第二章 可愛い鹿乃子さん
第4話
私の朝は早い。
家に入れるほど稼ぎはないのでせめて、朝食を作る。
「おはよう」
「おはよー、もう朝ごはんできるよー」
一番に起きてきた祖父と一緒に朝食を食べる。
うちはみんな起きる時間がバラバラなので、それぞれの時間に取っていた。
「やっぱり味噌汁の具は麩だよな」
入っている麩を箸で摘まみ、祖父がにやりと笑う。
特産なのもあるが、祖父はとにかくお麩が好きだ。
このあいだの旅行、朝の味噌汁の具が豆腐だったと不満そうだった。
「あれから三橋のボンから、なんか連絡はあるのか」
「あー、うん。
ちょいちょい」
なんとなく、言葉を濁して誤魔化す。
祖父とのこの話題は、非常にデリケートなのだ。
あの翌日、帰ってきた祖父は私が若旦那から求婚されたのを知った途端、――吠えた。
『俺の目のくれぇうちは、鹿乃子をそんじょそこらの馬の骨なんかに渡すかー!』
そのままガチで東京まで乗り込みかねなかったが、勢いよく立ち上がったせいで腰がぐきっといった。
おかげでまだ馬の骨とやらには会っていない。
ちなみに吠えた祖父へ「目のくれぇうちって一昨年、白内障の手術したじゃないか」とか父が聞こえないように言うもんだから、私は別の意味でも地獄だった……。
「じゃあ、先行くねー」
「おう」
祖父の分もあわせて片付けをし、先に隣の工房へ行く。
間借りしている身なので毎朝、掃除と整理整頓をしていた。
祖父はいまから新聞タイムだ。
「いつも悪いな」
「別にー」
準備が終わり、そろそろはじめようとしていたら、父と祖父が来た。
各々に作業をはじめる。
いつもと変わらない一日、――の、はずだった。
「鹿乃子さん!」
「えっ、は?」
いきなり、工房へ飛び込んできた男から抱きつかれる。
幸い、新しい柄を構想中で鉛筆を握っていたところだったので、惨事は免れた。
「えーっと」
「……おい、おめぇ」
低い祖父の声が地を這ってきて、抱きつかれたまま振り返る。
ゆらりと立ち上がった祖父の口からはふしゅー、ふしゅーなんて煙が上がっていそうだ。
「うちの鹿乃子に抱きつくなんざぁ、いい度胸してるな、ああっ?」
小柄な祖父がかなり上にある男の着物の衿を掴み、絞めにかかる。
ヤバい、祖父は柔道の有段者で、若い頃は自分の倍くらいある男を投げ飛ばしていたほどなのだ。
「じいちゃん!
ストップ、ストップ!
死んじゃう、死んじゃうからー!」
「……ちっ」
慌てて止めたら舌打ちをしつつ、祖父は手を離した。
「大丈夫ですか」
「けほっ、けほっ、なんだが一瞬、お花畑の向こうで手を振る曾祖母が見えたような……」
「……本当に大丈夫ですか?」
かなりアブナイ状況だった気がするのだが、男――三橋さんはヘラヘラと笑っていて、本当に心配になってくる。
「じいちゃん、やりすぎ。
三橋さんにあやまって」
「みつはしーぃ?」
語尾と共に祖父の右の眉が跳ね上がる。
「てめぇが鹿乃子を嫁にもらいてぇっていう、三橋のボンか!」
また祖父から詰め寄られ、三橋さんは手を上げて降参のポーズを取った。
「はい、鹿乃子さんと結婚する、三橋です」
「まだ結婚なんざぁ認めてねぇ!」
祖父の怒号が窓ガラスをビリビリと震わせる。
けれどそれでもまだ、三橋さんはヘラヘラと笑っていた。
「だいたいてめぇ、鹿乃子より年が随分上に見えるが、幾つだ?」
「三十六です。
あ、でも、早生まれなので鹿乃子さんより一回り上になります」
かなり上なのだろうという予想はしていたが、一回りも上だなんて知らなかった。
てか、結婚前提の相手の年をいま知るなんて私、間抜けすぎない?
