第30話

「あっ、えっと、今日隣に越してきた者です!引っ越しのご挨拶に…こんな遅くにごめんなさいっ!これからよろしくお願いします!」


さっきはあんなに強気だった私も、口を開けばとても低姿勢でとにかくこれ以上拒否はされないようにと内心とても必死だった。


それに加えて、私は咄嗟に“こんな遅くに”なんて言ったけれど実際のところ今は十八時半くらいなんだからそこまで遅くもないのか?なんて、変にツッコまれておかしい奴だと思われやしないかなんて心配までしてしまっていた。



「……」



「……」




———…でも、彼の反応は何も変わらなかった。




これはいよいよ訳が分からなくなった。



今私が喋ったんだから次はそっちの番でしょ?




これは一体何待ち…?




向かうべき方向が全く分からなくなった…


それでも何が何でも引きたくない私にとって、彼からの反応が何もないからと言ってこのまますんなり家に帰るという選択肢は存在していなかった。


でもだからってこのままここでひたすら待ち続けても進展があるようにも思えなくて、私は三度目の正直だと思いもう一度インターホンを押してみようと意を決して右手をスッと上げた。



あんな狭い部屋でこんなにうるさいインターホンを三度も鳴らすなんてとても失礼だろうけれど、挨拶をしたい私にしてみればこのよく分からない状況だって十分失礼な話だ。


それも彼は確実にこのドアを隔てたすぐそこにいるはずなんだから。



そんな思いが、私の中にまだ少しはあった三度目となるそれへの躊躇いをあっけなく拭い去ってくれた。




でも、私の右手の人差し指がインターホンのボタンに触れたその瞬間、



「———…ったなら帰れよ」



まるでこの一瞬を狙ったかのように聞こえたそれは、またしても気を抜けば聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。


それでもその声にさっき感じたような遠慮気味な感じはなくなっていていた。









…私はちょっとおかしいのかもしれない。



挨拶に来ただけなのにドアも開けられずひたすら薄い反応を示す彼はどう考えたって今の私に対して失礼な態度を取り続けているというのに、


言葉という反応が返ってくるだけでこんなにも嬉しくて、これまでの失礼の全てをあっけなく無にしてしまうなんて。



なんならその少し乱暴さの垣間見える言葉遣いに彼の人間味を直に感じて嬉しくもなった。



…とはいえそれはあくまでも言葉が返ってきたこと自体に対しての感想であり、


かろうじて聞き取れた語尾の内容に関していうならば、私はこれまた一瞬で訳が分からなくなった。

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