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第18話

それは、突然の出来事だった。

「謙介くん」「別れよっか」

緋鞠は、何かと戦っているような、辛そうな顔をして僕に言った。

わけがわからなかった。理由を聞いても、「ごめんね」と、教えてくれなくて、これ以上嫌われるのが怖くて追いかけられなかった。

緋鞠はそれ以降、たまに学校にきて、たまに学校を休んだ。

誰かが緋鞠のことを噂するわけでもなく、休んでいる理由がなんなのか。今、緋鞠はどんな状態なのか。なんの情報も僕のもとには回ってこなくて、心配で仕方なかった。

そして、一ヶ月と三週間がたった頃、先生は暗い顔で教卓の前に立った。

「夏岡さんは、昨日でこの学校を辞められました。寂しいとは思いますが、来週は修学旅行です。人生最後の修学旅行、楽しみましょう」

朝のショートホームルーム。滝沢先生はそれだけ言って、教室を出て行った。

僕は、崖から突き落とされた気持ちを隠しきれなくて、地面をふみしめる感覚もないまま、トイレの個室に籠って泣いた。乙女かと、自分の弱さに呆れた。振られてもなお、こんなに緋鞠のことが好きで、諦めきれなくて。せめて学校で顔を見れるだけでもいいと思った矢先、辞めたと報告を受けるなんて、僕はどれだけ不幸なんだ。

緋鞠に会えない一日は地獄のように長くて、バカみたいだけど、緋鞠よりも素敵な人は今後現れないと確信していた。

そんな状態で修学旅行なんて行けるわけがなくて、楽しむ気になんてなれなくて、僕は直前になって学校で自習をする選択をした。

「じゃあ、お昼まで自習をして、十二時過ぎたら帰っていいからね」

保健の先生が指定された空き教室でそれだけ言って、保健室へと戻っていく。どうやら最初の点呼と十二時の点呼のときに出席が確認できればいいらしい。みんなが旅行先で楽しんでいるからという配慮だろうか。

右隣も左隣も、どちらを見ても顔は見た事あるけど話したことの無い、陰キャらしい奴ばっかりで、パッとしない。気分が変わることなんてない。

まぁ、だからといって修学旅行に行って楽しめるかと言われると、そういうわけではないから、どちらを選ぶべきだったのかは今でもわからない。

とりあえず開いたノートに、文字を書く。

漢字の勉強とか、英語の単語をひたすら書くとか、そういう身につくものではなくて、無意識に書いていたそれは、緋鞠の好きなところ。

『・笑顔が可愛い。

・何事も頑張る姿が輝いている。

・僕のことだけじゃなくて、家族のことも心配してくれる。

・隠し事が苦手。

・迷惑をかけることは頑なに強がる。

・真面目だけどノリがいい。

・誰かを悲しませることが苦手。

・泣き顔が綺麗』

……気持ち悪いな、僕。こんなんだから振られたんだ。きっと。

消しゴムを強く押し付けて、擦る。何度も同じ強さで往復させていたからか、消しゴムにクレーターができてしまった。

失恋からあんなに時間が経っているのに、なんでこんなに嫌いになれないんだろう。思いが止まらなくて、今すぐ会いに行きたくなるんだろう。

せめて、僕を振った理由が知りたい。どこがダメだったのか、教えてほしい。そこを直すことができたら、緋鞠に見直してもらえるだろうか。

そんな切実な僕の願いが通じたのか、緋鞠と一番仲がよかった里片さんが、修学旅行から帰った次の日、山のようなお土産を持って学校に来た。来たかと思ったら、いきなり僕の前に仁王立ちして、僕に約束を取り付けた。「今日の帰り、時間作って」と。

もう両親が海外赴任から戻ってきた僕にとって、今は以前よりも自由で、そのくせ縛られていて、息苦しい。失恋で落ち込んでいるのに、家のことを手伝わないと小言を言われる。そんな家に帰りたくない。帰りが遅くなるなら、時間ならいくらでも作った。

