第10話 おめでとう! 主人公 は ██に しんかした !
それから数週間は、狩野の手厚い介護のもと療養生活。授業のノートは勿論のこと、本当にご飯も、着替えもお風呂も、全部世話を焼かれた。流石に最終防衛ライン(排泄)は死守したが、いささか過保護が過ぎるというのが、正直な感想だった。
「あのさ」
言葉を切り出した俺を、狩野はまん丸な目で見た。俺の口に匙を突っ込んで、「なぁに」と笑う。口内に肉の旨味とほのかな香辛料の味が広がって、「美味!」と声が出るが。嬉しそうな顔をする狩野に、「違う、違う」と首を振って、顎を引く。
「そろそろ外に出ても良いんじゃないかな……なんて」
「えー?」
そんな、表情こそ和かな割に全く笑っていない声音に、冷や汗が伝う。これが初めての申し出というわけではなかった。
「まだ安静にしてた方が良いんじゃないかな?外は危ないし」
「三日前もそう言ってた」
「しょうがないじゃん、事実なんだし。……ほら、医者の言うことは聞いておくべきだよ?」
「まだ医者じゃないって自分で言ってたろ……大丈夫だよ、エンヴィが居ないならもう怪我することはないだろうし……」
「だめ」
「なんで」
「圭一、弱いんだもの」
「はぁ〜〜?」
青筋が浮かぶ。チンピラのように斜め下から睨め上げて、狩野に詰め寄る。狩野はやっぱり少し嬉しそうに、「近いよ〜」と間の抜けた悲鳴を上げた。
「一家の大黒柱によくそんなこと言えたモンだなぁ〜?いいさ、いいさ。今度から俺は、1人分のケーキ代だけ稼げば良くなったわけだし?」
腕を組んで、相貌を逸らす。横目で様子を伺いながら、ふと脳内に浮かんだ疑問に、「あれ」と掠れた声が漏れた。
「おい、かの……うう!」
そして、狩野に呼びかけた声が途切れる。
骨張った温かい手に、両頬を挟み込まれたからだ。俺の言葉を遮っておきながら、そいつは頬をもちみたいに捏ね回してくすくす笑っている。カサついた手のひらの感触が、妙に擽ったい。
平生ならぶん殴っているところが、あまりにも嬉しそうに笑うものだから、何も言えなくなってしまって。
「圭一」
「むぁんだ!」
「良いよ。外、出てみる?」
邪気のない微笑みからは、相変わらず真意は窺えない。結果、「むぇ……」と変な声を漏らすしかできない俺に、また狩野はくすくす笑った。
「でる…………」
どんな心変わり?と首を傾げる俺を置き去りに、当の本人はさっさと支度を始める。そのご機嫌な背を眺めながら、俺は自分の身の回りを見回した。
「狩野」
「なぁに」
「俺の手帳、知らない?」
先刻、討伐やら金やらの話をするまで忘れていたが。目を覚ましてから、俺の手帳がどこにも見当たらないことに気付いた。
エンヴィとのいざこざで、紛失してしまったのだったっけ。
俺の言葉に、一瞬だけ作業の手を止めて。
「知らないや。ごめんね」
半身で振り返った狩野の表情に、俺は無意識に二の腕を摩っていた。
***
氷塊みたいなホイップの山に、チョコレートケーキとシュークリームが丸々一個ずつ突き刺さっている。いつ雪崩が起きてもおかしくないような不安定さだが、それらは奇跡的なバランス感で調和している。ちょっとした山みてぇだ。
ではこのクソ長いスプーンは、さながらピッケルだろうか。
「デラックスパフェ…………」
ピッケルを握って呆然と呟けば、でっけぇパフェの後ろから端正な相貌が顔を出す。緩み切った表情で頬杖を突きながら、「そ」と言う。
「圭一、食べたいって言ってたよね。召し上がれ」
「ああ、うん……でも、俺無一文だぞ」
「退院祝いだよ、気にしないで。ほら、圭一も言ってたじゃん。おれが頑張れば、ガッポガポだーって」
でもそれには金が必要で、そのためには更に、討伐に出る必要があって。わけもなく、スプーンを握る手に汗が滲む。何となく、パフェを食べる気にはなれなかった。
「というか、討伐行ったのか。あれだけ嫌がってたくせに」
「うん。おればっかり、ワガママも言ってられないなって」
