第26話

「レックス、どうかいい子にしていてね」


 エレノアは、ターニャの目を盗み、翌日もイェリの森の入り口にやってきた。もちろん、オズやキキミックに会うためである。

今日もお手製のサンドイッチをこしらえてきているのだが、キキミックは口にしてくれるだろうか。


 森の中に入ると、とたんに霧が深くなった。鬱蒼と茂る森が覆いかぶさり、陽光を遮断する。


「オズは…、また来ていいって言ってくれたのよね…?」


 地面から飛び出している木の根を踏み越えていく愛馬を宥めながら、森の奥へと進んだ。ふと、エレノアは思う。毎度訪れているのが昼間であるからか、他の魔物を見かけたことはない。

 凶暴で恐ろしいとされているそれに遭遇したのなら、人間のエレノアはひとたまりもないだろう。


 周囲を警戒しながら進むと、不思議なことにまた、大きなクスノキが生えているあの小川の畔にたどりついた。被っていたマントを脱ぎ、魔族の王の姿を探す。

 きらきらと光る蝶とともに、川辺に佇むオズの姿があった。


「オズ、ごきげんよう」


 どこを見ていたのか、無機質な瞳がゆっくりとエレノアへと向けられる。何度見ても綺麗な翼と角だ。静けさの中に際立つ艶やかさ。上品であるが、慎ましい。

 刺繍が施されている金色のマントが風にのって靡いていた。挨拶を返してはくれなかったが、エレノアを突き返さないあたり、受け入れてはくれているのだろう。不謹慎かもしれないが、エレノアにとってはそれがうれしくてならなかった。


「ここは昼間でも冷えるのね」

「……森の気候は、昼も夜も、そう違わぬ」

「そうね…森の外はあんなにお天道様が輝いているのに」


 エレノアは、魔族がどのように生きながらえているのかを知らなかった。伝承で伝え聞かされてきた魔族をこの目で見たことはなかったが、おそらくは、人間と住む世界を隔てているのであろう。

 するとやはり、このイェリの森でオズの同胞が暮らしているのではないか。


「……オズ様ぁ~! オズワーズ様ぁぁ!」


 しばしの沈黙が流れた時、落ち着きのない声が聞こえてきた。茂みの中から出てきたのは、茶色い毛玉のような生物。キキミックであった。ころころと転がるように駆けてくると、一つしかない目玉をぎょろりとさせた。


「げっ! 人間の女がいる!」


 エレノアの姿をとらえるなり、警戒したように後退するキキミック。そのままオズの背後に隠れてしまった。


「くそう、き、気づかなかった…。人間の匂いをオズ様が消し去ってしまわれたから…」

「あの、ごめんなさい。私、そんなに臭かったかしら…」

「そうだ! 忌々しい匂いだ!」

「…そう。魔族は人間の匂いが苦手なのね」


 エレノアは思わず、己の腕をすんすんと嗅いだ。毎日湯には使っているし、何より、女神オーディアが穢れを嫌う。身のまわりは清潔にしているつもりでいたが、それでも人間独特の匂いというものは消せないようだ。

 オズが消し去ってくれたことが幸いであったか。いや――、でも、それならば。オズはどうだったのだろう。不快であったのだろうか、とエレノアは気をもんでしまった。


「キキミック」

「…はっ、はい! オズ様」

「娘を、里に連れてゆく」

「…は、はい……って、えええええええええ!!!」


 エレノアはオズに嫌われたくはなかった。疎ましいと思われたくなかった。一人で鬱々としていると、オズは気にもしないそぶりを見せ、羽織物を翻した。


「なりませぬ! なりませぬなりませぬ!」


(里…? それは、魔族たちが暮らしている?)


「一体全体、どうされてしまったのですかぁ! あの人間嫌いのオズ様が、何故、人間の娘などをお招きに!? もし、万が一でも帝国からの間諜であったらどうなさるつもりなのですかぁ~!!」


 キキミックは短い手足をばたつかせて主君に抗議をする。だが、氷のような瞳を前にすると無力だった。


「キキミック、オーディア様に誓って、そうじゃないと約束するわ。人間のこと……今は、怖いし、疎ましいかもしれないけれど、私は、いつかあなたたちが憎しみあわない未来が訪れたらよいのにと思っているの」


 エレノアは、サンベルク帝国の皇女として、この世界の成り立ち、現状をこの目でもって知らねばならないのだと自らを奮い立たせる。

 民のために祈るだけではない。離宮に隠され、大切に守られているだけでは意味がないような気がした。子をなすことは重要であるが、それだけではなく、神話の時代より語り継がれている世界を知る。それは、己に課された責務であるように思えた。


「くっ…そのような綺麗ごとをっ…!」


 ぶるりと震えているキキミックに、エレノアは苦笑を浮かべる。


(どのようにすればお友達になれるのかしら。困ったわ、人ともろくに接したことがないものだから、こういう時の歩み寄り方が分からない。仲良くしたいのだけれど…)


 己に友がいたのなら。


 人並みに喧嘩をしたこともなければ、面と向かって嫌いだと口にされたこともないのだ。離宮の自室に置いてあった本は口をきかなかったし、小さな窓に浮かぶ月に語りかけても返事がくることはなかった。


(――…無力だわ)


 エレノアは肩を落とし、己の至らなさに喘いだ。


「その娘が間諜であるのなら、とうに殺している」


 王は、たった一言そう告げる。赤黒い紋章が浮かぶ右手を振り上げ、エレノアの躰を宙に浮かび上がらせた。


「そんなっ…オズ様ぁ! 人間を連れていくなんて、キキミックは嫌です嫌です嫌ですぅ!!」

「黙れ、くどい」

「ひいいい! オズ様が怒った! キキミックに怒った!」


 オズは大きな翼をはばたかせてエレノアのもとまでやってくると、そのまま腰を抱いた。満月のような瞳が、じろりとエレノアに向けられる。樹海のような森がざわざわと音を立て、王の意識と共鳴しているようであった。


「馬はあの場に、置いてゆけ。里に連れゆくと、食われるぞ」

「…えっ、あのっ!」

「マントを被っていろ。多少は、誤魔化せる」


(本当に良いの…?)


 オズの人間への憎しみは深いはずであった。それなのに何故、エレノアを受け入れてくれるのか。単に、命を救った恩人であるからか。それとも――。

 エレノアは魔族の王の腕に抱かれながら、深い深い森の中に入っていったのである。

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