第10話
花火大会の次の日、頭は痛くて目眩もした。ぐるぐると回る天井を見て、気分は下がった。幸せからかあまりよく眠れなくて、朝ごはんのお味噌汁の火をつけて、それを消すのを忘れて鍋を丸焦げにしてしまった。つけておいたご飯は冷めていて、それが発覚したのは朝ごはんに全粒粉の食パンをそのまま食べ終わったあと。
「ちょっと、ひまちゃん大丈夫?」
「ごめん。大丈夫」
仕事帰りにお母さんの実家から大量に届いた白桃を取りに来た三つ上の従姉妹の香子ちゃんが、焦げ臭くなった鍋の火を切って私の顔をのぞきこんだ。
「怖いなぁ。認知症のおばあちゃんみたいなことしないでよ」
冗談半分で笑って、鍋に水をためる。
香子ちゃんは高校を卒業したあと、介護のお仕事に就いた。だから年に合わないことをすると、よく年配の人に例えられる。
「寝不足で。気を付ける」
「なに、なんかあった?」
「ちょっと、いいことあった。だから別に悩んでるわけじゃないよ」
「そっか。ならいいんだけど」
家庭的な香子ちゃんは、鍋に重曹を入れて火にかける。それをグツグツ沸騰させて、綺麗なお鍋に戻してくれた。
「証拠隠滅しといたから。次から気をつけなね」
火の元に関してはうるさいお母さんを知っているから、きっとここまでやってくれる。私が家事が苦手なことを知っているから。香子ちゃんは、私の本当のお姉ちゃんみたいで大好き。
「ありがとう」
「ん。まぁ、こういうこともあるよ」
香子ちゃん用に取り分けられた桃の袋を持って、またねと玄関から出て行った。
まだ部屋には、焦げ臭い中に味噌汁をぼんやり感じる、頭痛を悪化させるような嫌な匂いが残っている。
換気扇を回したらなくなるかな。窓を開けておけばより早いかも。そんな思いつきから、キッチンの換気扇を回し、リビングの窓を開けた。
暑いけど、エアコンの効きは悪いけど、この匂いから逃れられるなら別に気にならなかった。
『おはよう、緋鞠』『よく寝れた?』
窓を開け終わって、追いかけてくる眠気からソファに寝転がってスマホを見ると、謙介くんからメッセージが届いていた。
『おはよう』『まだ眠いかも』
友達から恋人に昇格して、メールのやり取りも今までよりも一段と日常に入り込んで、文面だけでドキドキする。
『今日会える?』
すぐに既読がついて、そんなメッセージが送られてきた。
『会えるよ』『なんで?』
『渡したいものがある』『あとは、普通に会いたいだけ』
こういうことを言える人だとどこかでわかっていたけど、いざ文面にして目に見える形で言われると、眠気が一気に冷める。今すぐ玄関から飛び出して、走って謙介くんのところに行きたい気持ちでいっぱいになる。
『私も会いたい』『どこに行けばいい?』
こうなると重だるいはずの身体を起こすことは簡単で、睡眠不足からか、少しまだ小さい鉛が残っているような重みは感じるけど、学校に行くために朝起き上がるときよりかは何十倍も容易だった。
『迎えに行くよ。何時くらいがいい?』
『謙介くんのタイミングでいいよ』『三十分あれば、準備も終わるから』
髪の毛をセットして、軽くメイクをする。その時間は、謙介くんが家を出てから私の家に着くまでの約三十分間で終わる。不器用な私が可愛いヘアアレンジをするのは不可能に近いから、毛先を巻いてポニーテールをすることにした。プチプラのコスメで高校生らしくナチュラルメイクをして、膝丈のデニムワンピースに着替える。
準備が終わって、数分。インターホンが鳴って、モニターに映る謙介くんに嬉しくてつい手を振った。向こうは見えていないのに。
「おまたせ」
モニターのスピーカーから聞こえる声がくすぐったい。
「今から行くね」
はやる気持ちを抑えて、モニターの終話ボタンを押して家を出る。
靴を履き、玄関のドアを開ける。ドアの前には、正真正銘謙介くんが立っていた。
「いきなり誘ってごめんね」
「全然!お母さんもお父さんもお仕事行ってて一人で暇してたし、私も謙介くんに会いたかったから」
歩道に続く敷地内の三段しかない階段を降りきったあと、何かを思い出したようにくるりと振り向いた。
「緋鞠、鍵締めた?」
「……あ、締めてない」
いつもは忘れないのに。浮かれているからだろうか。はたまた、寝不足だからだろうか。
準備をしているときは感じなかった頭の痛みが戻ってきて、つい頭を軽く抑えてしまった。心配をかけたくないから、人前では体調が悪いと示唆させる行動はあまり取りたくないと、心の中では思っているのに。
「今日はおうちデートにしよっか」
謙介くんは顔を歪ませることなく、きっとどこかへ行くはずだったプランをへし折って変更案を提示してくれる。きっと社会人になったら、仕事が出来る期待の星になりそうだ。
そのときは、同棲していたりするのかな。「おかえり」「ただいま」が言い合える未来が待っているのかな。そうだったらいいな。
「緋鞠?」
「あ、ごめん。なんだっけ」
変なところで想像をして、話していたことを忘れてしまった。
「いきなりで嫌だったらあれだけど、もしそうじゃなかったらお邪魔してもいい?」
私の頭を、髪が崩れないように優しく撫でながら微笑む。彼氏であり、兄の顔だ。心実ちゃんのお兄ちゃんをしている、優しい兄の顔。心実ちゃんには悪いけど、私はこの人の妹になれなくて良かったと本気で思った。
「うん。ごめんね、私が……」
「大丈夫。どこかに行くことじゃなくて、緋鞠に会うことに意味があるから」
