第15話

次の日、私は学校を休んだ。

寝不足でクマはできているし、バカみたいに泣いたせいで目も腫れている。こんな酷い顔で学校に行けない。それになにより、謙介くんに会うとまた泣いてしまいそうだった。

喉を通らない食事は、冷蔵庫に入っているフルーツゼリーで賄って病院で処方されている薬を飲んで部屋に引こもる。

もう両親は仕事に行っていた。学校には自分で電話をして休みを手に入れた。話すことはネットで調べて、それを読み上げた。

「まだこんなに好きなのに……」

なんでこういうことは忘れられないんだろう。忘れたくないことは、少しずつ私の記憶から消え去っていくのに。

カメラロールを見て、トークルームを見て、思い出を振り返ろうにも、振り返るための記憶がないことで現実を突きつけられる。

付き合っていた事実は覚えているのに、告白の言葉も場所も、日付も天気も覚えていない。

付き合う前、どんな関係性だったのか。

どちらから告白したのか。

きっと、ここ最近まで記憶にあった大事なことが全て、この一晩で抜け落ちた。感覚だけど、そんな感じがした。

『今日も遅くなります。ごめんね』

ちょうど学校が終わって、いつもなら帰り道を歩いている時間帯にお母さんからメールが入った。

『わかった。頑張ってね』

それだけ返して、スマホを閉じる。寝ようと布団を頭から被り直したとき、インターホンが鳴ったのが聞こえた。

宅配便だろうか。それならまだ、やり方がわかる。

「はーい」

ドアを開けると、杏鈴が立っていた。手には半透明のビニール袋を持っていて、なぜか驚いた顔をして一瞬フリーズした。

「ちゃんとモニターで確認してから出てこないと。危ないよ?」

「あ、ごめん」

モニターとは何ぞやと思いつつ、とりあえず謝っておく。聞くと、厄介になりそうだ。主に私の事情で。

「なんか元気そうで安心した」

「ありがとう。あがってく?」

「……そうしようかな」

靴を脱いで、来客用のスリッパに履き替えてもらってから、リビングのドアを開ける。途端、なにかが鳴っている音が聞こえた。

「緋鞠、冷蔵庫開いてるよ」

「え、うそ。ありがとう」

なんでだろう。今日、冷蔵庫に触れた覚えはないのに。

「それより、緋鞠が休んでて山戸くんも寂しそうだったよ」

冷やかしのつもりだったんだろうけど、今の私にとって、それは大ダメージだった。

「報告が遅くなったんだけどね」

本当は言う予定なんてなかったのだけど、言っておくべきだと予定を変更した。病気のことを話すついでに、謙介くんと別れたことも杏鈴には全て話そうと。

「知ってるよ。付き合ったってことは昨日話したじゃん」

よかったねー、と私を小突く。なんだか少し空元気な声に申し訳なくなる。それが何に対してなのか、その原因はよくわからない。思い当たるのはただ一つ。仮病で休んだからかな。

「別れたの。昨日」

「そうでしょ?……え、なんて?」

「別れた。謙介くんと」

「嘘でしょ?なんで?まだ付き合ってまぁ、言うて一ヶ月くらいしか経ってないでしょ?」

そこまでちゃんとした日付感覚はもう持ち合わせていないから、そんなこと言われてもって感じだけど、とりあえず「うん」と頷いた。ここ半月で身につけた、その場を乗り切るための得意技で。

「だから今日、休んでたの?」

その問いに、もう一度頷く。今度はちゃんと、わかった状態で。

「……ごめん、嘘ついた」

だめだ。誤魔化したら。病気のことを打ち明けるって決めたんだから。まだ揺れ動く覚悟を持って、絶対に聞かれるであろう「なんで?」の前に、さっきの発言を撤回した。もう、あとには引けない状況ができあがってしまった。

「どこが嘘?別れたのが嘘?」

「それは、ほんと」

もう、泣きそうだった。私の涙は枯れることを知らないらしい。既に目は潤んでいる。視界が歪む。口にする度、もう謙介くんが隣にいない未来が瞼に浮かぶから。

「じゃあ、何が嘘?」

ドクン、と嫌に心臓が脈打つ。手が震える。信頼しているけど、これが私たちを引き裂く原因になったらと考えると背筋が凍る。

「いつ、謙介くんと付き合ったのかわかんない。付き合った事実は覚えてるけど、時系列がわかんない。いつ、どこで、どんな風にその関係になったのか、覚えてない。いつから謙介くんと、どんな関係があったのか、もうわかんない」

途中で止めると言えなくなりそうで、一息で言い切った。まだ、話的には序盤だけど。

「え?……は?何言ってるの?こんな短期間で、そんな大切なこと忘れる子じゃないでしょ?」

そんなの、知らない。自分がどんな子か、そんなのもう、説明できるわけない。完全にまだ頭に残っている記憶だけで、必死に勘づかれないように過ごしてきたんだから。

「知らない。わかんない。杏鈴にとって、私ってどんな子?教えてほしい」

「どんな子って、それは、思い出を大事にするし、友達思いで優しくて、それでも嘘が苦手で、山戸くんを好きなこと、隠せてなかった。すぐにわかった。大事な人を、本当に愛おしそうに見つめるから。緋鞠は。それは、友達である私にもだよ」

どういう意図でそう言ったのか、読めない。ただ、いつもよりもずっと優しくて、寄り添ってくれているのはちゃんと伝わった。まだ、ちゃんと杏鈴のことは記憶に残っていた。

「ねぇ、全部教えて。胸に抱えてること、全部」

あ、この子なら大丈夫だ。確信ではないけど、ちゃんとわかった。話しても、ふんわりしたお布団みたいに、どんな私でも受け入れてくれる。

「私、病気になっちゃった」

その一言を発するだけで、悔しくて泣いた。

確実に病気に蝕まれていく日々が苦しくて、病気になってしまったことが悔しくて、どれだけ頑張っても治らない現実が痛くて仕方ない。

「……どんな?」

「一年制記憶忘却症。絶対に治らないんだって。余命は、一年」

何度も調べて、毎日調べて、同じ記事を読んだ。現実から少し離れていてもいいから、奇跡が起こった人がいないかと探すために。探したけど、私に当てはまる病状の説明だったりとか、見分け方だとか、そういうのばかりがヒットして、スマホを閉じるのを何度も続けた。

そのせいかな。そんな、未来のない現実はまだ忘れられない。謙介くんを好きな気持ちと同じような感覚。

「……嘘だよね?嘘って、言って?」

杏鈴は泣いていた。私の手を強く握って、時折声を漏らしながら。

「嘘じゃないよ。本当だよ。いつか、わからなくなる。今日のことも、謙介くんと付き合っていたことも。隣にいる人の名前も。だから、別れたの。謙介くんには、幸せになってほしい」

「それじゃあ、緋鞠の幸せはどうなるの?」

当然のように、杏鈴は言った。そこら辺を歩いている、普通の人と話すのと同じテンションで。一瞬、病気だと忘れてしまいそうなほど、杏鈴の目は本気だった。

「いいの。私のことは。未来なんてないんだから。幸せをもらっても、どうせ覚えてられないんだから」

「そんなことっ」

「私、後悔してないよ」

自分に言い聞かせるみたいになってしまった。そう思えば、楽だろうって。忘れるまでの我慢だって。

「本当に?それでいいの?」

「うん。杏鈴がこうやって、私のこと思ってくれてるだけで十分、幸せだよ」

そう思う今の気持ちに、嘘はなかった。

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