第3話


 午が過ぎ、お天道様の温かな日射しが銀杏の葉を黄金に染めている。


 芽衣胡は日課である雑巾がけをしていた。光明寺の広い本堂も長い廊下も塵ひとつ残さぬよう綺麗に拭き上げる。と言っても塵など弱視の芽衣胡には見えていない。雑巾越しに伝わる感触を頼りに汚れのひどい箇所を見落とさないように努める。右に左に折れる廊下もぼんやりとした光の明暗と歩数を頼りに曲がっているのだ。


「芽衣胡、終わりましたか?」

「はい」


 声を掛けたのは不惑を越えた秋乃あきのである。頭には白いものが混じり始めていた。秋乃は光明寺の和尚、光生こうしょうの妻であり、育児院の母である。

 芽衣胡やここにいる戦災孤児たちを育てたのは秋乃であった。秋乃は柔和な顔で頬に皺を刻むと優しい声を芽衣胡の上に落とす。


「華菜恋さんがいらしてますよ」

「ありがとうございます。すぐに行きます」


 雑巾を片付けた芽衣胡は本堂の隣室に向かった。そこは客間である。

 失礼します、と中に入れば上等の着物を召した万里小路までのこうじ華菜恋かなこが背筋を伸ばして待っていた。華菜恋の後ろには乳母の娘、伊津いつが静かに控えている。

 華菜恋は父の不在のたびに家を抜け出し、光明寺にいる芽衣胡に会いに来るのだ。


「ああ芽衣胡、会いたかったわ」

「わたしもよ!」


 華菜恋の前に腰を下ろした芽衣胡の枝のような両手を、華菜恋のふっくらとした手が握る。

 鏡に写したように瓜二つな瞳に、鼻に、そして唇。


 けれど華菜恋と明らかに違うのは、かさついた肌に瘦せこけた頬。

 目の前にあるのが鏡ではないというように華菜恋の肌は艶々として頬には丸みがあり薄紅に染まっている。


「聞いて芽衣胡。とうとう日取りが決まったのよ」


 華菜恋の美しい顔があっという間に曇る。華菜恋の顔がぼんやりとしか見えない芽衣胡は空気の澱みと華菜恋の声の調子で悟った。


「松若家に嫁ぐの?」

「ええ。生まれる前から決まっていたことだもの。わたくしが十五歳になったから……」


 華菜恋の声が喋るたびに泥のように重たく沈んでいく。

 女は十五歳で婚姻を許されていたのだが、華菜恋はとうとうその十五を迎えたのだ。


「おばあ様と、松若のおじい様の約束?」

「ええ、そうよ。とんでもない約束をしてくれたものだわ」


 華菜恋の祖母は徳川の終わりを生きた公家の姫、万里小路梅子うめこ

 梅子がまだ若かりし折、万里小路一族の伊勢参詣が数年に一度あった。その道中の警護を任されたのが武家の松若家であった。伊勢へ向かう道中、賊に襲われた梅子を助けたのが松若清矩きよのりであり、それを機に梅子は清矩へ想いを寄せることとなる。密やかな文のやり取りから、人目を忍んでの逢瀬を重ねるものの二人が一緒になることは叶わなかった。


 梅子は皇女和宮が果たした公武合体に夢見たものの、一族の反対を押し切れず、従兄の万里小路春綱はるつなに嫁した。それでも諦めきれなかった梅子は清矩と約束を交わす。


『いつの日か公家も武家も関係のない世になったなら己の子を結びましょう。子が無理なら孫に。孫が無理なら玄孫に、この無念を託しましょう』


 華菜恋は何度も聞いた祖母の昔話を思い出し、ふらりと頭を横に傾げて足を崩した。


「おばあ様も松若のおじい様も自分たちの子どもが男しか生まれなかったからって、孫を犠牲にするなんて……。わたくしが男だったらあのような家になんて嫁がなくて良かったのに……」


 華菜恋の瞳に涙が浮く。空気がしっとりと重くなったのを感じた芽衣胡はおぼろに見える華菜恋の顔に手を伸ばした。


「泣いてる?」

「だって夫になる相手は『鬼のアカシ』と異名を持つ男よ。鬼だなんて恐ろしくて恐ろしくて……。嫁いだが最後、殺されてしまうのだわ……」


 めそめそと泣き始める華菜恋の背に手を伸ばし幼子をあやすように、よしよしと撫でる。


「『鬼』なんて言われているの?」

「そうよ、目だけで人を殺めるという噂まであるわ。そんな人の元に嫁げるわけないでしょう? 嫌よ、嫌。嫌嫌……」


 そのまま華菜恋はしばらく「嫌嫌」と繰り返し泣いていた。芽衣胡はどうすることも出来ず、また何と声を掛けていいものかと悩むが、華菜恋に掛ける言葉がついぞ見つからなかった。

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