第31話

「はい、できました」


最後にきゅっ、と帯締めを三橋さんが締める。


「ありがとうございました。

……うわっ、全然苦しくない!

しかも綺麗!」


下手な着付けだと変に紐を締めたりして苦しかったりするものだが、そんなことは全然なかった。

着姿も凄く綺麗だ。


「ありがとうございます。

可愛い鹿乃子さんならいくらでも、着付けて差し上げますよ」


三橋さんは笑っているが、もしかしていままでもこうやって、多くの女性の着付けをしてきたんだろうか。

想像したらムカついた。


「他の女性にもこうやって、着付けをしていたんですよね」


「……そう、ですね」


すっ、と三橋さんが目を伏せ、一気に気持ちが冷えていく。

いままでの話を考えるに、ただの着付けで終わらなかったこともあったのだろう。


「……すみません」


自分の子供っぽいヤキモチが嫌になる。

あんなに三橋さんは店での接客が苦痛そうだったのに。


「鹿乃子さんがあやまる必要はありません。

それに」


するりと彼の手が、私の頬を撫でる。


「私の可愛い鹿乃子さんは妬いてくれたのでしょう?

ヤキモチを」


彼の両手が私を、上へ向かせた。


「あの、えっと」


はい、そうですと素直に言えるわけがない。

けれどじっと見つめられ、嘘はつけなくなる。


「……はい」


「……可愛い」


ちゅっ、と額に口付けが落とされた。

けれどそのまま、彼はじっと私を見ている。


「三橋さん……?」


「今日はきっと、不快な思いもつらい思いもたくさんさせると思います。

鹿乃子さんをそんな気持ちにさせると思うだけでも、つらい」


ざわざわする気持ちを抑え、黙って三橋さんの顔を見つめた。


「鹿乃子さんが私のものと言ってくださって嬉しかったんです。

とても、とても嬉しかった」


眼鏡の向こうでどんどん、彼の目が苦痛で歪んでいく。


「きっと貴方は今日、私が嫌いになります。

一瞬でも鹿乃子さんのものになれて、よかった」


なんでこんな、これで最後みたいなことを言うのだろう。

昨晩、あんなに言ったのに。


「なに、言ってるんですか!」


思いっきり両手で、三橋さんの手を叩いた。

必然、自分の顔にも衝撃が走る。


「昨日、諦めないって約束したじゃないですか。

私が、三橋さんを守ってあげます、って」


「鹿乃子さん……」


「諦めるなんて貴方らしくありません。

言ったでしょう?

貴方の辞書に諦めるなんていう字はないんだと思っていた、って。

だから――諦めないで」


出そうになった涙は、鼻を啜って誤魔化した。

まだ、最後じゃない。

だからいまは、泣くときじゃない。


「……私は」


覆い被さるように三橋さんが抱きついてくる。


「鹿乃子さんを妻に、したい」


「はい」


三橋さんは、心細そうに震えていた。

そっとその背中へ腕を回し、抱き締め返す。


「鹿乃子さんを妻にしたい……!」


「しましょう、私を妻に。

絶対に私は、ご両親も婚約者にも三橋さんを渡しません」


ぎゅっと痛いくらい、三橋さんの腕に力が入る。

私も力一杯、彼を抱き締めた。

ゆっくりと彼が離れ、涙で濡れた目で私を見下ろす。

三橋さんの顔が近づいてきて目を閉じた。

重なった唇はなかなか離れない。

しばらくしてようやく、少しずつ離れていく。


「……愛してる、鹿乃子」


ふっ、と僅かに笑った彼はまだ淋しげで、鷲掴みにされたかのようにぎゅっと心臓が締まった。

初めてした彼との口付けはどうしてか、ほのかにしょっぱかった。

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