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第7話

文化祭が終わるとすぐに一学期期末テストのテスト週間に突入した。

部活動は休止の中、委員会活動は通常運転でカウンターに座っているけど、図書室に来る人は誰もいなかった。

「緋鞠って、生物が得意だよね」

「うん。覚えればいいし、楽しいから」

あまりギクシャクした関係にはならず、今までと変わらない空気が私たちの間に流れていた。

「謙介くんは数学、できるよね」

一日目の数学と日本史は、両方私は苦手科目。

特に数学なんて、数字が並んでいるのを見るだけで眠くなってしまう。

「緋鞠は苦手だよな。わかんないとこあったら教えてあげるから、遠慮なく言えよ」

その代わり生物教えて、とお願いされるから、「もちろん」と返してテキストとノートを広げる。そこに広がる訳のわからない公式たちは、いつにもまして謎が多く感じた。初めて出会った、まだ予習段階の感覚が私を襲った。

「こんなの習ったっけ」

テスト範囲に指定されたページではあるものの、やはり習った覚えはない。ノートには、一応赤ペンで染まった同じ式が記入されていたけど。

「昨日の授業だよ。まあ、確かに緋鞠はうとうとしてたけど」

あぁ、だから。眠気と戦っていた循環を見られていたのは恥ずかしいけど、何よりも納得できる理由だった。

「これは、この公式当てはめると解けるよ。割と暗記系だよ。数学も」

なんて、できる人しかわからないようなことを言い始めた。確かに私は暗記系が得意だけど、数学もそれに該当するのなら、毎回赤点ギリギリ回避できるかどうかの点数ばかり連発させることもない。

「当てはめるのが難しい問題もあるから、嫌い」

「僕も好きか嫌いかで言ったら、僕も嫌いだけどね」

「え、じゃあ一番好きなのは?」

「自習」

真剣な顔で即答した。「当たり前じゃん」と、表情の奥から聞こえてきたような気がした。

「緋鞠は?やっぱり生物?」

テキストから目を離したまま、ペンを置いて背もたれに持たれた。

「私?えー、なんだろう」

「僕と話してるとき?」

「そうかも」

私が答えると、頬を染めて笑った。それにつられて、じわじわと私の頬も染まって、なんだかぎこちない空気が流れた。お互い照れて、話せない。甘酸っぱい空気が。

「あ、ねぇ、肝臓って毒素の分解と、あとなんだっけ」

何故かプリントの図をノートに写しながら、その歪な肝臓をペンでトントン叩きながら、言った。

プリントの縦に四つぐらい並ぶ括弧は、一番上の(毒素の分解)しか埋められていなかった。

それに繋がるように、ミミズが這ったようなあとがある。

「寝てたでしょ」

「うん。耐えられなかった」

そう話す今でさえ、目が眠いと訴えてきている。とろんとした目が可愛くて、つい笑いがこぼれてしまう。

「なに?なんか変なこと言った?」

「違う違う。眠そうだなーって」

「よく見てるね」

大きなあくびをして、両頬をつねった。

謙介くんのあくびが移って私も大きく口を開ける。そんな私を見て、謙介くんは小さく笑った。

「よし、やろう。緋鞠に教えてもらうし、ちゃんとしないと」

「じゃあ私も、ちゃんとわかることだけ教えるね」

聞く相手がしっかり聞いてくれるなら、間違ったことは言えない。

「知ってる?あくびって親しい人にしか移らないらしいよ」

二人してペンを握ると、早くも話は脱線した。

「え、そうなの?」

まんまと乗せられてしまう。そんなこといいから、とは全く思わなかった。この時間が、きっといつまでも記憶に残る時間だから。

「そうそう。どこかで聞いたんだよ」

「確かに、家族のあくびは移るけど、クラスメイトのあくびは確かにうつらないかも」

「何とか現象みたいな、名前あるのかな?」

謙介くんがスマホを取りだして、はっとした表情をした。そのままかばんにスマホを戻して、机に置いたペンを握った。

「勉強するんだった。ごめん、脱線した」

「私もごめん。楽しくて乗っかった」

笑顔でお互い謝りながら、身体を寄せあってプリントに視線を落とす。

「とりあえず埋めないとだよね」

「うん。そうだよな」

私のプリントを見るわけでもなく、教科書を開いて答えを探す。一枚、二枚とページをめくるたび、謙介くんの目は虚ろになっていく。相当苦手で、頭に入ってこないんだろうな。

