだよ。逃げ続けた挙句、最後の最後に『選ばない』なんて最悪の決断をした」

「…………」

「…………おかげで、友人とも喧嘩別れだ」

 そして、早口に付け加えられた言葉には、自嘲が滲んでいる。「無駄話をした」と。

 そう言って、さっさとコートを翻す。

 ふわりと漂うシトラスの香りを感じながら、ただその背を見送って。

 俺はただ、傷ついたまま息を吸うことしかできなかった。

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