第16話

夜、こんなに遅くまで起きていたのは初めてだった。夏休みが明けてから、カレンダーを見る限り既に一ヶ月が過ぎている今日、やっとお母さんにこの話をする決意が固まった。

「ごめんね、遅くなった」

「大丈夫。ありがとう」

カバンをソファに置いて、私の前に座る。

先生に、まだ話していないのかと怒られながら診断書をもらっていた。それを見せてしばらく様子を伺っていると、お母さんの頬には、静かに涙が流れていた。

「いつ、わかったの?」

「もう、覚えてないの。先生が言うには、八月上旬だって」

手元のノートを見て、話す。本当はボロボロの、一桁のテストも見せないといけないけど、まだノートの中に隠されている。

「だから最近ちょっと、お母さんのこと避けてたんだ」

「うん。……気付いてたんだ」

「それは、自分の娘のことだからね」

空気が重かった。息苦しくなるほど、背中が丸まるほど重くて、耐えられない。

「ごめんね。こんなふうに育って、ごめん」

親より先に死ぬなんて親不孝者だと、気まずくてつけたテレビドラマでちょうどそう言っていた。それなら、私も親不孝者に該当するだろう。親より先に死ぬ。それに加えて、親の顔も名前もわからなくなるなんて、親不孝者もいいところだ。

「謝らなくていいの。私が悪いの。きっと、私が緋鞠を産むときに、ギリギリまで働いてたから……」

こんな状態のお母さんに、畳み掛けるようにお願いをするのは気が引けたけど、今言わないと言えなくなりそうだ。どうしても、今日この場で、言わないと。

「お母さん、お願いがあります」

隠し持っていた、酷いテストを見せる。いつもなら怒るお母さんも、納得している様子だった。

「入学させてもらって、たくさんお金を使ってもらって、こんなお願いは怒られるってわかってる」

棒読みになっていないか、そこだけが心配だった。どれだけお金がかかるのか、それはこの話をしようと調べたばかりで、とりあえずたくさんのお金がかかっていると言うことしか理解できなかったから。具体的な金額を見ても、それがどれだけ大きくて、はたまた割と小さいのか、覚えていなかったから。

もう、自分でもわかるほど、私の脳はポンコツになっている。

そりゃあ、そうもなる。教えてくれる人がいないから、机の上の目立つ場所に置いてある薬を飲み忘れてしまうことがしょっちゅうあるし、「歩いていますか?」という先生の質問も、そんなこと言われてないです、と思わず口からこぼれそうになった。とりあえず肯定の意で頷いたけど、その大切さを熱弁された。それでも尚、やっていない。治療に前向きではないから。きっと、私の人生は、長くての一年半も持たないだろう。どうせ全て忘れて誰彼構わず迷惑をかけるなら。身勝手で、人騒がせな人間になるなら。一刻も早く死にたいとまで思っている。

だから、もうこれ以上学費なんて払ってもらう筋合いはない。

「私、高校を辞めたいです。勉強をしても、テストまで覚えていられない。……卒業する前に、死んでしまう。だから、今月で辞めさせてください」

来月は、修学旅行があるらしい。今日、先生が班決めの用紙を私たちに配っていた。

だから、それまでに。学校を辞めたい。

ちゃんと出席しているけど、杏鈴の力がないと学校生活も一苦労で、まるで私の専属介護士だ。友達にそんな高校生活を送ってほしくない。

「緋鞠は、それでいいの?後悔しない?」

しないと言ったら、嘘になるかもしれない。でも、それは今の記憶がある時間だけ。忘れてしまったら、後悔も何もなくなるのだから。

「うん。病気がわかってから、ずっと決めてたことだよ」

「……わかった。じゃあ、お母さんからもお願いがある」

「なに?」

「仕事をやめようと思う。でも、それは緋鞠のせいじゃない。緋鞠と、一緒にいたいってずっと願ってた。だから、反対しないでほしい」

カーディガンの袖で涙を拭いて、笑顔を向けてくれる。なんだか安心する。無根拠な安心の気持ちをくれるのは、『お母さん』だからだろう。

「じゃあ、とりあえず出かけよう。楽しいことをしに行こう。いつまでもしつこく記憶に残るような、濃い思い出を作りに」

「……うん」

きっと、何もかもわかっていて、それでも笑ってくれている。お母さんは、寛大な人だ。

「どこに行こうか。お父さんも誘う?」

「うん。誘う」

「家族旅行なんて、久々ね」

ワクワクしている、とは程遠いけど、その優しさが嬉しくて、記憶からなくなることが寂しい。辛い。

「いっぱい写真撮ろうね」

「そうね。アルバムいっぱいになるくらい、撮ろうね」

そんな話をして、何日経ったのかはわからない。かろうじて分かる情報は、まだ、学校に籍がある十月の出来事だということ。お母さんとお父さんと三人で、新幹線に乗って名古屋駅で降りた。