「それで、何の話?」

夕方、明らかに日が短くなった秋の終わり。

一度振った相手と二人きりの教室で話すのは、いくら緋鞠の友達とはいえ申し訳なくなった。別れたくせに彼氏面してる自分も、重くて嫌になる。

「緋鞠の話。私、二人のこと応援してるから」

机をふたつ挟んだ若干遠い距離で会話を進める。

僕と緋鞠が別れたことを知っていること。その理由も、教えてもらったこと。

その全貌を教えてもらう前に、里片さんは「もう山戸くんのことは吹っ切れてるから安心して」と付け加えて、僕に聞いた。

「どんな現実でも、緋鞠のことを受け入れるって約束してほしい。絶望しても構わない。私がそうだったから。でも、それを緋鞠に見せないでほしい。きっと、山戸くんに別れたい理由を言わなかったのは、それを見たくないって思っていたところもあるだろうから」

「わかった。約束するよ」

余計な接触はしないまま、距離を保って里片さんの話を聞く体制を作る。里片さんでさえ絶望したその事実を受け止める覚悟は、間接的に聞くにはあまりにもハードルが上がっていて少し怖気付いたけど、すぐにしっかり固まった。

「緋鞠はね」

途切れ途切れ、少し鼻をすすり、涙を零しながら、里片さんは話してくれた。

緋鞠は病気で、余命が残り半年ほどしかないこと。

僕に幸せになってほしくて、別れを告げたこと。

僕を振ってから、どれほど辛そうだったか。

要点だけをまとめると、すぐに話が終わったように感じるけど、里片さんが話し始めてから二時間は経っていた。泣きながら話している人と、泣きながら聞いている人。たまに話が止まるから、長くなるのも無理はない。

「今日、緋鞠と会う約束をしてるんだけど、どうする?山戸くんが行く?」

誰かに渡した形跡のない机の上の大量のお土産は、緋鞠のためだったのかと、疑問に思ってすらいなかったくせに、謎に納得する自分がいる。

「僕が行ってもいい?」

このチャンスを逃したくなかった。もしかしたら、今日行かなかったら、もう行けないかもしれない。

「うん。そのために今日、時間作ってもらったんだから」

寂しげに笑う里片さんは、僕よりずっと男前だった。

「ありがとう」

「いいから、早く行きなよ」

僕の背中を押して、手を振っていた。さすが、緋鞠の友達なだけあって、力を持っている。

緋鞠の一番の友達が、里片さんというのがよくわかる。それほど二人は、どこか似ていてどこか違う、家族のような信頼があるのだと、緋鞠の家へ向かう道で感じた。

走って走って、今までにないくらい早く走った。信号待ちで止まっている時間がもどかしい。早く会いたい。顔を見たい。軽蔑されても構わない。どうしても、好きをもう一度伝えたい。