閑散としたカフェテリアに、数刻の沈黙が落ちる。誤魔化すように「そうか」と答えて。漠然とした不安に突き動かされるように、スプーンをパフェへと突き立てた。
「じゃあ、あれ。攻略の幅も広がるな」
「攻略……?」
まるで、たった今しがたその言葉を思い出したような。
俺の言葉を復唱するその声音に、朧気だった不安が、明確な形を取るのが分かった。
「……そうだよ。攻略しなきゃ、お前はずっと…………」
「ああ、うん。頑張ろう。またあれしようね、作戦会議」
「狩野、お前……」
「…………頑張って、俺を解放してね。圭一」
すぅ、と。琥珀色の双眸が、弧を描く。その温度は、やはり全く知らない物で。味の無いパフェを咀嚼して、もったりと気持ち悪いそれを飲み下す。
「おれが寝てた間何があった?」
「またそれ?おれは反省文書いて、嫉妬は療養……あ、でも先週出てきたみた……」
「ちがう、『お前に』何があったのかって聞いてる」
二重幅の広い双眸が、見開かれる。スプーンを完全に置き、眼前の青年を見据える。ややおいて、生白い相貌には薄笑みが佩かれた。
「ちゃんとしなきゃって思ったよ」
「…………」
「例えば、ほら。安全で過ごしやすい環境を整えなきゃなとか。また振り出しに戻っちゃったわけだし」
薄笑みのまま、温度の無い金眼だけがぐる、と虚空を眺める。
上躯を仰け反らせた俺との距離を詰めるように、机に肘をつき顎を乗せた。「圭一」と弾んだ声を上げる表情は、悪戯を仕掛ける前の子供みたいだった。
「犬とか、すき?」
「…………なんだよ、急に」
「いいからいいから。犬派?猫派?おれの予想はねぇ~」
「猫派だけど」
「やった、当たりだ」
弾んだ声音は、やはり子供のそれみたいに無邪気な物だった。
ぱん、と。
続けざまに、乾燥した音が響く。手を叩いた体勢のまま、眼前では狩野がただ微笑んでいた。
刹那。
視界の端──テラスの手すりの外。黒い影が、一瞬で上から下へと通り過ぎては見えなくなっていく。
重量を伴った何かが、叩きつけられて潰れる音。
「は、」
つんざくような悲鳴が、下層で響いた。
気付けば、俺は齧りつくように手すりから身を乗り出していた。下の階をのぞき込んで、直ぐに後悔した。白く舗装された床に、真っ赤な血だまりが出来ていた。
その中央。よく見えないけれど、右手が変な方向に曲がっているのはわかった。紫色の長髪に、失われた右脚。
「ぉ、えぇ……!」
事態を理解する頃には、俺はその場に蹲っていた。
食道から込み上げる不快感に、口元を覆う。重いホイップと胃酸の混じった苦い味が、口内に広がって。赤、白、白、赤赤。先刻の光景が、目裏に焼き付いては毒々しく点滅した。
意味が分からなかった。何だあれ、死んでる?人が死んでた?わからない、思い出したくない。でもあれは、
「…………エンヴィ?」
「犬だよ」
上から降ってきた声に、口を抑えたまま相貌を擡げる。
背中で腕を組んだまま、狩野がこちらを見下ろしていた。青空を背負って。今は逆光で見えない表情に、心底安堵している自分がいた。
「圭一が猫派なら、もう要らないや」
「え……は…………?お、れが、猫派だから……?」
「あ、ちがうよ!そうじゃなくて、あれが猫じゃないから」
「…………意味が、分からない、あいつはそもそも犬じゃ…………」
「犬だよ」
そう言い切って、膝を折る。
柔らかく撓んだ双眸も、弓なりに弧を描いた赤い唇も。何も変わらない笑顔が、無性に恐ろしく感じられた。
「か、の、」
「でも、えへへ。俺もだんだん圭一のことわかってきたよね?ね?圭一はきっと猫派だって──」
「狩野!」
喉が痛んだ。
自分がこんなに悲痛な声を出せるだなんて、知らなかった。
少しだけ丸くなった金眼が、ゆったりとたわむ。
とろりと甘やかな微笑みを浮かべたまま、人差し指で俺の目元を拭った。
そして、吐瀉物だらけの俺の手を、何の躊躇いもなく包み込む。次に手を離したときには、俺の手からも、狩野の手からも吐瀉物は消え去っていて。
「圭一、褒めて」
