第8話

次回の予約をして不動産屋を出た頃には、そろそろ夕飯時になっていた。


「今日はこのあと……」


泊まるのか、帰るのか。

それによって送る場所が変わる。


「んー、決めてこなかったんですよね。

そうだ、可愛い鹿乃子さんに決めてもらいましょう」


「……ハイ?」


さも、いい考えだとばかりにパン、と軽く三橋さんが手を打つ。


「このまま夕食までご一緒するのは変わらないんですが、そのあと。

私をそのまま帰すか、それとも一緒にホテルへ泊まって一夜を共にするか」


フットブレーキを解除しようとして足が止まる。

レンズの向こうから真っ直ぐに、三橋さんが私を見ていた。

その瞳は私を試している。

逸らせなくてじっと見返す。

まだエアコンの効いていない車内は、じっとりと汗を掻かせた。


「……明日の」


からからに乾いた喉はくっつき、音を出すのを阻害する。


「明日の仕事へ響くので、今日はお帰りになった方がいいのでは?」


ようやくそれだけを絞りだす。

卑怯、だとは思う。

自分の気持ちではなく、彼の都合を理由にするなど。

けれどいまの私には、これが精一杯だった。


「……そう、ですね」


小さく呟かれた声は酷く淋しそうで、胸がツキンと痛んだ。

しかし私は間違っていないはずだ。


「晩ごはん、なに、食べますか?

昼食がちょっとあれだったんで、夜はご希望のところへ連れていきますよ」


微妙になった空気を振り払うように意識して明るい声を出し、軽くはしゃいでみせる。


「可愛い鹿乃子さんが好きなお店でいいですよ。

それこそ、ラーメン屋でも」


「ラーメン好きって三橋さんの中で、私はどんなイメージですか」


顔を上げた彼が笑ってくれて、私も軽く返しながら車を出した。


お昼の後悔から夜は、祖父が好きな寿司屋に連れていった。

回らないところなので大丈夫……だよね?

ちなみに私が好きなのは、チェーンじゃないけれど回るところだ。


「私に遠慮していませんか?」


おしぼりで手を拭きながらも軽く、三橋さんが眼鏡の下で眉を寄せる。


「金沢ならではのものを食べさせないと、などと」


「あー……」


図星なだけに返す言葉がない。


「私はもう、ここが第二の故郷なので、特産などは追々でいいんですよ。

それよりも可愛い鹿乃子さんのことがもっと知りたいんです。

だから、鹿乃子さんが好きなお店に連れていってくれる方が嬉しいです」


ちょっぴり残念そうに言う彼に、疑問が湧いてくる。

見た目もいい、それにこんなことを言う彼はいい人で間違いないはずだ。

なのにどうして三十六なんて歳で、独身なんだろう。

父親や宅間さんが早く結婚しろとうるさい、と言っていたし、出会いがないはずがない。


「……三橋さん、は」


「はい」


「どうしてまだ、結婚されてないんですか」


実はバツイチで、なんて言われても驚かない。

そっちの方が返って安心するかも。

いや、別れた理由は気になるが。


「私は、店を継ぎたくないのです」


その声は今日一日どこかはしゃいでいた彼とは違い、淡々としていた。

彼が言い切ると同時に茶碗蒸しが出てきた。


「店を継ぎたくないから、ですか」


彼に促され、蓋を開ける。


「はい。

三橋の顧客の主が、政財界の人間なのは知っていますよね」


「はい」


三橋さんは茶碗蒸しだけを見つめて、ゆっくりとスプーンを口へ運んだ。


「あの方たちは自分たちが選ばれた、一般の人間とは違う存在だと思っています。

そして、そういう方たちとお付き合いのある店の人間も。

宅間を見てわかったでしょう?」


はい、そうですね、などとは答えられずに私が黙り、ふっ、と小さく彼が笑う。

それは自嘲しているように見えた。


「嫌なんですよね、そういう選民思想。

とくにうちの店なんて、たまたまそういう方と懇意にする機会が多いというだけに過ぎないのに、なにを間違っているのか」


語る三橋さんの声はフラットで、なんの感情も読み取れない。

それに対して、私もどう返事をしていいのか迷っていた。


「私の今日の格好。

どう思いますか」


やっと三橋さんの目が、私を見た。


――どうか私を、失望させないで。


レンズの向こうの瞳はそう、語っている。


「素敵、だと思います」


真っ直ぐに彼を見て答えた途端、彼の目がみるみる泣きだしそうに歪んでいく。


「家のものも店のものも、私がこういう格好をすると顔をしかめます。

三橋の跡取りが、このようなみっともない格好を、と」


「……酷い」


祖父も私の格好を見てあまりいい顔はしないけれど、ヤメロだとかみっともないだとかは言わない。

そういう着方もあるのだと認めなければならないと理解はしてくれている。

それでも感情的になるとつい、今日みたいにけったいな格好なんて言ってしまうけれど。


「私は着物をもっと自由に着たいんです。

着物だけじゃない、家から――自由になりたい」


感情のないその声は、それだけ彼がいままで、感情を殺してきたのだと感じさせた。

だからこそあの日、声を上げて笑う彼を見て、宅間さんは酷く驚いていたんじゃないだろうか。


「だから家を継ぎたくないので、いままでのらりくらりと結婚の話をかわしてきました。

惚れられたりすることもありましたが、嫌な人間を演じてまで断った。

……でも」


レンズの奥で、少し濡れた目がキラリと光る。


「鹿乃子さんとは結婚したいと思ったんです」


その顔に。

きゅんとしなかったといえば、嘘になる。

三橋さんの事情はわかった。

宅間さんのような、ああいう人たちと一緒になりたくない、その気持ちは共感できる。

そしてそういう人たちに縛られている彼が、自由になれる手伝いができたら、とも思う。

しかし。


「でもその理由が、人のあたまにお茶をかけたから、というのは酷くないですか」


あれのどこで、惚れる理由になるのかさっぱりわからない。


「そうですか?

誰にも懐かない一匹狼が『お前、面白いな』って惚れるのは、少女まんがの鉄板だと思いますけど?」


「うっ」


くすくすとおかしそうに三橋さんが笑い、いつも読んでいるものを見透かされている気がして、頬が熱くなった。

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