ピンポーン……。

インターホンを鳴らす頃には、空は真っ暗になっていた。走って汗をかいたからか、少し冷える。

「はい」

「緋鞠さんの友達の、山戸です」

……友達。彼氏という肩書きを失ったその四文字は、やけに寂しく聞こえた。

「ちょっと待っててね」

大人びた声。きっとお母さんだろう。緊張で、手が汗ばむのがわかる。

「緋鞠ー、お友達が来てくれたよ」

通話終了にしていないのか、中の声が筒抜けになっている。声をかけようか、どうしようか。そう悩んでいると、ずっと耳に入れたかった緋鞠の声が聞こえてきた。

「杏鈴?」

「山戸くんだって」

「山戸……?ちょっと待って、調べるから」

緋鞠の言っている意味がよくわからなかった。僕の苗字を調べるとは、どんな意味が込められているんだろう。苗字を検索にかけたところで、何になるのだろう。

「山戸、山戸……。あ、謙介くん……?」

声のトーンが落ちた。来るべきじゃなかったかな。いきなり里片さんの代わりに僕が来るのはお門違いだったか。

「とりあえず外は寒いでしょう?今開けるからね」

「ちょっと、お母さん!」

やっぱり帰ろう。嫌がっていることに間違いはない。好きな人を困らせてまで、無理やり顔を合わせるのはさすがに重いのを自覚している僕でも気が引けた。

「あのっ」

断ろうと声をかけるも、一歩遅かった。インターホンの向こうは静かで、数秒後、玄関ドアが開いて緋鞠にそっくりな顔の女性が出てきた。

「寒かったでしょ?どうぞ、上がって?」

向こうに、一セットのスリッパが準備されているのが見えて、断れなかった。いや、僕は欲望に負けた。どうしても、一目でいいから緋鞠の顔を見たかった。病気でも、元気に生きている姿をこの目で見て、安心したかった。

「おじゃまします」

靴を脱ぎ、用意されたスリッパに履き替え、リビングに通される。何度か来た、あのときと変わらない。強いて言えば、少し、家族の温かさが増している気がする。家族写真が増えて、緋鞠の両親がそこにいた。それは、緋鞠が余命約半年の、病人だからだろうか。

「謙介くん、元気?」

別れた割には普通に話してくれることに驚いた。なんなら、少し照れているように見える。きっと、それは自意識過剰なだけだろうけど。

「うん。緋鞠は?」

気をつかって部屋から出て行ってくれた緋鞠の両親に心の中で感謝を伝えて、会話を続ける。

「元気だよ」

たわいもない話をしようと思ったけど、一度別れた彼女と何を話そうかと考えて、つい、聞いてしまった。

「緋鞠は、なんの病気なの?」

口にしてから、やばいと思った。単刀直入に聞いてしまったことに後悔した。

デリケートな話なのに、土足で踏み込んだようなものだ。

「ちょっと待ってね」

それでも緋鞠は嫌な顔ひとつせずに、僕に手紙をくれた。淡い水色の封筒に入った、僕宛ての手紙。

「帰ってから読んでほしい。また会おう。ちゃんと、覚えておくから。だから、今日は帰ってほしい」

教科書をイヤイヤ音読したような棒読みで、緋鞠は僕に伝えて、微笑んだ。

「わかった」

受け取った手紙を片手に、家を出た。もう来るなと言われるかと思ったから、また会おうと言ってもらえたことが嬉しくて、玄関の前で泣いた。

家に帰ってすぐ、自分の部屋にこもって手紙を読んだ。糊付けされていない封筒から、二枚のベージュの便箋が出てきた。

『謙介くんへ

いきなり別れ話をしてごめんなさい。もう、謙介くんの隣に新しい彼女がいますか?好きな人はできましたか?

できていたら、もう気にならないかもしれないけど、何も言わずに振ってしまった罪悪感がどうしても抜けなくて、こうして自己満足な手紙を書いています。ちゃんとかけているか、自信はないけど、本当のことを書くね。

私は謙介くんが好きです。きっと、絶対、この手紙をこうしてあなたが読んでいる今も、好きです。でも、もう一緒にいられない。私は、卒業できずに死んでしまうから。

驚いたよね。私、病気なの。

"一年制記憶忘却症"っていう、認知症を凝縮したみたいな病気で、余命は一年。もう、色々忘れかけているから、詳しい説明はできないんだけど、人の名前も、思い出も、何もかも全部忘れて死んでいくの。いつか、謙介くんのことも忘れてしまう。付き合っていることも、忘れてしまう。きっとそれは、謙介くんにとってすごくすごく苦しいこと。私はそうだから。そんな思いをしてほしくなくて、別れようと思いました。

