第28話
朝からどっと疲れた。
私はぐったりベッドにもたれていた。
時差出勤のお陰で午前中の時間に余裕があったことが救いだ。
そうじゃなければ朝からこんなしっちゃかめっちゃかの大騒動、出社時間までに収めて家を出られるはずもない。
今は寝室で伸びながらアルが朝食を作ってくれるのを待っているところである。
いつからかアルは自分も料理を作りたいと言い出した。それまでずっと私に任せっきりだったのに、ある日突然僕も料理がしたいと言いだしたのだ。
最初はつきっきりで指導していたけれど、今は朝食程度なら一人で任せられるようになっている。
キッチンから香ってくる卵を焼く匂いと油のはじける音。
アルの成長が嬉しいのは勿論のこと、純粋に大変に助かる。疲れ切ったこの体に染みる優しさだ。
「お疲れだね、お母さん」
「猫を入れると訴訟だけど、謎のナマモノなら誰も訴えないよね」
「もしかして俺をレンジに入れる算段つけてる?」
無論、算段ではない。ばっちり本気だ。
私は正面に立つアーサーに向けて微笑んだ。何をとぼけた真似をしてやがるんだこの野郎、という意味を込めて。
今朝もあの後更に『川の字に寝るってのはすごく家族っぽい行いだよね!パパも一緒に寝転がればいいんだよ!』などと要らぬことを吹き込み始めて大変だったのだ。
毎度毎度、余計な一言のレベルをどんどんあげやがって。こんなボジョレーヌーボーはいらない。
私の笑顔の意味を正しく理解したのか、アーサーが困ったように眉を下げた。
肩をすくめて溜息を放ち、どこか呆れた顔をしている。
「余計なこと、ねえ。君は心底から魔王のことを子供だと思っているんだね」
「当たり前でしょ。魔王としてはどうだか知らないけど、あの子は今の姿になってから一年も経ってないのよ。人間としては子供どころか赤ちゃんみたいなもんじゃない」
「確かに全くそうだ!魔王は君たちにしてみればまだ赤子同然ってとこだね。じゃあそんな赤子がどうして君に好きというのか考えたことは?」
アーサーの言葉に、ぱちぱちと目を瞬く。予想外の質問だった。一瞬、どういう意味か考えあぐねて何も言えなかった。
アーサーはそんな私をにやにや見つめていた。
「赤子となればものの分別もつかない幼子だろう。本当に赤子だったら、好きだの嫌いだの、そんな情緒が育っているものかい?」
「……言ったら悪いけど、刷り込みみたいなものじゃないの。初めて優しくしてくれたってアルはよく言うわ。赤ん坊が無意識に親を慕うようなものでしょ」
「ふぅん。だから君はその慕情に世話でもって応えている、と。なるほどなるほど」
芝居がかった仕草で腕を組み、うんうんと何度もうなずくアーサー。
どう考えても納得なんかしていない。こちらに当てつけているかのようなわざとらしい納得の姿勢。
知らず視線が鋭くなった。アーサーはこちらの反応を見透かしているかのように、余裕ぶって笑っている。
「さっきから何。言いたいことがあるならはっきり言って。思わせぶりなことばかり言ってるけど、自分を賢く見せたいために予防線を張ってる馬鹿か詐欺師に見えるわよ」
「君思ったより口が悪いし好戦的だよね。はは。流石は魔王を子ども扱いする女」
「安心して。あんたに対してだけだから」
「俺に対してだけなんて心躍っちゃうな~」
「文脈読めないタイプのクソリプ野郎かよ。そのポジティブさなら一生不幸知らずの幸せ者でいられるでしょうね。ファッキン」
「いやほんとに口悪いな」
さしものアーサーも少しだけ怯んだようだった。
いいザマだ。散々こちらを引っ掻き回してくれているのだから、少しぐらいは反撃しないとやってられない。
「でも結局、君は俺の相手をするしかないんだよねー」
アーサーの言葉に一気に目が冴えた。
はっと目を見開く私を見て、アーサーは得意げに笑った。
「知ってるよ。君たちが俺に何を期待しているか。共同生活の最中、気のゆるみから口を滑らせて重要な秘密を漏らすかもしれない。だから俺の言動には注意を払ってほしいって言われてるんでしょう?」
何もかも最初からお見通しだ、と言わんばかりの態度だった。
何も言えず、ただアーサーを見つめるしかできない。
私の態度こそが答え合わせだとでも言いたげに、アーサーは更に笑みを深める。
