第六章 漸は私の男です
第30話
翌朝、着物の準備をしながら気づいた。
「鹿乃子さん。
一緒に店へ……鹿乃子さん?」
様子がおかしいのに気づいたのか、三橋さんの声が少し心配そうになる。
「どうか、しましたか?」
「三橋さん!」
「はい?」
状況が状況だけに、私が思い詰めていて彼は不安そうだ。
「私、自分で二重太鼓に結べないの、忘れてました……!」
抜かった。
名古屋で一重太鼓なら手慣れたものでささっと結べる。
がしかし、二重太鼓は結べない……というより、結んだことがない。
袋帯できっちり装わなければいけないときイコール重要な行事なので、そういうときは着付けてもらうから必要がないのだ。
「ああ、そんなことですか」
「そんなことって大問題ですよ、これは!」
今日は三橋さんのご両親と対決だから、祖父の作ってくれた着物を着たい。
しかしながらあれには袋帯を締めなければならないのだ。
「近くに着付けのできる美容室……」
携帯で探そうとしたが、すぐに止められた。
「心配はご無用です。
私ができますから」
「……え?」
ちょっと意味がわからなくて、彼の顔を見上げる。
「一応、ですね。
女性の着付けもできるんですよ」
「ああ、そういう……」
にっこりと彼が笑って頷き、力が抜けた。
「じゃあ、お願いします」
「そうですね。
どうせだから全部、着付けをしましょうか」
「全部……」
とは、下着姿も晒すことになるわけで。
「あっ、えっと。
その」
「私に鹿乃子さんのすべてを、任せていただけないでしょうか」
じっとレンズの向こうから、艶やかな黒曜石のような瞳が私を見つめている。
――貴方のすべてを、私に捧げて。
そう語る瞳からは目が逸らせない。
「……はい」
操られるかのように身体が勝手に、了承の二音を発する。
「ありがとうございます」
三橋さんが微笑む。
それでようやく、――支配が、解けた。
さすがに完全な下着姿は恥ずかしく、着物スリップを着た状態で三橋さんの前に立つ。
「可愛い鹿乃子さんは和装ブラではないんですね」
着物スリップからは薄らと、下着が透けていた。
「あ、えと。
はい。
ノンワイヤーで胸が小さく見える……」
そこまで言ってはっ、と気づく。
そんな告白をする必要はないのでは?
「和装ブラの方が着姿が美しく見えるように設計されていますが?」
しかし気にすることなく三橋さんは長襦袢を着せていく。
「……和装ブラって、可愛いのがなくて。
それに和装専用じゃないですか。
これだと、洋服のときにも使えるので」
ああ、きっと呉服を扱う商売人としての興味で、訊いているのだとほっとしたものの。
「可愛い鹿乃子さんは着物だと胸を潰さねばならないほど、大きな胸をしているのですね。
覚えておきます」
「……!」
美しく口角をつり上上げて三橋さんが笑い、カッと頬に熱が走る。
「下の方もローライズでレースなど、気を遣ってらっしゃるみたいですね」
「……まあ、それは」
この下着の話はいつまで続くのだ?
私としてはそろそろやめてほしい……。
私に長襦袢を着せながら、するり、するりと三橋さんの手が滑っていく。
なんだかそれがとてもエロチックに感じるのは……なんでだろう?
「苦しくないですか」
「はい、大丈夫です」
伊達締めの締め具合を確認し、着物を羽織らせる。
「この着物。
おじい様の手によるものですか」
「……はい」
また、するすると私の身体に手を這わせながら三橋さんは着付けていく。
しかしどうして、一目で祖父のものだとわかったのだろう。
「とても素敵な柄です。
惚れ惚れするほどに」
自分が褒められているわけではないのに、嬉しくて頬が熱くなっていく。
やはり、祖父の作品は最高だ。
あの日、宅間さんには吹けば飛ぶような工房ごとき呼ばわりされたけれど。
「苦しくないですか」
「はい、大丈夫です」
伊達締めを締め、三橋さんの手が帯にかかる。
まだ帯を締めていないからこれで決めてはいけないが、それでも凄く上手。
全然、苦しくない。
帯も、手際よく三橋さんは結んでいく。
着付けの姿すら美しいだなんて、つい見とれちゃうよ。
「……!」
鏡越しに彼と目があった。
口端が僅かに持ち上がり、考えていることはお見通しです、なんて顔に、一気に私の顔が赤く染め上がる。
「……くすっ」
小さく笑いながらも、素知らぬ顔で三橋さんは帯を結び続けていた。
……からかわれている。
わかってはいるが、身体の熱はなかなか引かなかった。
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