ユーターンをして自分の家に入り、謙介くんは「おじゃまします」と靴を脱いで、揃えた。
「こっち。座ってて。お茶とジュース、あとコーヒー。どれがいい?」
冷蔵庫の中にある飲み物のレパートリーを言葉で並べる。
「お茶、もらおうかな」
リビングのソファに腰掛けた謙介くんは、こちらを見て「なにか手伝うよ」と心配そうに言った。
「大丈夫。注ぐだけだから」
氷を入れたガラスのコップを二つ並べて、トポトポトポ……と音を立てて冷えたお茶を注ぐ。パキッと氷にヒビが入り、グラスに氷がぶつかる高い音は、夏らしい涼しさを感じさせた。
「エアコンつけるね」
机の上、横並びにコップを置いて、百円均一のリモコンケースからエアコンのリモコンを取り出して冷房のボタンを押した。
「窓、閉める?」
「え、開いてる?開けてないはずなんだけど」
開けてないはずだけど、確かに窓は開いていた。庭に繋がる掃き出し窓も網戸になっている。
「僕閉めるから、座ってて」
そう促されて、私がソファに座るのに代わり、謙介くんが開いている窓を閉めてくれる。
「無理やり誘ってごめん。昨日も、今日も」
謙介くんはわかりやすく、申し訳なさそうに眉を下げた。
「え、なんで……?私嘘ついてないよ」
「最近、あんまり体調よくない?」
「……それは……。そんなことない」
言葉に詰まった時点でもう誤魔化しは効かないとわかっていながらも、つい気付かれたくなくて嘘をついた。
「緋鞠は嘘が下手だな」
空気を吐き出すように笑って、お茶を飲んだ。謙介くんの手の中で、カランと儚い音を立てる氷は、机に戻されて少ししたら、消えてなくなった。
「無理に聞き出そうとは思ってないよ。ただ、夏休み前から辛そうだなって見てて思ってた」
「気付いてるよね。あの日、迎えを呼ばないで一人で帰ったこと」
「うん。追いかけようと思ったけど、きっと里片さんのことで頭がいっぱいなんだろうなって、追いかけなかった。追いかけたら逃げたでしょ、緋鞠」
「うん。辛くて、逃げてた。きっと……絶対。でも今は幸せだよ」
間違いなく、幸せ。幸せなはず。ただ少し、体調が悪いだけ。
「ねぇ、不安なの。暗い言葉、聞いてくれる?」
「もちろん。いくらでも」
ソファの上に無造作に置かれた手を、包み込むようにそっと握って、優しく微笑んだ。
バカみたいな話を、嘘みたいな話を、笑わずに真剣に聞いてくれる。謙介くんなら。
「私、最近頭痛と目眩が続いてて、きっと、ただの疲れだとは思うけど」
すぐに終わりへと持っていく癖は、一度飲み込んだ。付き合ったのは昨日からだけど、四年間思い続けた時間と、その間に築かれた謙介くんへの信頼がある。大丈夫。それは、謙介くんの私のことを大事そうに見る目でわかること。
「でも、すぐに気持ちが落ちちゃったり、嫌な自分が顔を出す。一人になると、心がなくなったみたいな感覚になって、無性に辛くなる。杏鈴が振られたって知って、よかったって思う自分が憎らしい。こんな私、大嫌いって」
そう思う。そこまで言う前に、抱きしめられた。
「嫌いなんて言わないで。僕は、緋鞠のことが好きだから。どんな緋鞠でも、緋鞠は緋鞠だから。緋鞠がどんなに自分のことが嫌いだと思っても、僕がそんなこと忘れるくらい好きって伝えるから。だからほら、泣かないで、笑って?」
泣いていることに気付かなかった。緩んだ手の先で拭われた私の涙が、謙介くんの親指を濡らしているのを見るまで、淡々と話せていると、上手に話せていると過信していた。
「緋鞠、病院に行こう。頭痛と目眩は、しょっちゅうあるとしんどいでしょう?それに、なんともないってわかったら精神的にも安心するだろうから。ね?」
本当は病院なんて行かずに、自力で風邪みたいに治せると思っていた。いや、治そうと思っていた、が正しいのかもしれない。病院に行って、重い病気だと診断されたら怖いから。こういうことを考えているときは、ただの疲れとかストレスとか、そういう診断結果になることくらいわかっているのに。安心できると、どこかでは察しているのに。
「謙介くん、ついてきてくれる?」
ただ、流石に一人は心細かった。この際一緒に来てもらえるのであれば行ってもいいかもしれない。
「うん。僕でよければ、いつでも」
そこからは早かった。『頭痛と目眩 病院』で調べて、検索結果の神経内科に行くことにした。専門の病院が近くになかったから、バスで行ける大きな地元の記念病院に行くことにして、家を出る。
「おうちデートなのに、こんな日にしてごめんね」
終点の病院まで行く道中、バスに揺られる。
私は座らされて、謙介くんはつり革に掴まって私の前で立っていた。
「全然いいよ。それにほら、いつか思い出すときに笑い話にできると思うから」
確かに。いつか、時が経ったら。初デートはおうちデートで、流れで病院についてきてもらったけど結局なんともなかったよね。あのときは安心したな。それに、謙介くんと一緒だったから、行き先は病院なのにすごく楽しかった。
「そうだね」
目的は、ただなんともないと安心するため。なんともないとわかったら、きっとこの無条件に感じる不安もどこかへ飛んで行ってくれる。
深く吸った息を、細く長く、ゆっくり吐いて、謙介くんと手を繋いでバスを降りた。
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