「本当にその気なら俺のことを一切近づけさせないことだって可能なはずだよ。魔王がいるからね。結界術だろうと二十四時間寝ずの番だろうと、魔王は君の声一つで殊勝にも応じるだろう。たとえ一つ屋根の下だろうと、俺は君を視界に入れることすら叶わなくなる。でもそうはしない。俺の情報に興味があるから、価値があるから。そうだよね?」
「……」
「まあ無駄だと思うけどね。失言とかうっかりとか、そういうのは人間の感情機能のもたらす不可避のバグだから。感情のない俺たちにそんなものを期待したところで、砂漠の砂の中から目当ての一粒を探し出すようなものさ」
「前から思ってたんだけど。感情がないってどういう意味?どう見てもあんたに感情がないとは思えないんだけど」
アーサーは意外そうに眼を瞬く。予想もしないことを言われて驚いた、という反応。
そう。これがアーサーだ。私たちをおちょくって楽しんで、予想外の事物には驚き慌て、あからさまにこちらを煽るために演技をしてはにやにやと顔をだらしなく緩める。
感情がない、なんてどの口が言うのか。むしろアーサーはその辺の人たちよりもよほど感情豊かに見える。
私の言葉を聞いて、アーサーは更に驚いたらしい。いつもの人を食ったような笑顔ではなく、心からの驚きに目を瞠って……私のことをその美しい瞳で見つめている。
だが、その表情はすぐに掻き消えた。アーサーはにやりと笑みを深めると、私に向かって意味深に微笑んだ。
「そんな風に思っててくれたなんて嬉しいなぁ!君にとっての俺は随分と人間らしく見えてるようだね。模造人格機能の冥利に尽きるってもんだよ」
「…模造人格?機能?」
「そ。君たちが認識しているこの俺という人格は、地球上の人類種とコミュニケーションを取るために調整された模造人格機能。場の状況を把握解析して適切な感情表現を表出する自動動作プログラムだよ。俺たちはそのままだと存在の規格が違い過ぎて人間と対面すらできないからね。今回の魔王の調査に俺が選ばれたのはこの機能が理由ってわけ」
「つまり、どれだけ感情豊かに見えようと、それはプログラムが自動選択してる感情表現の表出であって、本体のあなたが何かを感じているわけじゃないってこと?」
「そんな感じ。と言っても全てが全てプログラムの自動反応ってわけじゃない。俺たち自身の考え、行動、思考……そういったものを地球人に理解できるレベルまで落とし込み変換してる場合もある。まあでも、どっちにしろ同じかな。俺たちに君たち人類種のような『感情』機能はない。全ては模造人格機能が変換した、あるいは自動選択した『自然に見える人間の振る舞い』であって、俺たち自身には悲しんだり喜んだりする機能は備わってないんだ」
アーサーの話はなんだか分かりにくかった。常日頃想像したこともない概念の話ばかりが出てきて、戸惑ってしまったのが正直なところだ。
アーサーに感情はない。全てはそれらしく見えるだけのプログラムの演算結果。存在の概念が違う両者間でコンタクトを取るための調整された模造人格機能。
「アルは」
「うん?」
「アルもそうなの。……感情は、ないの?」
今度のアーサーは、先ほど以上の驚きにとらわれているようだった。こぼれそうなほど見開かれた青い瞳。
そう。アルと同じ光を宿す光。
事ここに居たって私にも何かがわかりかけていた。詳細も本当のところも何一つ理解できなかったけれど……アルとアーサーには何かある。
私たちには想像もつかないような関係性を、確実に秘めている。
アーサーはいつも口にする。『俺たち』と。自分のことについて話しているのに、いつもどこか集団のことを指しているかのような物言い。
私には、その『俺たち』の中にアルも含まれているような気がしてならないのだ。
アーサーは私を凝視している。驚きに足を取られ、思わず思うがままの反応が出てしまった……ように見える仕草。
これもアーサーの言うところのプログラムの自動選択の結果なのだろうか。
アーサー本人に驚きという感情はなく、ただこの場における人類のコミュニケーションにおいては『驚き』の感情が自然だからこそ、プログラムがアーサーの表情を形作っているのだろうか?
