第11話

それは日課のスープを作っていた時のことだった。

 右手で鍋をかき混ぜ、左手でお尻を掻いていると、声が掛かった。


「久しいな、セーナ。尻がかゆいのか?」


 その声にドキッとして振り返る。

 この家を訪ねて来る人なんてほとんど居ない。まれにサルシナさんが緊急の仕入れに来たり、健康相談に来る村人がいるけど、防犯上女性のみにさせてもらっている。


 だから男性の来客なんて心当たりは1人しかいない。


「こっ、こんにちは…っ!」


 とても背が高いその人は少し屈みながら部屋に入り、こちらを真っ直ぐ見る。

 相変わらず恐ろしく美しいデルマティティディスさんが居た。天鵞絨のように艶やかな黒髪に、完璧な配置の顔、見るものを惹き付ける圧倒的なオーラ。


(本当に来てくれた……)


 軽い口約束だと思っていたのに守ってくれたことに思わず胸が熱くなる。

 前回彼が来て…というより行き倒れてから3カ月も経っている。諦めというか、やっぱり社交辞令だったかぁ。という思いで過ごしていたところだ。


(……お父さんも、すぐ帰るって言ったのに戻ってこなかったし)


 私は父親に捨てられている。

 父にどんな事情があったのかは分からないけど、残された幼い私と姉、母は深く傷ついた。

 今更父にどうこうという感情はないけれど、それ以来、何事にも期待しない癖がついてしまった。


 デルマティティディスさんに関してもそうだ。

 茶飲み友達、なんてお願いをしたけれど。彼は高貴な人物であろうと思っていたし、そんな人物が律儀に再訪する訳は無いだろうと理解していた。もし薬が必要になっても使用人を差し向ければ済む話なのだ。


 だからこそこれは嬉しい誤算だった。

 心が溶けそうな喜びを感じつつ、鍋の火を消す。


「本当に来てくれたんですね! 嬉しいです」


 笑顔でそう告げて、彼をテラスへ案内する。

 今日は晴天でとても気持ちの良い陽気だから、外でお茶を飲むのもいいだろう。



 ―――お茶を淹れて自分も隣に座ってみたものの、何を話したらよいか困ってしまった。


(私が話し相手になってほしいと言ったのだから、話題の提供をすべきなんだけど……)


 沈黙が気まずい。


(……ライは関わるなって言っていたけど、どうしても悪い人には見えないんだよね。良い人のふりをして油断させようとしているにしても、前回の発熱は演技なんかじゃなかったし、私を騙すのが目的ならもっと簡単な別の方法を取ると思うわ。力だって美貌だって、何ひとつ敵わないのだから)


 イケメン耐性のない私は、長い前髪の隙間から、こっそりと彼の様子をうかがう。

 彼は何ということもない顔をして湖を眺めている。ただそれだけなのに、絵画にでもなりそうなショットだ。


(……目がすごく綺麗)


 デルマティティディスさんの目は、夜空のように深い深い青色をしていた。

 きらきらした星のような光が、瞳のなかで瞬いている。どれだけ見ていても飽きない、いっそ吸い込まれてしまいそうな美しい輝きだ。


(――っていうか、デルマティティディスっていう名前、長いな。デルさんでいいかな?)


 なんとも身勝手な理由で、これより私は彼をデルさんと呼ぶことにした。もちろん心の中だけで。

 そんなことをぼんやり考えていると、デルさんと視線が合った。


「――――あ」


 凝視してしまっていた気恥ずかしさから目を逸らし、目の前の机を見つめる。


(どうしようどうしよう)


 なんだかとても自分らしくない。男性と接して心を乱すなんていうのは初めての経験だ。


 もしかしてデルさんは本当にフェロモンを出しているのではないだろうか。そうであれば、この動悸とか魅了感の説明がつく。角があるし、人間とは違う生態なのかもしれない。

 毎度彼と会うたびにこうなると困る。あとで身体検査をさせてもらえないだろうか――


 ――必死に机の木目を数えて心を落ち着けていると、目の前の机に大きな影が落ちた。


(あれ? まだ夕暮れには早いけど……)


 そう考えるのとほとんど同時に、右から何かが覆いかぶさってきた。


「で、デルマティティディスさんっ!?」


 デルさんが私にもたれかかるようになっている。肩のあたりに麗しい顔があり、えらくいい匂いがする。

 心臓が止まると思ったのは一瞬で、今やものすごい速さで拍動している。


「デルマティティディスさん、あの、よくないですよ。私たちは話し相手という関係ですから、このような距離感は必要ないと思います!」


 『話し相手』という意味を彼は何か勘違いしているのだろうか? それともライの言った通り危険な人物で、私を取り込むために色仕掛けに出たのだろうか? 


 なにか誤解しているのならきちんと訂正しないといけない。私は地味で冴えないけれど、誇り高きアラサーなのだ。

 耐性がないためうっかり彼の美貌に目を奪われたのは事実だけど、狙っているとか、自分をアピールするために家に呼んだわけではない。


 そんな混乱をよそに、肩にかかるデルさんの重みが増している。

 

(本当にいけないわ!)


「デルマティティディスさん、いったん離れてお話をしましょう!」


 そう言ってデルさんの体を引き剥がそうとしたところ…………彼は崩れ落ちた。

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