第15話 ☆『怠惰』と『憤怒』 特殊疾患病棟にて

 人が何百人横並びになっても、まだ余裕があるほどに巨大な建造物。一歩足を踏み入れるとそこは、『王立病院』の名と赤煉瓦のレトロな外装に反して、極めて現代的な研究施設のような造りをしていた。

 白の床を長い脚で抑えつけながら、二人の青年が院内を闊歩する。一歩前を歩くのは、金髪に翠眼を持つ凛とした青年で、その後ろに、黒髪にアンバーの瞳を持つ儚げな風体の青年が付き従う。美しい一枚画のような光景は、多くの患者や職員の目を引いた。


「僕の兄上に感謝することです」

 頭を下げる守衛を一瞥。金髪の青年は、眼前の扉の厳重な警備が解除されるのを見守りながら口を開いた。

「彼の方が日頃から多額の寄付をしていなければ、特殊疾患病棟の患者との面会許可など、まず降りません。お分かりですね、狩野様」

「勿論です、モーガン様。ユーチェスター公には多大なる感謝を」

『狩野様』の言葉に、『モーガン様』はただ胡乱な目を向けた。やがて、解錠された扉に、特殊疾患病棟へと足を踏み入れる。薄暗い廊下を暫く歩いて。

「……寄付をすれば、赤の他人が患者と面会できるんだ」

「実利は医療倫理に勝る」

 二人きりの廊下で交わされる会話には、先刻守衛の前で見せたような距離はない。長年の知人のような砕けた口調で会話を交わしながら、二人はガラス張りの壁の隣をすり抜ける。

 ガラス板の向こうからは、落ちくぼんだ目をした男や女が、二人を目線だけで追っていた。

 窶れ、憔悴しきった彼らは亡者のようであったが、実のところ皆が皆、精神を病んだだけの人間だった。

「往々にして、この世界の人間は倫理だとか人権だとかを軽視する傾向にある」

 そんなモーガンの補足に、「そうみたいだね」と苦笑を漏らして。狩野は、ガラス越しに目の合った女にペコと頭を下げた。

 そして、「貴様」という言葉に、再び視線を眼前の青年へと移す。

「『圭一クン』を迎えに行かなくて良かったのか?」

「彼らが圭一を拉致したのは、おれとの交渉材料を得るためだ。これは所感だけど──『暴食』はともかく、『強欲』は、かなり合理的な思考をする人なんじゃないかな」

「だから、乱暴はしない?」

「……少なくとも、交渉のときに不利になるようなことは」

 そんな言葉に、若葉色の双眸が見開かれる。「冷静だな」と零した表情は、どこか態とらしく驚きを表現しているようだった。

「とても、想い人を手籠めにしようとした奴の言葉だとは思えない」

 悪意に尖った言葉に、狩野は気不味げに仰け反った。

 金色の瞳を虚空に彷徨わせる。ややおいて、困ったように眉根を寄せた。

「…………圭一のこと、怖がらせちゃったから」

「お互い、少し冷静になる時間が必要だと思うんだ」

「いくつか、知っておきたいこともあるし」

 ぽつり、ぽつり。

 言葉を零すごとに、その表情は曇っていく。

 そして、ついに伏せられた相貌に、長い前髪が影を落として。

 「それに」と落とされた声音に、モーガンの表情が削げ落ちた。

「後から、どうとでもなる」

 ────何もかも。

 囁くような声音とともに、金眼がほの暗く淀む。

 そんな一連の挙動を横目で見て、モーガンは口端を薄らと吊り上げた。「『冷静』、ねぇ」とせせら笑いながら、とある扉の前で足を止めた。

「20代後半の男。国籍は日本。記憶喪失、意識の混濁、妄想、支離滅裂な言動等の症状が見られ、『自らは、この世界とは全く違う様相の世界からきた来訪者である』という『妄想』に取り憑かれている」

「…………」

「希望通りの検た……患者だろ」

「うん。ありがとう、モーガンくん」

「あと、ここにいる連中は繊細なんだ、丁重に扱ってくれ。壊すなよ」

「…………壊すだなんて」

 そんな否定を聞き流して、モーガンはドアプレートに『面会室』と刻まれた扉を引く。薄暗い廊下に、室内灯の明かりが漏れ出る。

 部屋の奥の椅子に座っていたのは、昏い目をした若い男だった。

 伸び放題の黒髪に痩けた頬。そして、目元の大きな傷。総じて、枯れ木を彷彿とさせる風体である。

「すみません、どうしてもあなたとお話したくて。おれは、狩野。狩野幸人」

 窶れ切った男の上躯が、警戒に仰け反る。そんな様子に、狼狽したように後頭部を掻いて。

「日本生まれの東京育ち。……あなたと、同じです」

 控えめに言いながら、狩野は室内に体を滑り込ませる。やはり人畜無害な、気弱な笑みを浮かべて。そんな堀の深い笑み顔を、室内灯が半分だけ赤く照らしていた。

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