アーサーはしばらくそのままだった。
だが、やがてゆっくりと、深く深く笑みを浮かべた。
口角を持ち上げて、白い歯を口の端から見せて、そして目を爛々と光らせて。
またあの顔。少年の見た目に似合わない老成した雰囲気を放つ微笑が、アーサーの顔に浮かんでいる。
「どう思う?魔王に感情があるか、ないか」
アーサーが一歩踏み出した。ベッドに凭れる私の前で立ち止まり、床に座り込んで、視線を合わせる。
真正面から私を見つめて、笑みは崩さぬまま。
今までならその威圧感と雰囲気に負けて眼を逸らしていたところだが……慣れた、のだろうか。不思議とその目を真正面から見つめ返すことができた。
いや、慣れた、というか。
ずっと見ている。この煌めきを。赤い瞳に宿る強い光を。だから、それと同じ光を持つ目も、最早怖くなかった。
「ある……と思う。というよりないとは信じられない。あの笑顔が嘘だなんて、そんなこと……」
「ふぅん。君はそう思うんだ。でも、魔王にも感情がないのかもって……俺と同じじゃないのかとも思っている。じゃあ逆に聞こう。どうして魔王に感情があると思う?」
「どう、って」
なんだか質問が堂々巡りしているような。眉をしかめて言いよどんでいれば、アーサーがさらに言葉を重ねた。
「言い方が悪かったね。つまりは、こういうことだよ。どうして魔王に感情が生まれたと思う?」
「え?」
生まれた?感情が?
「君が思う通り俺と魔王はルーツを同じくする存在だ。答え合わせをするとね、魔王にも本来は感情なんかないんだよ。そのための機能がない、目的がない、必要がない……それが生まれた。この地球において魔王には確かに感情がある。だったらどうして?今の魔王に感情が生まれているのはなぜ?そしてそれは、何がきっかけだったと思う?」
ぎょっとして目を剥いた。アルとアーサーのルーツが同じ?魔王にも本来は感情なんかない。
なんだこれ。菅原さんとの尋問の時にも、この情報が出てきたことはない。それをこんなにあっさりぺらぺらと。
魔王の詳細についての情報を頑なに教えようとしなかったアーサーが、一体、なぜ。
「なんで今、この情報を教えるの。菅原さんがあれだけ聞いても言わなかったくせに」
「俺の趣味の核心だからさ。今、君に情報を与えることは、俺の目的にかなうと見た。必要な情報ならちゃんと提供するよ」
まあ、あくまで俺が必要だと判断したらの話だけどね。
軽い口調でそんなことを言うと、アーサーはその場で立ち上がった。
アーサーの背丈は小学生男子らしい小柄さだが、私がベッドに凭れているせいで随分と大きく見える。
私のこと見下ろして、またアーサーはにたりと、笑った。
「それで、どう?魔王の感情がどうして生まれたのか、わかる?」
私は口を開いて……結局何も言えなかった。
アルの感情が生まれた理由。本来備わっていないはずの感情とやらが芽生えたわけ。きっかけ、原因、発端。
わからない。何もわからない。そもそもだって、アルがどういう存在かなんて、何も。
「ま、そうだよね。今の君にこの質問の答えがわかるはずないもの」
あっさりと、ごく軽い口調。アーサーはそう断言すると、今度は大きくその場で腰を折った。先ほど以上にアーサーの顔が間近に迫る。
「だからいつか教えてね。その答えが訊けたときには、全ての疑問に答えてあげるよ」
そう言って、アーサーは意味深に笑った。
赤く光る目。眼前に迫る煌めく宝石-いや、それよりもなお美しい瞳。床に座り込みベッドにもたれる私の顔を、食い入るようにアーサーが見つめていて。
「ユキ!ご飯できた!」
とっても明るい声が部屋に割り込んできた。
ベッドにもたれる私。の前にかがみ込むアーサー。彼我の距離は十センチそこそこと言うところ。たとえアルが相手じゃなくても誤解を招きかねない距離感だ。そんなものをアルが見たらどうなるか、と言えば。
じゃきん。
実に迅速に飛び出してきたアルの角が、そんな愉快な音を立てた。つまりは一瞬で大魔王モードに移行したということ。
アーサーの口の端がひくりと引きつる。
「待て待て待て待て魔王!そのエネルギーは洒落にならない!死ぬから!俺死んじゃうから!」
「アルー。家具壊さないでね」
「止めてすらくれないの!?」
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