第31話

その日、私たちは機関の定期検査に出かけていた。


 以前菅原さんと長々と話し込んでいたあの時と同じだ。

 魔王の身体、その組成やら生命活動について、取れるだけの情報を採取する……。

 可能であれば定期的に経過を観察して魔王の正体のヒントを掴む。そのための定期検査。


 私とアルは機関の人の送り迎えを受けて機関の研究所へと赴き、そして検査を終えて帰ってきた。


 夕暮れの時刻だった。西日がマンションに柔らかく差し込み、廊下を橙に染めている。夏の初めの夕暮れはやや色が濃く鮮烈で、少しアルの瞳を思わせる輝きをしていた。


 エレベーターから降りながら、私は隣のアルに話しかけた。


「思ったよりも時間かかっちゃったね。夕ご飯どうしようか?またピザでも頼む?」


「ピザ!僕あれが良い、テリヤキのやつ~」


「ああ、あれね。アルあの味好きだねー。いいよ、頼もう。後の味はどうしようかな」


 このマンションは一つの階に五部屋ほどが作られている。私たちの部屋は廊下の突き当り、いわゆる角部屋だ。


 他愛ない話をしていればすぐに私たちの部屋のドアの前まで来れる。事実ほどなくして私たちは戸のすぐ前までたどり着き、鍵を開けようとした。のだが。


「……え?」


 異様な気配を感じて、私とアルはその場で振り返った。


 二人して目の前を凝視する。私たちの背後で、突如として明らかな異常が発生している。


 黒い靄だ。


 埃やゴミがたまたま寄り集まってとか、単なる目の錯覚とか、夕日でできた黒い影とか、そういう次元ではない。


 不定形にぐにゃぐにゃとうごめく影。なんとも形容のしようがない。一切の決まった形を取らない不気味に蠢く闇の塊が、ドアの前で吹き溜まっている。


 差し込む西日が辺りを赤く染めている。私とアルの影は細長く背後に伸びて、間抜けなのっぽを形作っている。実態があれば当然目の前のそれにも影が現れるはずだが……。


 何もなかった。


 影がない。何一つ見当たらない。背後にも前にも真下にも、周囲一帯何一つ黒い影が生まれていない。ただその靄だけが黒い。そう、それこそその影が光すらも飲み込んでいるかのような。


「ユキ!」


 アルが私の前にかばうように立つ。そして眼前を強くにらみつけた。

 何が何だかわからず、私はぽかんと口を開けたまま目の前を凝視するしかできない。


 これは一体何なのか?どこから来て、何を意味しているのか?何一つわからない……けれどこれが異常なのだけはわかった。


 アルが姿勢を低くして、威嚇するように前を見据える。


 そして……それが胎動するように脈打った。得体のしれないそれの見せた、非常に生物的な動き。アルと私の緊張が極限に達する。


「こらー!勝手に出るなって言っただろうが!」


 それが一気に弛緩した。


 真横から飛び込んできた声に、その靄がびくりと跳ねた。気がした。


 実際にはよくわからない。私たちにわかったのは、突然耳馴染みのある声が真横から割り込んできたと言う事実だけだった。


 靄の真横……私たちの家の中から出てきた影。


 要するにアーサーである。


 機関の研究所に定期検診に言ってる間、当然こいつを野放しにするわけにはいかない。というわけで一緒に来てもらっていたはずなのだが。どういうわけか奴はいつの間にか消えていた。またお得意の壁抜けでもなんでも使って、この場からとんずらしたのだろう。


 無表情のまま吹雪を吹かせる菅原さんの気迫に怯えながら必死に謝り(なんで私が)そして菅原さんも私が謝ることじゃないと丁寧に言ってくれ(いい人だった)、所在を確認したのが今である。


 アーサーは珍しく焦った表情を浮かべていた。

 いつもの人を食ったようなムカつく態度はどこにもなく、目の前の靄に何事か話しかけている。


 なんと私たちが帰ってきたことにも気づいていないらしい。


 アーサーらしからぬ、余裕を欠いた態度だった。


「さっきからずっと言ってるだろ!お前が望むものなんかここには無いから、さっさと帰還しろって!それを何勝手に外に出て……は?魔王の反応を感知したって、お前バカ、だから魔王は大丈夫だって……あ」


 話の途中で、アーサーはこちらを振り向いた。明らかに警戒態勢を取っているアルと、その後ろでぽかんと口を開けている私。


 アーサーの顔が、いっそ芸術的なほどに歪んだ。それも喜びや怒りではなく、弱みを突かれたかのごとき相貌に。


 そして、アーサーの隣の黒い靄が、ものすごい勢いで波打ち始めた。


「あーはいはいはいはいすみませんねぇ!俺の報告ミスですぅ!何せ稼働年数億未満の超新型なものでェ!バグエラーの改良の余地がありありっていうかぁ!伸びしろがあるって言ってほしいなー!」


 アーサーが訳の分からないことを言いながら喚いている。あからさまに鬱陶しそうに、半ば靄を睨みつけながら、吐き捨てるように言葉を口にしていた。


 私はますます訳が分からなくて立ち尽くすしかできない。茫然とする私とは逆に、アルは警戒の姿勢を緩めなかった。


 アーサーはなおも鬱陶しそうに意味不明なことばかりを口にしていたが……突然、ぎょっとして肩を跳ねさせた。


「はあ!?やだよめんどくさ……あーはいはいはいはいわかりました。貸せばいいんでしょ、貸せばぁー!くそ、疲れるからやなんだよ、機能貸すの……」


 なおも不満そうにつぶやきながら、アーサーが腰に手を当てる。


 一瞬、アーサーがこちらを見た。


 いや、アルの方だったかもしれない。本当に一瞬、瞬きの間の視線の交わし合い。見間違いかと思うような刹那の間に視線を逸らしたアーサーは、顔を伏せた後、大きく息を吐く。


 そして、アーサーの身体が掻き消えた。

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