第17話
「高校をやめようと思っています」
両親と三人で、そのテーマで一時間近く話したあと、連れてこられた教室で言われるがまま、いくつも持ってきた手提げ袋に教科書を詰める。辞書のように分厚いものから、いとも簡単に円柱に変えられるほど薄いものまで、教えてもらった出席番号のロッカーにはぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「これ、全部ですか?」
「うん。運ぶのは手伝うから、詰めるのは自分たちでやってね」
先生であろう若い男性は、それだけ言って教室を出ていった。
職員室近くの会議室で、お母さんとお父さんが私の病気のこと、それで学校を辞めることを今、担任含め学年主任、校長に話している。
教室は、来週は修学旅行だと、後方の黒板は浮かれているのがわかるほど落書きされていた。
「緋鞠!」
放課後、やって来たのに、どこから聞きつけたのか杏鈴が血相を変えて教室へ入ってきた。
「杏鈴、どうしたの?」
「どうしたの?じゃないよ」
走ってきたのか、肩で息をしている杏鈴は、泣いていた。そして、怒っていた。感情が忙しそうだと、他人事のように思った。
「学校辞めるって、どういうこと?」
「言ってなかったっけ?私、来年死ぬの。一年制記憶忘却症なんだ」
他のことは忘れるのに、毎日飽きるように見る自分の病名と余命だけはスラスラと口から出てくる。これが現実かと、笑えてしまう。
「聞いたよ。知ってる。わかってる」
私が笑っていることに対してイラついたらしく、声にトゲが混ざっていた。
「それなら」
「でも、一緒に修学旅行行くって約束したじゃん!班も同じで、私、すごく楽しみにしてたのに」
「ごめんね。でも、もう決めたことだから」
荷物を全て詰め終えて、引きずるように持ち出す。袋ふたつ分。こんなに、記憶に叩き込むことなんてできないなぁ、と虚しくなる。
「……手伝うよ」
「ありがとう」
一人一つ。分け合う幸せを、ここで実感することはできなかった。
「山戸くんには話したの?」
「山戸……?」
「山戸謙介くん」
「話してないよ。謙介くんには、話さない。別れた仲なんだから、話す必要ないでしょ?」
「……そうだけど」
納得いかない様子だけど、それよりもずっと、未だ忘れられない好きな人の苗字を忘れていたことがショックすぎて、話している内容があまり頭に入ってこなかった。ちゃんとそれらしい返答をできていたのか、どう返していたのか、こういうことももう、すぐに忘れてしまうようになっていた。
「明日から、学校来ないの?」
「うん。今までありがとう」
こういう場面、きっと泣くんだろうなと、もう杏鈴にも謙介くんにも会えない未来のことを考えて思う。
「こちらこそだよ」
目に涙が溜まっていく。今にもこぼれ落ちそうなほどうるうるに溜めて、それはさっと止まった。
「ねぇ、これってどこに持ってくの?」
ふと冷静になった。そういえば、どこで話しているんだろう。
「忘れた……」
「まじか。えー、とりあえず教室戻ろ」
きっと、私の病気を今、目の当たりにして実感しているところだろう。一緒にいることさえ、苦に思うかもしれない。
来た道であろう道を戻り、教室の隅に荷物を置く。
「席は、覚えてる?」
学校を休んで七日。覚えてなどいなかった。
「わかんない」
「私の隣」
そう、杏鈴は席に座った。ここだよ、と言うように、右隣の机を叩いている。
「いいの?座って」
「うん。だって、緋鞠の席だよ?」
そっか、私の席。引きずる音を立てながら、自分の席に座った。椅子はひんやりしていて、そこから見る緑の黒板は異様に懐かしさを感じる。
「ねぇ、私、黒板に落書きしてみたい」
触れてはいけないもの、という意識が強い中で、杏鈴しかいないこの状況はおいしかった。きっと共犯になってくれるし、先生もきっと許してくれる。
「いいね、それ」
二人で立ち上がって、チョークを片手に反り立つ黒板に落書きをする。
『ありがとう』とか、後ろの黒板を真似したよくわからない絵だとか、手がチョークまみれになるまで、杏鈴と笑いあって絵を描いた。
お揃いの制服は、粉まみれになった。
指紋には粉が詰まって、指紋がない手みたいになった。
たまに、当たり方が悪くて耳障りな音を立てた。
それでも楽しくて、やめられない。やるなと言われるとやりたくなる。その気持ちがわかった気がした。薄れゆく記憶の中で、背徳感を覚えてしまった。
「緋鞠」
「ん?」
散々汚した黒板を、黒板消しでなかったものにする。どこか見覚えのあるような、そんな謎の感覚が私を襲った。
「また、遊びに行ってもいい?」
「うん。たまに顔を見せて。私の記憶から、一生杏鈴がいなくならないように」
あ、そういうことか。今、消している黒板は、私の記憶を表しているように感じたんだ。
楽しいことも楽しくないこともすぐに忘れてしまう。それを、目に見えてわかるようにしてもらったように感じたんだ。
「緋鞠、お待たせ。帰ろうか」
お父さんが荷物を軽々と持ち上げて、お母さんは私の手を取った。もうすぐなくなる家族の形が、暗い空を見せる窓に反射していた。
「杏鈴ちゃん、ありがとう。帰り道、送っていこうか?」
「大丈夫です。また、遊びに行く約束をしたので。今は、家族で素敵な時間を過ごしてください」
そう、笑顔で言った。お母さんもお父さんも、「ありがとう」と頭を下げていた。
先生は、鼻を啜っていた。泣いてはいなかったけど、目元は赤く染まっていた。
「ねぇ、私がどんなに批判されることをしても、友達でいてくれる?」
別れ際、私を引き止めた杏鈴は不安そうに聞いた。
「うん。まかせてよ。私、そんなことすぐに忘れられるから」
自分の胸を得意げに叩いて見せた。今日は、どうやら調子がいいらしい。
「ありがとう」
杏鈴は笑った。私も、笑った。
この思い出を最後に、私はこの学校を辞めた。
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