第16話
私の名前は
平々凡々な幼少期を過ごし、無難に公立女子校へ進み、薬学部へ入学。そして製薬メーカーの研究部門に就職した。
同僚は東大卒とか大学院卒とか……なんだか凄い人たちばかりだった。場違い感を覚えつつも、私は大好きな実験に没頭する日々を送っていた。で、ふと気付いた時にはチームリーダーになっていた。
役職に興味はないけれど、自分の裁量で実験を計画して、動かせるようになったのは嬉しかった。ますます私は研究にのめり込んでいった。
恋愛より実験、研究。最高っっ!
試薬や実験器具に囲まれた毎日は至福でしかなかった。
周囲が私のことを「変人」「マッドサイエンティスト」なんて呼んでいることには気づいていたが、気持ちは分かる。もっさりした天パに長い前髪。顔立ちは地味だし、猫背だし。
それでもメンバーが私についてきてくれたのは、私が明るい変人だったからだと思っている。おしゃべりなお母さんとお姉ちゃんに可愛がられて育った私は、「なんだ、話すと結構普通じゃん」と言われるタイプの人間だった。温かく育ててくれた家族に感謝したい。
――そもそも、この仕事を目指すきっかけも家族だった。
私が中学生の時、お母さんが乳がんになった。幸い早期だったから手術で完治したけれど、あの時はすごく怖かった。父に捨てられたうえに、優しいお母さんまで死んでしまうのかと。
だから薬剤師になって、新薬を開発しようと思った。もともと理科とか化学が好きだったのもあるけど、一番の目的は大切な人を守るため。自分の手で、自分の頭で、病気という運命に抗いたい。そういう想いからだった。
◇
研究所から徒歩5分の自宅マンションには、日付が変わる頃寝に帰るだけ。
そんな日々を何年かすごし、ついにその日が来た。
――――そう、ついに念願の新薬が完成したのだ。
今回完成したのは、今世界中で猛威をふるっている細菌、スタフィロコッカス フィラメンタスに対する新薬だ。
顕微鏡で覗くと粒粒が棒状に連なっている姿をしているコイツは、高熱と特徴的なハート型の発疹を主症状とする。ハートと言えば聞こえは可愛いが、運が悪いと内臓がやられて死んでしまうこともある、悪魔みたいな病気だ。だから「ハートの悪魔」なんていう二つ名を、どこかのマスコミがつけていた。
水際対策が功を奏してまだ日本には入ってきていないけれど、時間の問題と言われている。致死率は3割との統計が発表されており、それなりにヤバい病気だと思う。こんな得体のしれない奴に、私の大事な人を誰ひとり殺させはしない。その一心で日夜新薬開発に打ち込んできた。
――――だけど私は、致命的なミスを犯してしまった。
ぼんやりと考えながら、私は新薬『XXX-969』が入ったバイアルを握りしめる。その手にある無数のハート状の湿疹が視界に入り、私は一つため息をついた。
「やっちゃったなぁ……」
今日は日曜だから、実験室には私1人。自主的に休日出勤し、一足早く新薬を完成させたわけだ。実験スペースにある自分のデスクに座りながら、回らない頭を無理やり回す。
「あの時かなぁ……? それとも、防護服に穴でも開いてた?」
いつ感染してしまったのか記憶を掘り返してみるけれど、菌は小さすぎて目に見えない。正解なんて誰にもわからないよね、と早々に思考を放棄した。いずれにしろ感染しているという事実は変わらないのだ。研究対象に感染するなんて、研究者として失格だ。
数日前から何となく体がだるい感覚はあった。昨夜、お風呂で体にポツポツ赤いものが出ているのも気づいていた。まさか、と思いつつもすごく怖くなってきて、ろくに体も拭かず布団に潜り込んだ。
そして今朝ひどい頭痛と熱があり、そして発疹が出ている現実を突き付けられ、1秒でも早く新薬を完成させるため出勤したのだった。
「私は助かるかな……?」
研究生活は本当に楽しくて、やりがいがあった。でもいつかは恋愛もしてみたかったし、結婚とか子供とか……家族でほんわか暮らしたかった。
目の前のデスクが水面のように揺れ、じわりと熱くなってきた。いかんいかん。
持参したミネラルウォーターで新薬を流し込む。
動物実験レベルではフィラメンタスに効くことが分かっているが、ヒトへの治験はこれからだ。
「人体実験だね」
ふふふ、と乾いた笑いをこぼしながら研究所を後にする。
マンション前の自販機でスポーツ飲料を買い込み、パジャマである高校時代のジャージに着替えて早々に布団へ潜り込む。
次に目が覚めた時には元気になっていることを願って目を閉じた。
◇
その願いは半分叶い、半分叶わなかった。
目覚めたら元気にはなっていたが、見知らぬ森に居た。
無意識にコンビニにでも行こうとしてどこかで行き倒れたのか、はたまた誘拐事件に巻き込まれたのか、様々な可能性を考えた。
しかし、毒キノコを食らった女の子を助けて街に出た時――後にトロピカリという村だと知るが―――ここは日本ではない、地球でもない異世界だということを知ったのだった。
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