「味噌カツとひつまぶし、どっちがいい?」

ガイドブックを見て、目を輝かせているお母さんは、銀色の時計の近くのエレベーターを降りて、地下街を歩く。

「どっちも美味そうだな。緋鞠はどっちがいい?」

どっちがいいと言われても、それがなんだかわからない。なにも頭に浮かばない。

「お父さんは?」

「ひつまぶしが食べたいかな」

「じゃあ、そうしよう」

優柔不断じゃないお父さんが、特にお店を選ぶわけでもなく、近くにある『ひつまぶし』の暖簾が掛かったお店に入った。

「ひつまぶしって、なに?」

案内された席に座って、前に座る両親に聞いてみる。メニューに乗った写真で見ると、それがわかるような、わからないような。

「うな重に薬味を乗せて、出汁をかけて食べるんだよ」

「薬味?」

「ネギとか、わさびとか。名古屋メシと言ったらひつまぶしだよな。母さん」

「そうね。それか、味噌カツ」

向かい合って笑い合う、幸せそうな二人の姿。忘れたくなくて、写真を撮った。スマホで、こだわりなんてなんにもない、思いつきの写真だけど。あと半年、思い出すのに使うには、十分だろう。

「お待たせいたしました」

目の前に置かれるそれは、こんな私でもわかる豪華なもの。きっと、すごく奮発している。

「おいしいね」

涙が流れた。何に対してかは、わからない。ただポロポロと、しゃくりあげながら食べるご飯はあまり味がしなかった。勿体ないけど、どうせ味も忘れる。写真にも何にも残せないから、きっと今日の記憶の中から一番最初に消え去るのだろう。

「美味いな。久しぶりに家族揃っての食事は、何倍も美味いな」

お父さんも、涙ぐんでいた。隣のお母さんも、目が潤んでいた。

はたから見たら、旅行に来て泣きながらご飯を食べる異常な人たちなのかもしれない。

二人の真似をして、薬味を入れてそれを食べ、その上に出汁をかけて最後の三口を食べた。

お店を出ると、次は電車に乗って水族館へ行った。シャチが有名らしい。さっき、お母さんの持っているガイドブックを覗いたら、そう書いてあった。

窓口でチケットを購入して、館内に入る。薄暗い空間の、右側の大きな水槽には、さっき写真で見たシャチが、優雅に泳いでいた。隣にはイルカ。向かいには、白イルカのベルーガ。

泳いでいる姿は、悩みなんてなさそうで羨ましい。病気とか、そういう苦しみを言葉で伝えられることがないからその分幸せだろうな。

「みて、あの子。飛び込むのを怖がってるみたいで可愛いわね」

「あぁ。思い出すな。初めてプールに行ったときの緋鞠みたいだ」

なんだろう。夫婦のイチャイチャを見せつけられている気分だ。二人と手をつなぎ、間に挟まれている私は、消えかけている記憶の中でもわかるほど気まずい。居ずらい。

「次行こうよ」

「そうだな。このペースで行くと夜になっちゃうもんな」

そう、ペンギンのコーナーを離れて、クラゲを見た。もう、水族館を出るころには記憶は曖昧で、たくさん見たのに覚えている生き物は片手に収まってしまう。

その日はそのままホテルに泊まり、翌朝、名古屋発祥の有名チェーンの喫茶店でモーニングを食べた。パン、添え物、塗り物を選び、ドリンクを選ぶ。コーンスープが美味しいらしいと、お母さんが得意げに話すから、私もお父さんも、それを選んだ。お母さんは、勧めておいてホットコーヒーを頼んでいた。

朝食を摂り、神社へ行った。「きしめんが美味しいんだって」と、朝ごはんを食べたばかりなのに抑えきれない楽しみを口にしていた。

二礼二拍手一礼。

この手順で神様にお参りするのよ、とお賽銭を入れる直前で教えてもらい、その通り動き、目を強くつむって願った。

死ぬのは構わないから、せめてこれ以上記憶は失いたくないと。そして、私が死んでからも、お母さんとお父さんが笑顔で生きていけますようにと。

自然が豊かで、息がしやすい。人はそれなりに多いけど、嫌な感じがしなかった。

目的を果たし、名古屋駅に戻った。

金色の時計の前で自撮りで家族写真を撮り、少しだけ買い物をして、帰りの新幹線に乗り込んだ。

「楽しかったね」

心が明るくなって、いい刺激を受けられた家族旅行だった。

一瞬たりともこの日のことを忘れたくなくて、帰りはずっと、撮った写真を眺めていた。思い出せないこともあれば、曖昧だけど記憶にあることもあり、まだはっきり思い出せるものもある。この基準はなんなんだろう。よくわからないけど、このままずっと覚えていられたらいいのにと、窓の外を眺めながら思った。

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