慈愛に満ちた表情のまま、睫毛を伏せて俺の肢体を抱き抱える。どっかの宗教画の聖母みたいだった。
「圭一が寝ている3日間で、『嫉妬』と『色欲』を屈服させたよ」
「は?」
「言ったよね。環境づくりは大事だし」
意味が分からなかった。わけのわからないまま、促されて椅子に座る。対面の席には座らずに、狩野は俺の背後に佇んだまま「ねぇ」と言った。
「この世界って、とってもシンプルだよね」
「圭一か、敵か。全部二元論で片付く話だったんだよ、最初から」
「──支配してしまえば、あまりに易い」
白くて骨ばった手が、背後から伸びてきては俺の相貌を包んだ。そして、他人の肌に触れて、初めて、俺は自分が震えていることに気付いた。
「震えないで、もう何も怖くないよ。悪いもの、怖いもの。おれが全部支配してあげるから」
呼吸が乱れる。
言葉が出なかった。どうにかして絞り出した言葉は、「ごめん」なんていう情けない言葉。耳元に寄せられた唇が、弧を描いたのがわかった。
「『ごめん』?」
「ごめん、おれが、……えっと、俺のせいで、お前は」
「どうして圭一が謝るの?」
頑是ない子供を諭すような、優しげな口調。そんな穏やかな吐息に、訳もなく消えたくなった。
狩野は底が抜けてしまった。壊れてしまった。
俺が、壊してしまった。
「…………よくわからないけど。あ、思い出した。おれこそ、圭一に一つ謝らなくちゃなんだよね」
言葉と共に、眼前に差し出されたそれ。
目を見開くと同時に、「ごめん」なんていう罰の悪い声が降った。
「それ……おれの、」
「そう、手帳。実はおれが預かってたんだよね」
「…………ああ、」
掠れた声が漏れる。その声音は、自分のそれとは思えないほどの絶望に濡れていた。
────何が見える?
せせら笑う声に、唇が震える。なんで、どうして。そんな混沌の渦巻く思考の中で。
『憤怒;狩野幸人』
手帳に記された言葉に、「どうして」という絶望が脳内を埋め尽くしていく。
「水臭いよ。どぉして教えてくれなかったの?」
柔らかな風が吹く。黒髪をさらさら攫っては吹き抜ける。伏し目がちな睫毛の下から、ぴかぴかと光る金色が覗いていた。
「──『憤怒』は、おれ自身だったんでしょう」
……罪源者は、強大な力を持つかわりに、例外なく破滅する。
だからこそ、主人公が『憤怒』の罪源者の素質を持つことを秘匿した。討伐からも遠ざけて、魔法を使う機会を最低限に留めた。
億が一にも、彼奴の選択肢に『罪源者ルート』が入り込まないように。
なのに──。
「その気になれば、『俺たち』にできないことは無い」
「親切な人が教えてくれたよ」
反射的に手帳に伸ばした手が、空を掻く。
勢いよく立ち上がったせいで、椅子が倒れる音がした。俺の手から手帳を避けながら、狩野は「危ないよ」と気まずげに笑う。
それは何処か、怒られることに怯える子供の目に似ていた。
「返せ」
「…………それはいや」
「俺の手帳だ」
「いやだ」
「なんで」
「嫌われたくない」
「嫌うわけないだろ、たかが手帳で」
「たかが手帳なら、俺が持ってたって良いでしょ」
すねたような声音に、眩暈がした。何もかもがアンバランスで、歪で。まだ俺は列車の中に居て、質の悪い夢を見続けているのではないか。そんな気すらしてくる。
気付けば、顔を覆っていた。
わかっている。狩野の変質を嘆く資格など、俺にはない。
何せ狩野がこうなったのは、俺を守るために他ならないのだから。実際狩野がいなければ、間違いなく俺はあの場で死んでいた。
けれど、だけど。
人を虐げ足蹴にしながら、ただただ綺麗に微笑んで。
以前と変わらないその微笑みが、どこまでも異様でいて、そして悲しかった。
やはり、この世界にいると、狩野はどんどん摩耗して、歪んでしまう。
「…………あと、すこしだったのに」
口から漏れた嘆きに、息を呑むような音がする。
同時に、頭頂から血の気が引いていく。
……俺は今、何を口走った?
俺は、今の狩野に一番聞かせてはならない言葉をぶつけてしまったのではないか?
