第3話 名もなきカフェ
先に出てきたブレンドコーヒーを一口飲んで、その香りと味に驚いた。
「このコーヒー、すごく美味しいですね」
「ありがとうございます。当店のオリジナルブレンドです。オムライスももうすぐできあがりますよ」
隠れた名店とはよく言ったものだ。これならオムライスも期待が持てる。お腹が空きすぎて、またグゥグゥと鳴りそうなのを堪えながらコーヒーを味わう。
庭のほうから足音が聞こえてきた。お客さんかな? ここがカフェであることを知っているのなら、きっと常連なんだろう。新参者の私が一番乗りしていたら嫌味でも言われないだろうか。
そのお客さんは扉を開けるなり、「ルリさん、ちょっといいかしら?」と話し始める。入ってきたのはマスターよりいくらか若い老婦人。私の心配をよそに、座っている後ろを通り抜けると、店の奥で調理をするマスターのほうへ歩いていく。
ところで今、『ルリさん』って言った? それがマスターの名前かしら? どう見たって”お爺さん”って感じなのに、ずいぶんと女性っぽい名前なのね。
マスターが私のオムライスを作っているのもお構いなしに、老婦人は”ルリさん”に話しかける。
「ずっと一部屋空いたままで困ってるの。だから入居者募集のチラシを作ったのよ。でもひとりで配るのは大変でね、人が集まるところへ置いたら、楽に配れるんじゃないかと思って……。それでね、このお店にも置かせてもらえないかしら?」
「構いませんよ。ですが、そういうことは不動産屋に任せた方がよろしいのでは?」
「それがね、断られちゃったのよ。うちみたいなことろは特殊だからって」
話の内容からすると、この老婦人はアパートの大家だろうか?
入居者の募集をしたいのはわかったけれど、不動産屋が関われない特殊なところっていったいどんな部屋なの? まさか……、お化けがでるとか? そんなのマスターも断ればいいのに。
「それじゃ、お願いね。そうそう、あなたもよければ検討してみて」
マスターとの交渉を終えた老婦人は、帰り際に私にもチラシを渡す。
えっと……、私にもお化けの部屋を検討しろ、と?
チラシを手にしているだけでも祟られそうで、すぐにテーブルの上に置いた。呆気に取られる私をよそに、老婦人は満足げに店をあとにした。
今のところ引越しする予定はないから、私にこのチラシは不要だ。それに、特殊なアパートなんて恐ろしくて住みたくもない。
眉をひそめていた私の心中を察したかのように、マスターが話しかけてきた。
「お騒がせして申し訳ありません。あの方は近くにあるシェアハウスの大家さんなのです。ここを紹介してくれたのもあのご婦人で、お世話になっているため
本当に申し訳なさそうに話すマスターに同情してしまう。近所付き合いというのは会社の同僚との付き合いと同じで、仲良くできる人もいれば、厄介ごとを引き起こす人もいる。
「いいえ、お気になさらずに。『特殊なところ』って、シェアハウスのことだったんですね」
お化けがでる家ではないことに安堵したものの、引越予定のない私にはやはり興味は湧かない。置いたチラシを再び手に取ることはなかったが、シェアハウスというあまり縁のない言葉が気になり、横目でチラッとだけ見てみる。
手書きの文字で、”格安。陽当たり、見晴らし良好!”と大きく書かれている。建物の挿絵まで描かれて、いかにもとてもいい物件であるというアピールが見て取れる。
それでも細かな内容までは興味が持てなくて、間取りや家賃なども目を通したはずなのに、なにも記憶に残っていない。
シェアハウスの”シェア”とは、共有や分担という意味がある。施設内のトイレやお風呂、それに台所なども共有で使い、それらの掃除は分担で行うのかもしれない。部屋は個室? 二人部屋の可能性もなくはない。まさか大部屋ということはないだろう。修学旅行じゃあるまいし。
居住者たちと仲良くできなければ、一緒に生活するのは難しい。会社で仮面をつけて働き、家に戻っても仮面を外せない。そんな生活は、私には無理。
不動産屋が”特殊”と表現して仲介を断るのも納得だ。
「ここからも見えますよ、シェアハウス。洋館風で見晴らしのいいところです」
「そうなんですか……」
気のない返事をしたあとに、待望のオムライスが出てきた。
味は、普通だった。
だいぶお腹が空いていたので、出されたオムライスはあっという間に食べ終えてしまう。腕時計を見ると、すでに十時を過ぎていた。会社を辞めてしまった今となっては、急ぐ用などなく、もうしばらく落ち着いた時間を過ごしたい気分だ。
他のお客さんが入ってくる気配はない。少しだけ居座っても大丈夫だろう。
美味しいコーヒーをおかわりして、ゆっくりと流れるひと時を楽しむことにする。
初めて入ったお店なのに、ずっと昔から知っているようで、なぜだか妙に落ち着ける場所だ。優しそうなマスターと店の雰囲気が、居心地のよさを加味している。自宅以外に、こんな風に自分だけの時間、自分だけの居場所で過ごせるのは希少な体験だった。
私はグラスを磨いているマスターに話しかけてみた。
「このお店はとても落ち着けて素敵なところですね。ぜひまた来たいのですが、お店の名前はなんというんですか?」
「店名ですか……?」
なぜかマスターは、また髭に手を当てて考えるような素振りを見せた。外に看板らしきものもなかったし、まさか店名がないとか?
「しいて言えば”青い鳥”ですかね」
「青い鳥って……メーテルリンクの童話にでてくる鳥のことですか?」
「ええ、よくご存じですね。私の名前、苗字は“
「珍しいお名前……。あっ、それでルリさんと呼ばれていたんですね」
マスターは恥ずかしそうに「老人にしては可愛すぎる呼び方ですよね」と笑ってから、「同じ名前の鳥がいるんですよ。オオルリという名前の鳥が」と言った。
「もしかして、その鳥の色が……?」
「そうなんです。とても鮮やかな青い色をした鳥です。以前、カメラ好きの友人にオオルリの写真をもらったんですよ。ほら、あそこに」
マスターが指をさした壁には、いくつかの額に入った写真が飾られていた。風景や人物の写真に並んで、枝にとまる青いオオルリの写真が、並べられた額の中央でひときわ映えていた。
「これがオオルリ……。きれいな青い羽をした鳥なんですね」
「実は童話に出てくる青い鳥というのは、オオルリではなく、ルリビタキという鳥なのですがね」
「”青い鳥”という店名にしたら、本当に幸せを呼んできてくれそうなのに」
私の言葉を聞いたマスターは、急に顔を曇らせた。
「幸せですか。本当に呼んできてくれるといいのですが……」と呟いたあと、はっとしたように「あっ、どうぞお気になさらずに」と言って、再びグラスを磨き始めた。
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