第29話

キキミックは突然の抱擁に困惑しているようであった。己の生を喜ぶ人間が、これまでに誰一人としていなかったからだ。

 キキミックの知る人間はいたずらにいじめるか、迫害するか、殺そうとするか、そのいずれかであった。だが、エレノアはまるで、自らに責任を課しているような謝り方をする。だからなおさら、変な女だと、キキミックは思った。


「と、…と、ところで? あのサンドイッチとやらは、旨いのか?」


 キキミックは困惑を誤魔化すように咳払いをする。エレノアは抱き締める力を弱めると、花が咲いたような笑みを浮かべた。


「お腹が減ったのね…! オズも食べてくれたし、まずくはないと思うの!」

「ふ、ふん! たまたま、空腹を感じていただけだからな! 人間の作ったものなど、本来は食わぬが、オズ様が召し上がったというのなら…ご相伴に預かろう」

「嬉しい! もちろんよ」


 両手を合わせてエレノアは喜んだ。こしらえてきたサンドイッチを一つ手渡すと、キキミックはふてぶてしい態度で受け取る。

 エレノアはドキドキと胸を高鳴らせた。キキミックはしばらくサンドイッチを見つめると、意を決したようにぱくりと口にする。


「ど、どうかしら…」


 もぐもぐと口を動かすキキミック。エレノアとサンドイッチをじっと見比べて、今度は大きな口でかぶりついた。


「美味しい…?」

「…ふん、まあまあ、だ」

「そ、それは、まずくはないってことよね…?」


 キキミックは答えてはくれなかったが、サンドイッチを残さずにたいらげてくれたところから察するに、満足してくれたのかもしれないとエレノアは思った。


「残りのサンドイッチも、特別にキキミックが食してやる。寄こせ」

「ふふ…たくさん作ってしまったから、どうぞ召し上がって」


 こしらえてきたサンドイッチを差し出すと、キキミックはばくばくと食べつくした。


「ねえキキミック、聞いてもいいかしら」

「なんだ」

「この絵画なのだけれど……、城内にもこれと同じようなものが至るところに飾られていたわ。すごく、神秘的で…綺麗ね。宗教画が何かかしら…」


 キキミックがサンドイッチに夢中になっている隣で、エレノアは、ほう、と壁面を見つめる。そこには、神々しい光をまとった、黒い鳥のような姿が描かれている。かなり古い絵画なのか、ところどころ絵具が剥げてしまっていた。


「そうだ。我らが崇め奉る魔神デーモス様であられる」

「デーモス様……」


 その名前を聞いて、エレノアはハッとした。サンベルク帝国で語り継がれている神話において、古の時代に大厄災を招いた元凶が、その魔神デーモスであるのだ。理性を失った魔族を率いて大陸の安寧を脅かし、大陸全土を闇で覆った。

 女神オーディアを葬りし――…悪神と、されているはずだ。だが、絵をみるかぎりではとてもそのようには見受けられなかった。


「とても崇高で、ご温情溢れる神様であるのだぞ! どうだ、すばらしいだろう」

「…ええ、そう……ね」


 エレノアは何と返事をすればよいものかと喘いだ。


「そうだろうそうだろう。我らのオズワーズ様は、そんなデーモス様の生まれ変わりであるとの信託があるほどだ。森羅万象の力を受け継ぐ我が王は、人間などには絶対に屈しはせぬ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る