三                  


 車は少し走ってから道路沿いにある店の駐車場に入る。二十四時間営業のサウナの看板が見えた。とりあえず行っとくかと口にして野宮が車を降りる。ついてこいと言われ、休憩でもするのだろうかと思いながら後を追う。入館の手続きを済ませると車で待っているとだけ言い残して彼は出て行く。入浴してこいということのようだ。

 襟に顔を寄せる。そんなに体臭がきつかっただろうか。店員が渡すロッカーキーを手にしてそのまま中に入る。体を洗って湯船の中に。入浴らしい入浴は久しぶりで体がほぐれる。コインシャワーといったものを利用するばかりで銭湯に行くというのも最近ではめっきり減っていた。店舗を出ると野宮が待つ車に乗り込む。

 次に停まったのはヘアサロンで、肩まである髪にハサミを入れてもらうのはどうだという野宮の提案に私は異論を挟まなかった。入店し耳に軽く被る程度の長さに髪を切り込まれる。そこから向かったのが百貨店だった。マニッシュな紺のツイードスーツ。厚地のコットンシャツとニット地のベスト。トレンチコートにマフラー。革製の靴とトートバッグ。彼に見立てられたそれらのものを身に着ける。男物の厚地ジャケットと同色パンツ、ワイシャツという恰好が冬のもっぱらの姿。全てリサイクル業者から手に入れた値引き品だった。比べれば着心地の良さはさすがに段違い。分厚い被りものを一気に剥ぎ取られたような感覚を覚える。使える衣服数点を残してボロボロのリュック等を含め廃棄する。半ば強引に変身させられることに抵抗はないが、それはどこか儀式めいていた。最低限のことはすると言っていたがこれのことだったのかもしれない。

 その後、腹は減ってないかと聞いてくる野宮だったが私は空腹ではないと答えた。店で昔話に花を咲かせたい気分でもなかった。車は首都高速四号に入ってゆく。

 負けず嫌いで頑固。そんな女が自意識を長い間凝縮発酵させてますます面倒な人間像を形作った。それが今のお前だ。と彼は揶揄する言葉を投げてくる。が、どこに行こうとしているのかは言わなかったし、こちらの方でも聞かなかった。

「さっきから鳴ってるぞ。出なくていいのか」

「いいの」

 達也からだ。その場で電話の電源を切る。

 本当ならこの状況をちゃんと話してから別れるべきだったかもしれない。でもそうすれば達也は必ずついてくる。冷たく別れるのも彼のためになる。自分をそう納得させて連絡には応じないと決めた。

 車は三宅坂JCTから都心環状線、首都高速六号へと進み、首都高速七号の市川ICの手前の一之江で降りる。そこから約二十分程度走って興宮町という場所にあるパーキングに停車する。

「降りてくれ」

 野宮はそれだけ口にする。二人して車を出る。

 そこからすぐ近くにある建物の前で彼は足を止めた。外観からすると十階近くある集合住宅に見えた。彼がオートロックキーの前で番号を入力すると自動ドアが開く。「行くぞ」と言って中に入ってゆく。私もそれに続く。入り口側から進むと部屋が縦向きの形で並んでいる。奥まで歩き角部屋の前で止まる。一〇六号室。野宮がドアに手をかけると鍵はかかっていなかった。

 明りを点けて、入ってくれと彼が言う。その通りにする。

「間取りは一LDKだ」と彼が中をざっと案内し始める。

 キッチンには冷蔵庫やレンジ、皿やコップなどが収まった戸棚といったものが整えられている。ダイニングルームと地続きの洋間には小型の薄型テレビと二人用ソファがリビングにはベッドが揃えてある。お風呂はトイレと別。シンプルだが生活に必要なものはほぼ設えてあり、ないのは誰かが住んでいるという気配だけ。野宮の部屋。と一瞬思ったがこの雰囲気からして違う。

 リビングのサッシに野宮が近づいてゆく。

「ここが電子錠になってるのが少し変わってるんだ。配線の関係で開閉できるのは左側の窓だけだが、開けるには四ケタの暗証番号を入力する必要がある。それを設定してみるぞ」

 確かにレバーはなく代わりにプッシュボタンのようなものがある。

 野宮がボタンを押すと電子音が鳴った。

「番号は一〇二三だ。私の誕生日。分かりやすいだろ。一回設定するとそれ以外は使えない。空き巣はガラスを穿ってそこから手を突っ込んでレバーを開閉して中に入る。しかしこれなら仮に穴を開けられてもドアを開閉するのは難しいだろ? こんな仕様になってるのもセキュリティ対策の一環ってわけだ。女性は安心要素のあるところを利用したいらしいからな。部屋の中で開けられるサッシはここだけだが。まあ番号を忘れてしまっても、窓が開閉ができない程度のことだから部屋利用自体には問題はないがな」