後悔してないと言ったら嘘になる。だって好きだもん。そばにいたい。でも、いつも頑張ってる謙介くんに、これ以上負担をかけたくなかった。だから、許してね。

きっと、この手紙を読んでいる時にはもう、私はこの世にいないから。

大好きだよ。幸せになってね。    緋鞠』

時々涙を落とした跡がある。インクが滲んでいる箇所がある。

今すぐに、緋鞠を抱きしめたかった。

「それでもいいからそばにいたい」と、伝えたい。

寝ている時間さえももどかしくて、学校で授業を受けている時間もそわそわして。帰りのホームルームが終わってすぐ、教室を出て走った。

会いたい気持ちが先走って、息が上がっているのに苦しくない。不思議と足が軽い。

インターホンを鳴らし、名前を名乗る。昨日の今日だからか、すんなり家に入れてもらえた。

「謙介くん、久しぶり」

緋鞠はリビングでお茶を飲みながら、僕にそう微笑んだ。

「うん。久しぶり」

昨日会ったことを忘れているのだろうか。この速さは、やはり少し驚いてしまう。

「どうしたの?」

「今日は、どうしても伝えたいことがあって。僕は」

そう、絶対伝えると決めていたことを口にしたとき、緋鞠が急に苦しみ始めた。頭を抑え、唸っている。

「緋鞠、どうした?」

肩を叩いてみるも、苦しむだけ。

廊下で緋鞠の両親を呼ぶと、焦った顔をして二人はリビングに駆け込んだ。

お父さんは手首で脈を測り、お母さんはどこからか取りだした血圧計で血圧を計っていた。

急いで救急車を呼び、やってきた救急隊に、二人は医師と看護師だと告げて、僕も一緒に救急車に乗り込んだ。

何も出来ない僕には、無力という言葉がよく似合った。

処置を終えた緋鞠は、酸素マスクを手でずらし、息苦しそうにしながらも僕に話しかけてくれた。

「私、一年も持たないみたい」

途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。その姿は今にも消えてしまいそうで、涙をこらえきれない。

「泣かないで。私ずっと、謙介くんのこと見守ってるから。もう、シンデレラの魔法は解けてると思ったけど、それはあのときじゃなくて今日なんだろうな」

僕は泣いて、緋鞠は笑っていた。

無言の時間、廊下の話し声が僕の耳まで届いた。三割の同じ病気の人が、こうして急変して命を落とすと。その原因は、病気を受け止められない、診断されて間もない頃、薬をしっかり服用していなかったことが主だそうだ。そして、最期は記憶が戻ることがあると。

「なんか、良くない予感は感じてたの。長くないって、わかってた」

「そんなことないって。たまたま今日、体調が悪かっただけで」

僕が言うと、緋鞠はゆっくりと首を横に振った。

「多分、もう時間がない。自分の身体のことだから、なんとなくわかるの」

今度は僕が首を振った。そんな憶測、認めたくなかった。

「ねぇ、謙介くん。好きだよ。だから、お願い。私の分も生きて、幸せになってね」

「一緒に幸せになろう?まだ、未来はあるって」

「そうなれたら、嬉しかったんだけどね」

緋鞠は泣いた。綺麗な泣き笑いだと思った。

しばらく黙ったかと思ったら、心電図モニターがうるさく鳴り始めた。僕は一瞬、息が止まった。ナースコールを押す前に、看護師さんと緋鞠の両親が駆け込んできて、心臓マッサージを始めた。

そこからはほとんど、覚えていない。

死亡が確認された緋鞠は、とても穏やかな顔をしていた。すっきりした、と言うように。

僕は全然、すっきりしないよ。

全然受け止められない。

明日も会いに行ったら、顔を見れる気がする。

まだ、なにもしてあげられていない。

……ただ、ひとつわかったことは、約束された確実な未来なんてないってこと。

明日が絶対に来るとは限らないこと。

それなら、僕は生きる。生きて生きて、生き抜いて、いつか三途の川の向こう側に行ったとき、お土産話をたくさん持っていこう。

緋鞠は、自分のせいで誰かが傷付くのを嫌うから、今は上辺だけでも元気に過ごすよ。たまに、思い出して涙を流すだろうけど。

まだ受け止めきれない今を抱えて、僕は明日も明後日も、緋鞠と再開する日に向かって生きていく。

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君に思い出を伝えるために 桜詩 @haruka132

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