第26話

「ただいま戻った」

「おかえりなさいませ、旦那様」


 日が沈んで数刻。千桜の帰宅時に出迎えるのは蓮華の役目だ。


 鞄を受け取ろうとすると、「自分で運ぶ」と制される。はな子いわく、千桜は身のまわりの世話を他人にやかせない。おそらくは、千桜にとっての矜持なのだろうとはな子は笑っていたが、蓮華にとっては死活問題である。


(何か、命じてはいただけないのかしら)


 ちらり、と千桜の横顔を見る。氷のような表情からは、勤めの疲れなど微塵も感じさせない。


 何かできることはないか。家にいるばかりで、何もできていない。今は憐れみを向けてくれているのかもしれないが、このままいくと、いつか不要だと切り捨てられてしまうやもしれない。


 蓮華は廊下を進んでゆく千桜のあとをついていき、千桜の着替えの手伝いをしようと試みる。軍服のボタンに手をかけた千桜をじっと見つめた。


「なんだ」


 千桜は、わずかばかり眉を顰める。


「お召し替えのお手伝いを、と思ったのですが」

「……よい。このくらい自分でやる」


 はあ、とため息をつくと、千桜は蓮華を一瞥する。


 千桜は昔から、使用人から過剰な世話を施されるのを嫌った。権力を思うまま振りかざし、傲慢な態度をとる華族たちを目にして嫌気がさしたのもあるが、そもそも手伝ってもらうまでもない、という考えが根底にある。


 だが。


「いや、少し横暴すぎたか」


 ふと思い直して、蓮華の正面まで歩み寄る。


「では上着だけ手伝ってくれるか」


 蓮華にとってはその一言がこの上なく胸に響いた。あたたかく、胸が弾む。この感情に名をつけるのならば、喜びか。


 ──だが、すぐにかつての主人の顔が思い浮かんだ。


(私のような人間が浮ついていてはいけない)


 ましてや、千桜に気持ちを聞くなどと烏滸がましい。


「はい、もちろんです。さっそく失礼いたします」


 蓮華が軍服のボタンに手をかける。千桜は、艶やかな蓮華の髪を見つめた。しばし無言が続き、振り子時計の時を刻む音ばかりが部屋の中で響いた。


 その静寂が妙な緊張を生む。蓮華の指先はぷるぷると震え、ボタンを外す作業が思うように進まない。蓮華は唇をきゅっと結び、自らを戒める。


 衣類の着脱すらまともに手伝えないようでは立つ瀬がない。役に立たねばならないのに、と気が急いでしまう。


「今日は」


 すると、頭上から千桜の声が降ってくる。


「今日は、何をしていた」


 見上げると窓の外を眺めている千桜の顔がある。蓮華は手をとめ、その美麗な輪郭を見つめた。


「読み書きの勉強をしておりました」

「お前はいつも勉強ばかりしているな。あまり根を詰めすぎるのもよくない。たまにはのんびり休んだらどうだ」

「休むなど、とんでもございません。物覚えがわるく、まだ書けない漢字がたくさんあるのです」


 蓮華は十三歳の頃、漢字が読めずに、美代や佳代に笑いものにされたことがあった。


 姉たちは、複雑な漢字が書かれた書物を蓮華に押し付け、華族の令嬢たちがつどうサロンにて音読をしろ、と命じた。


 当然、蓮華はそれを読めなかった。挙句の果てには「私たちの命令を無視するの?」と責めたてられる。蓮華はひらがなの箇所のみを読み上げるしかなく、見世物同然に指をさされて笑われたのだ。


 蓮華自身が蔑まれるのはかまわない。しかし、蓮華を迎え入れた小鳥遊家や千桜本人まで笑われてしまうようであれば、申し訳が立たない。


「熱心なのは良いが、きちんと休憩はとるように」

「はい」

「それから、ただ文字を覚える……というのもつまらんだろう。小説を読んでみるといいと思うのだが」


 ボタンをすべて外し終え、背中にまわって軍服を脱ぐ手伝いをする。壁にかけてあったハンガーを手に取り、丁寧にひっかける。

 ワイシャツ姿となった千桜は、書斎の本棚から数冊書物を取り出した。蓮華はそれを受け取ると、じいと食い入るように見つめる。


「小説……」

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