「ここ、賃貸のマンションね?」

「週単位のな。運営する不動産屋とは古い知り合いだ。聞いてみたら一部屋空いてるってことだったから急遽押えてもらった」

 ダイニングテーブルに野宮が座る。向かい合う形で私も腰を下ろす。

「話をするためわざわざここに」

「それもあるが。ここを拠点にすればいいと思ってな。契約期間はひと月だ」

「拠点って私の? 無理よ。費用がないもの」

「立て替えたからいいんだ。決めたなら半端ができない。お前のことを分かってるからこそだ。自棄になって手のつけられない状況を招かないためにな。その事前策だ」

 立て替えた分はいつ返してくれてもいいという。だから今は注力すべきことに神経を傾けろと野宮は説く。

 言葉もなかった。私は顔を落とし突っ伏したまま動けなくなった。

 彼は大学時代の同級生であると同時に私の弁護人という存在でもあった。その尽力のありがたさを分かっていながら、裁判が結審して数か月後、執行猶予期間中にも関わらず無断で彼の前から姿を消したのだ。彼からすれば私の身を案じるよりも先に失望を感じたに違いない。そんな愚かな女にここを用意した野宮の思い。そこに気持ちを寄せようとすればするほど自己嫌悪が止まらなくなる。

「顔を戻したらどうだ。お前にそんな態度を取られると調子が狂う」

 私は顔をゆっくり上げる。

「私の前から消えて、挙句の果てに路上に出たのはなぜなんだ?」

 改まった調子で野宮が聞いてくる。

「全てがどうでもよくなったの。気づくと路上にいた。それだけよ」

「何年前からだ」

「あなたの前から姿を消してすぐに。二年くらいになるわ」

 野宮は無言になって顎をさすりだす。

「そんなセンチメンタルな反応は止めてよ」

「そのつもりはないがな。分かった。質問を変えよう。その白髪の男、あるいはSCTYという人物に心当たりはないのか?」

 私は「ない」と一言口にする。

「昔のお前は空手仕込みの喧嘩殺法でレディースグループの一員として暴れまわっていた。って話は大学時代に本人の口から聞いた。そんな奴が大学院で心理学を専攻しサイコセラピストという職業に就いたと聞いた時は冗談みたいな話だと感動したものだが。来歴について文句を言う気はない。ただ一度キレると直情的に暴走するのがお前だ。田澤瞭子という人間に賛否両論があるのは確かだろ」

「恨みを持たれているとしてもこんなやり方は絶対承服できない。その感情と共に雅樹の消息が分かるかもしれないという期待も正直あるの。SCTYという存在の全てを炙り出したい」

 野宮は頷くと席を立つ。

「関係が疑われるとすれば、怪しいのは前職の筋じゃないか」

 と言い残して彼が部屋を出て行く。飲みものを買ってくるという。

 野宮の言いたいことは分かっていた。ただその結論をすぐに信じたくはなかった。十年以上勤めた職場。その周辺であの白髪の人物と会った記憶はないし、人の弱みを握って翻弄するような人間が潜んでいたなんて考えたくもなかった。

 戻って来た野宮は手にした袋をキッチンカウンターに置く。ミネラルウオーターやカップ麺、レトルトの米といったものだという。飲料缶を二つ手に持ってテーブルに座ると、一つをこちらに寄越し一つを開けて口にする。

「前職からの筋って藤脇のこと?」

「お前がそう考えてるんじゃないかと思ってな。あれは藤脇泰弘が自らの意思によって選択したに過ぎん。お前が追い詰めたわけじゃない。藤脇家がお前を恨むのも筋違いなのは変わりがないだろ」

 私は黙って頷く。その通りだとしてもそれを思い出す時、私はいつも自問を繰り返す。藤脇家との間に生まれた確執。泰弘の兄行則の存在。それから起こった最悪の顛末。それが脳裏に一瞬にして駆け抜ける。

「でも行則はやっぱりないかもな。いくら恨んでいても、恐怖心は復讐心より勝るだろうし」

 私は無言を返す。

「ちなみに行則はお前とのことがあった後、元々いた商社を退職して職を転々としたらしい。それで今から一年前の話になるんだが、傷害の罪で一年六ヶ月の懲役判決を受けた」

「傷害?」

「数人の仲間と一緒に飲んでいて面識のない男性に絡んで袋叩きにしたらしい。被害男性は全治二ヶ月の重傷。共犯の仲間連中は執行猶予がついたが、藤脇は反省の色も見せず態度が悪質だとして刑がより重くなった。まあ模範囚だったらしく仮出所したらしいんだが、それ以降の足取りはよく分かってない。他の親族については母親だけだが心臓の持病のためすでに他界している」