「一回りぃ?
そんなじじぃに大事な鹿乃子を渡せるか!」
「……じじぃってテメェの方がじじぃだろうがよ」
「……っ」
父が祖父に聞こえないようにぼそりと突っ込み、思わず吹き出しそうになって唇を引き締める。
父さん、お願い!
この状況で笑ってはいけないなんちゃらにはしないで!
「私は鹿乃子さんを愛しています。
愛に年は関係ありません」
三橋さんはくさい台詞を吐いているが、また祖父に絞め落とされそうになっている状況だと全く笑えない。
「三十六の若造が、愛とか語るな!」
「……いや、さっき、じじぃって自分で言ったじゃないかよ」
「……っ」
父さん、本当にお願い!
もう私、かなり限界だから……!
「だいたい、そんなけったいな格好して!」
「じいちゃん!」
どうしたものかとふたりのやりとりを見ていたが、祖父のひと言が私の地雷を踏んだ。
「これのどこが、けったいな格好なのよ!
そうやって自由を許さないから、着物が廃れていくんじゃない!」
今日の三橋さんは着物姿だった。
ただし、一般的な着こなしとは違う。
いや、決まりに雁字搦めにされたあの着付けを一般的というのは私は嫌なんだけれど。
「……すまん、鹿乃子。
つい、かーっとなって」
ようやく三橋さんから手を離した祖父は、しょぼーんと項垂れてしまった。
「ごめん。
私も言い過ぎた」
祖父が最近の若い人の、自由な着方を認めようとしているのは知っている。
けれど、なかなか古い考えを変えるのも難しいのも。
「すみません、私が連絡なしに突然、訪ねてきたりするから」
落ちたパナマ帽を拾い、三橋さんがかぶり直す。
デニムの着物の下は襦袢じゃなく丸首白Tシャツ。
それにダークブランの帆布と革のコンビネーションバッグを斜めがけし、足下はハイカットスニーカーなんて格好は、私に言わせれば凄くお洒落だ。
「そうだ、てめぇが突然、鹿乃子に抱きついたりするから……!」
祖父がまた、三橋さんに食ってかかる。
「あー、一週間ぶりに可愛い鹿乃子さんに会えた嬉しさで、つい……。
すみません」
頬を薔薇色に染め、三橋さんはもじもじとしている。
「うん、なら仕方ねぇな。
うちの鹿乃子は抱きつきたくなるくらい、可愛いもんな」
つられているのか、祖父までもじもじとしはじめた。
それを見ているこちらとしては……同じくらい、恥ずかしいです!
「えっと。
……それで、三橋さん。
今日はどのようなご用件ですか?」
用がなければ来るはずがない。
……なんて考えた私が甘かった。
「用はないですが」
「……は?」
いやいや、用もないのに東京から金沢まで二時間半もかけて来ないでしょ?
けれどさも意外な問いだったみたいで、眼鏡の奥でパチパチと彼は何度か瞬きをした。
ちなみに今日はお洒落着物にあわせてか、太い黒縁眼鏡になっている。
「朝起きて、今日は休みだしなにをしようかと歯を磨きながら考えていたら、鹿乃子さんに会いたくなったので。
ただ、それだけですが」
「……は?」
私に会えて嬉しい、そんな顔で三橋さんはにこにこと笑っているが、私にはちっとも理解できない。
「でもすみません、私が休みだからって鹿乃子さんも休みだとは限りませんよね。
お仕事が終わるまで、適当に時間を潰しています。
終わったら連絡ください」
さっきまであんなに笑っていたのが嘘のように、あっというまに彼が萎れていく。
前に飼っていた柴犬、
「あー、えっと。
いま、アイディアに煮詰まっていて。
今日はもう、終わりにしようかと思っていたんです。
そういうわけで父さん、ちょっと出てくるねー!」
「おう」
三橋さんの手を掴み、工房を出た。
こういうとき、個人事業主は助かる。
父はかまわずに送りだしてくれたが、今度は祖父が置いていかれた勝五郎みたいな顔をしていたので、帰ったらフォローは忘れずに。
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