咄嗟に口元を手で覆うが、一度吐き出した言葉は当然戻らない。
案の定、狩野は酷く傷ついた表情をしていた。次の瞬間には本当に泣き出してしまうような。
「ごめん、違う、ごめんじゃなくて……あの、狩野、おれは、」
「圭一」
「……っ、」
名前を呼ばれて、息を呑む。
悲哀に湿った目元に反して、口元は、無理やり吊り上げたような歪な弧を描いている。
顔の上半分と下半分で、別々の感情を表現しているような。
あまりにも痛々しい笑顔だと思った。
苦しそうに笑いながら、唇を僅かに開閉させる。眉根を寄せて、縋るように手帳を抱き直して。
「圭一。おれ、圭一が好きだよ」
手帳を抱いたまま落とされたそれは、告白だった。
「……俺も、好きだよ」
そして俺は、意味の分からないふりをして、それを誤魔化そうとする。
いつもならば、そこで終わる会話。
互いが互いに、相手の意図に気付かないふりをする。
「──ああ、」
その声を聴いたとき。俺は、自分が今この瞬間、取り返しのつかない過ちを犯したのだと理解した。
次に俺を見たのは、淀み、据わりきった金眼だった。
諦観、悲しみ。そして、憤怒。
負の感情に冷め切った色彩は、俺に対する失望にほかならない。
「狩野、ちが……」
「……圭一は、ひどい」
「…………」
「ひどいけど、優しいね。……だからおれみたいなのに、縋られるんだよ」
唸るように言って、相貌を伏せる。
「分かってたよ。おれ、本当は分かってた。圭一は、誰かが傷付くのを見て喜ぶような人間じゃない。こんなことしても、悲しませるだけだって」
一歩。
「でもね、おれ、我慢できなかったの。憎くて。憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて」
一歩。
「圭一を傷つけたあいつが。おれから圭一を奪おうとしたあいつが。あれだけのことをしておいて尚、圭一の優しさを享受しているあいつが。あとは────」
一歩。
「────誰にでも優しい圭一が、憎くて仕方がない」
歩みと共に、絶えず吐き出される呪詛。距離が縮まるごとに嫌な汗が噴き出してくる。
鈍色の冷気が、足元からひたひたと這い上がってきて。纏わりつくような重さに、指一本動かすことができない。
顎に掛かった骨ばった指に、く、と相貌を上向かされる。
「だから、ね」
虚ろな虹彩の向こうで、きゅう、と瞳孔が細くなるのが見えた。
「圭一のぜんぶ、おれにちょうだい?」
目が逸らせない。唇の隙間から、よく分からない音が漏れる。高い鼻を擦り合わせるように、「圭一」と囁かれて。自分の瞳孔が、収縮するのが分かった。
何かを請い、願うような声音に、思考が侵されていく。からっぽな頭に残っていたのは、「この可哀想な青年の願いを叶えてあげなければ」という使命感だけだった。
眼前に迫った白い指先を、ただ眺めて。
「…………っ、」
同時だった。弾かれるように遠ざかった指先に、先刻までの重圧が霧散する。
同時に、俺と狩野を覆うように展開される黄金の障壁。
爆音とともに、赤い閃光が狩野の眼前で飛び散っては消えた。
1秒にも満たない攻防。
踵に傾いた重心のまま、狩野を追うように俺の視線もまた、襲撃者へと吸い寄せられていて。
「ユキト、よそ見は酷いよぉ!」
妙に間延びした声音に、爛々と輝く、血の色をした瞳。無造作な栗毛を風にあおられながら、青年は犬歯を剥きだして笑っていた。
「…………グ……ッ、」
──グラトニー!
何でお前が此処に、なんて。叫びかけた声が途切れる。
グラトニーが手を翳すと同時に、第二波が押し寄せたからだ。暴力的な赤い魔力の奔流を、狩野が煩わしげに相殺していく。
壁を抉り、ソーサーとティーカップを薙ぎ倒し。
最上位の魔導士たちの攻防に、気圧されるまま後退る。そしてそのまま、「あ、」なんて間抜けな声をあげて目を剥いた。
伸びてきた腕が、俺を顔面ごと背後へと引き寄せたからである。
「むゎに?!むぉあ!」
「静かに。『憤怒』に気取られる」
言葉の割に余裕のある男声に、言われるがまま息を殺す。口を塞がれたまま視線を上げれば、男の優し気な双眸と視線がかち合う。ウェーブがかった藍色の短髪に、藍と金の混じったような、不思議な色彩の瞳。
俺は、この男を知っている。知ってはいるが、なぜここにいるのかだけは理解できなかった。
「あなたは……」
「親しみを込めて、グリードさんって呼んでね」
「『強欲』!」
「グリードね、グリード。……おっと」
黄金の閃光を片手間で弾く。反射した光がテーブルを貫通しては風穴を空ける光景に、ヒュウ、と口笛を吹いて。
「ちゃんとした自己紹介は、後にしよう」
俺の肩を抱いたまま、学生指定のケープコートを翻す。
重量と重量がぶつかり合う音に、絶えず響く破砕音。合間に響く、グラトニーのしゃがれた笑い声。
「口を閉じておくんだよ、舌を噛むからね」
ケープコートに視界が暗く覆われるのと同時に、すべての音が一瞬で遠ざかって行った。
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