 行則の消息は現時点では分からないという。

「きょう一日はこれでしのいでくれ」

 野宮は財布から一万円札を取り出しテーブルの上に置いた。

 私は無言で頭を下げていた。

「ひとまずは帰るがまた連絡する」彼が立ち上がる。「車はどうだ。必要ならさっきのを駐車場にそのままにしておくが」

「動くのにできれば欲しいところだわ」

 答えると彼はスーツのポケットから鍵を取り出してテーブルの上に置いた。感謝の言葉を改めて伝えたくて口を開こうとすると彼は手で制してそのまま玄関の方へと向かう。私も後をついてゆく。

 野宮は下駄箱を探り何かを取り出す。さらに自分の名刺を取り出しその裏に何かを書いて、オートロックの暗証番号と部屋の鍵だと言って手渡してくる。

「人との線ってのはそんな頑丈じゃない。もういなくなるなよ」

 言い残して彼は出ていった。

 繋がっている線。それは鋼でできているわけではない。もっと儚く脆い。今度切れたら次はない。そう言いたかったのかもしれない。

 一人部屋に戻りテーブルに座る。

 改めて見渡せば、誰かの部屋の中という錯覚に陥る。家なしの生活に慣れた身からすれば、この環境にすぐ落ち着ける気はしなかった。テーブルの上にテレビのリモコンがある。考えもなくそれに触れてみる。目の前のテレビ画面に電源が入る。

「紙袋に入っていた時限式爆発物はあくまで見せかけだと想定できます。その下に隠される形でロックされた箱が見つかりましたから。発見者が警察に通報することを狙ったものだと思われます」

 それはヒトガタパズル事件の新たな動きに関する警察側の会見の模様だった。

 ――見つかった箱はどういったものでしょうか。

「形は正方形で、蝶番があり開閉するタイプです。外観はレザー張りですが内部はプラスチック製で、腕時計用の箱のようなものです。錠前は外づけされておりました」

 ――それが犯行声明で提示されていたものと断定した根拠はどこにあるんでしょうか。

「箱の頭頂部に、『これはトライアングルギフトです。無理にこじ開けると起爆します。お持ちの鍵で開錠してください』とメモが添えられていました。三遺体が携帯していた鍵によりこれらを開閉することができましたので。そこが断定の理由と言えます」

 ――箱の中身の詳細についてお願いします。

「市販のUSBメモリーとSDカード、切り落とされた人の指。見つかったものはこの三点。USBメモリーの中には約五分程度の動画が入っていました。拘束された人の姿が映っておりまして、椅子に縛りつけられた状態で顔は黒い布で覆われていて詳しい特徴や属性は把握できておりません。くぐもったような呻き声しか聞き取れませんでしたが拘束されているのは男性ではないかと思われます」

 ――SDカードには何が?

「合成された歪んだ声で、『我々は正しく楽しい行いのため邁進しております。催しはまだ続きます。今後の動きにご注目を』という言葉が録音されておりました」

 ――切断された指とは具体的にどんな状態のものでしょうか。

「人間の小指の部分に間違いはなく、第二関節部分から指先までの長さがありました。切断については生存中に行われたものだという識別はできております」

 ――その小指は拘束された方のものと考えていいんでしょうか?

「はっきりとは申し上げられませんが、おそらくその可能性が」

 ――他に要求はないんでしょうか。例えば身代金といったものとか。殺害された三人の男性との接点についてもうかがえますか。

「現段階で身代金要求といった情報は入ってきておりません。殺害された方たちとの接点は現在捜査中です。ただ周辺で失踪中の方が他にいるといった情報は確認できておりません」

 ――新たなる犯行予告とも取れる内容ですが、警察や世間を翻弄することが目的のようにしか思えません。どう捜査を進めてゆくんでしょうか。犯人の目星は?

「我々は鋭意を結集し事件解決に向け動いております。捜査の動きが収斂されて実を結ぶよう全力を尽くしてまいります。会見はここで終了とさせていただきます」

 私はテレビを消した。会見から犯人像や動機がうかがうことはできなかった。果たして素人の女一人がどう立ち向かえばこの事件に肉薄できるだろうか。その展望も今の自分にはまるで見えなかった。

 一方でSCTYという人物の策略は奸計じみている。まんまと釣り上げられてる感は否めない。その狙いについてヒントの持ち合わせは皆無だった。罠。そうかもしれない。

 だとしても選択肢は一択だけだった。

 雅樹に近づける希望があるのならもう引くことはできなかった。

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罠から逃げるな 金谷塚薫 @em1971

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