「謙介くん」

「んー……。教科書だめだ。暗号が並んでる」

心做しかぽやぽやした口調。ひと目でわかる眠そうな顔。いつもはかっこいいのに、こういうときは可愛いらしい。反則だ。

「じゃあ数学やる?」

視界から追いやった数学のテキストを引っ張ってくる。

勉強なのに、眠くない。きっと、謙介くんが少しでも動いたら触れてしまうほど、近くにいるから。微かな息遣いがわかるほど近くて、静かな空間だから。

好きな人と二人でやる勉強は、眠くて集中できないというより、胸がドキドキして集中できないもの。確実に眠気を感じている謙介くんは、きっと私のことをただの腐れ縁でそばにいる、そこそこ仲のいい女友達としか思っていない。

「や、生物やる。生物教えて」

ぐぐっと伸びをして、肩を数回回し、自らの両頬を叩いた。

「ここは、教科書の……」

学ぶのが楽しくて何度も読んだ教科書を開き、臓器のイラストをペン先で指しながら説明する。

理解できてるのかできていないのか、微妙な頷きを繰り返しながらプリントの埋めそびれを一つ一つ、パズルのピースを当てはめるように埋めていく。

「二人ともお疲れ様。もう帰っていいよ」

時間になってやってきた先生に鍵を渡す。

テスト週間は職員室は原則入室禁止。テストの内容の流出を防ぐためだそう。どうせなら、いつも入室禁止にしてくれたら職員室まで返しに行かなくてもいいから楽なのに。

「まじでありがと」

「私でよければいつでも教えるよ」

そんな会話をして、きっと今回のテストもいつも通り、九十点を越えられると思っていた。なんなら、いつもの倍勉強したからいつもよりいい点を取れると思っていたのに。

「夏岡、どうした?調子悪かったか?」

気付いたらテストは終わっていて、返却された一枚のA3サイズの解答用紙を見て硬直してしまった。

だって、明らかにおかしかった。

あんなに予習復習して、なんならいらないことまでネットで調べて、謙介くんに説明できるほど勉強に力を入れた。一番力を入れていたはずなのに。名前の下の点数の欄には、赤ペンで三十三点と書かれていた。

私が記入していたのは記号問題だけで、あとは全部空白。おかしいよ。

「緋鞠のおかげで七十点超えたんだけど!」

私の気を知るわけもない謙介くんは、過去最高点だと授業が終わると同時に私の机の前に来て、嬉しそうに手を着いた。

私が教えたところは、全部あっていた。それなのに、教えたはずの私は全部空白。

「よかったね」

頑張って、絞り出して口を噤んだ。それ以上口を開くと、泣いてしまいそうで、最悪、なにか言ってはいけないことを口走ってしまいそうだった。

「緋鞠は?」

「過去最低だった」

「え、どうしたの?」

「わかんない」

わかんないよ。わかるわけないじゃん。だって、受けた覚えすらないんだもん。

「ごめん、トイレ」

逃げるようにその場を立った。

今の自分は真っ黒で、謙介くんに声をかけられることすら嫌に感じた。一人になりたかった。

自分はちっぽけだった。心が小さくて、そんな自分が嫌になる。

最近はやけに涙脆くて、トイレの個室で泣いた。身体中の水分が流れ出て、消えられたらいいのに、とまで思った。

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